本書は平成三年の九月後半から十月半ばにかけて、短い期間のうちに仕上げた所謂
書下しの著作である。書下しといっても全

の各章とも全て私の手許に相当量書きためてあるノートに基づいて原稿としたものであり、特に新たに構えた思索の産物といったものではない。本書の原案をなすこのノートのそれぞれの部分を、私はこれまで断片的な形で諸種の雑誌や、ミニコミと称されている小規模の印刷物の類にたびたび発表している。殊に第五章は、同じノートに拠っているのだから当然のことだが、これとよく似た形のものを雑誌「正論」の平成三年三月号に掲載している。その他の各章も著者自身にとっていずれも新しみのない論説ばかり、というよりもむしろ
夙に言い古してしまったことの更なる繰返しという自覚がつきまとう、その点で少し恥ずかしい文章である。
こうしたことは、ましてそれをこう明らさまに打ち明けたりするのは、本書を購入して下さる読者に対して失礼にあたる、と心得るべきことであるのかもしれない。しかしもしその様なお叱りを蒙るとしたら、その点では私の考えは少し違う、と申し上げなくてはならない。それは、私が本書で述べている様な意見の何れもが、長い間極めての少数派のものと見做され(今でもそうかもしれないが)、それ故に軽視され、時に無視されてきた、その場合かかる少数意見の唱道者は、世人が多少ともそれに耳傾けてくれる様になるまでは、何度でも懲りずに同じことを口に上せ、筆に托して訴えるよりほかに手段はない、ということである。「東京裁判史観の克服」を根幹の主題として、そこから派生する系というべき諸問題、「靖国問題」「偏向教科書是正問題」「国防問題」等々について、私はここ十数年あまり、身の非力不才を顧みずに禿筆を揮って自分の考える所を世に訴えてきたけれども、もちろん何ほどの効果が挙ったわけでもない。そこで又しても本書を以て従来の主張を繰返すことになった、という次第である。
本書を企画し、内容の原案を作って私を唆したのはPHP研究所第一出版部の大久保龍也氏である。大久保氏の原案はなかなかよく出来たものであって、これに誘惑されて、私が上に述べた如き、年来の主張をもう一度ここに反復してみようという様な欲求をおこすに十分な魅力をそなえたものだった。結果としては必ずしも原案に忠実に沿った内容が実現したわけではなく、前記の私のノートの中身の方が表に出てしまった様であるが、それにしても、原案から始まって、執筆の督促、構成、表現、小見出し等の作成、校正、書物の体裁に至るまで、制作者としての大久保氏の尽力に負うている部分が甚だ大きく、ここに記して感謝を表す次第である。また本文中括弧を以て尊名を記しておいた通り、本書は多くの先達の研究・著作に種々の面で深く学恩を蒙っており、その方々にも巻末にて失礼ながら改めて厚く御礼を申し上げたい。
平成三年十一月下浣
著者