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さらば東京裁判史観
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歴史
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解説

『さらば東京裁判史観』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


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井尻千男 


 小堀桂一郎氏は稀れにみる文体の持ち主である。強くて美しい端正な文体。私が小堀氏の文章に接して、いつも感じるのは、日本語表現の美しい系譜を引き継いでいることに対する密かな敬意である。

 誤解されないよう急ぎいっておかねばならないが、それは個性的というようなことではない。個性的ということを安易にもてはやすことが今日的だとすれば、小堀氏の文体は明らかに反時代的といっていい。むしろ逆に、その個性的といわれるものに対して根本的懐疑を差し向け、あえて禁欲的に対処し続けることによって到達した文体といわねばならない。

 戦後に育った世代にしてみれば、その禁欲的姿勢というものは一種の修行のようなものだったと私は想像する。昭和八年(一九三三)生まれの小堀氏は、十二歳で終戦を迎え、戦後教育の只中で青春を迎え、豊かな感受性ゆえに文学者を志してドイツ文学を専攻する。その時代の特性を短い言葉に要約すれば、伝統破壊と自由の謳歌と個性の軽信が絶頂に達していたといえる。そして文学の領域に限っていえば、軟文学の最盛の時期だった。しかし小堀氏はその時代潮流を深く疑っていたに相違ない。つまり時代精神に対する禁欲という修行を己れに課したということだ。そうでなければ、これほどに強くて美しい文体がうまれるはずがない、というのが私の確信である。

 その修行の果てにというべきか、その甲斐あってというべきか、日本語表現の強くて美しい系譜が氏の中に流入し、氏を通じて流露するようになった。このことを再び文学史的にいえば、戦後は軟派文学中心に推移し、ほとんど硬派文学を忘れて久しかったのであるが、小堀桂一郎という文学者を通じてその硬派文学が蘇ったといえる。ここでまた急ぎいっておかねばならないことだが、歴史を語ることは立派な文学なのである。長い文学史に照してみれば、私事にこだわってみせるという文学の流れはほんの一部、ほんの一時のことといっていいのである。むしろ文学の正道は知情意のすべてを投入して歴史を語ることだったのではないか。

 したがって小堀氏が、東京裁判史観というものを語り、その呪縛の中にある教育問題や靖国神社問題を語るというのは立派な文学的営為なのである。しかも氏の世代にとってはそれが否応もない同時代史、己れの人生に対する価値判断を抜きにしては語り得ない性格のものだった。つまり、そのモチベーション(動機)の切実さによって歴史と文学が渾然一体になっているのである。あえて腑分けしていえば、それが社会科学系の論述の仕方と文学系の語りの差ということになるだろう。

 たとえば「序言――我が表象としての世界」の末尾の文章を引用する。
〈私がここで問題にしたいのは、具体的に言えば二十世紀前半という約半世紀の歴史的時間の中に込められた我々の世界像であり、とりわけその世界の中に位置して、その同じ時間を共に歩んできた我が日本の国の姿である。この期間に於ける国家として国民としての日本に就いて、現在の我々日本人自身がどの様な表象を形成しているか、そしてそれは実像との間にどれほどの近似性乃至は懸隔(けんかく)を有するものかという疑問の再検討であり、予想される歪みや偏向に対する修正の試みである。〉

 ここに小堀氏のモチベーションの基本構造が要約されている。一見哲学的思弁のようでありながら、氏の情熱の根拠が禁欲的に語られている。「その同じ時間を共に歩んできた」読者としても、わが内なる表象の「歪みや偏向」を再点検しなければならない。

 小堀氏の読者ならばすでに気づかれているであろうが、氏は歴史的仮名づかいと漢字においては正字体を頑固なまでに実践している数少ない文学者である。文庫収録に際してやむなく新仮名づかい、略字体に改変したと察せられるが、氏の言語観とその表われとしての文体を考えるときに、それは極めて重要なことといわねばならない。

 氏の文章について、私はかねて擬古文的味わいの深い文体だと思っている。視覚的にも聴覚的にもそうだ。それに加えて、朗読してみると、その特性がいっそうきわだつ。もちろん、この特性は文章の表面上のことではなく、氏の精神のかたちそのものの表われにほかならない。氏は日本語を愛し、そこに蓄積された能力を信頼している。少なくとも己れを愛する以上に、日本語を愛し信頼している。その確信の一つの表われが歴史的仮名づかいと正漢字使用に相違ないのである。

 その言語観は氏の古典的精神の表われにほかならないわけだが、戦後という特殊な時代背景を想起してみると、その確信の深さというものが察せられるのである。そこで若干、氏の来歴に触れておきたい。

 東京大学独文科を卒業したのち、氏はフランクフルト大学に留学し哲学を修めている。わが国においてドイツ哲学は戦前に隆盛を極め、それ故に戦後は(ちようらく)の底にあったわけだが、あえてその潮流に逆らったと思えるところに、氏の客気がうかがえる。そして文学研究の対象としては森外とゲーテを選んでいる。『「ファウスト」研究』で日本ゲーテ賞を受賞(昭和三十四年)し、『若き日の森外』で読売文学賞を受賞(同四十四年)していることからもわかるように、氏はこの二人の人間研究を通じて古典主義的精神の系譜に深く分け入ったのである。そのときからしてすでに、小堀氏の関心は文学を通じて文学を超え、人間研究を通じて人間を超え、悠久の歴史というものの神髄に迫っていたのである。

 そして小堀氏が密かに時代と斬り結ぶことを覚悟したのは『宰相鈴木貫太郎』(同五十八年大宅壮一ノンフィクション賞受賞)を書きながらだっただろうと推察される。鈴木内閣の成立は昭和二十年四月七日、米軍が沖縄に上陸を開始した直後のこと、絶対絶命のピンチ、日本史始まって以来の悲劇の極北、そのなかで終戦への方途を模索する宰相鈴木貫太郎を描きながら、学究の徒だった小堀氏が歴史の正統性を熟慮して語る発言者に変貌したのである。

 この軌跡をもって、七〇年代に起こった知識人たちの日本回帰と混同するわけにはいかない。小堀氏の精神のドラマはもう少し本質的なところで展開されていたというべきだろう。それを一言でいうとしたら、古典主義的精神というものが、いつの時代においてもしいられる闘いのかたちだったのではないか。少なくともそれは、状況論の中の保守回帰というようなものではなかったのである。

 政治というものを軸にしていえば、森外もゲーテも治者である。軍医総監として近代日本の兵制に尽力した外、フランス革命の混乱を横目に見ながらワイマール公国の宰相に就任したゲーテ。小堀氏が二人の生涯に見ていたものは文学や芸術だけではあるまい。人間と歴史にかかわるすべてのことを凝視せずにはすまされなかった。そして鈴木貫太郎にいたっては、同時代人として歴史の悲劇性を追体験せざるをえなかった。

 それら三人の時代と国を異にする偉大な人物の生涯を凝視した小堀氏がそのはてに確信するに到った人間観と歴史観とは何か。それを想像しつつ私は氏の文章を愛読するのであるが、そこにはもう私事にこだわる軟文学の気配は微塵もない。歴史に伏流する正統的なるものを救出して未来へとつなごうとする無私の精神があるだけだ。

 本書に収録されている文章はいずれも歴史の正統性を再発見し、それを未来につなごうとする精神にとっては不可欠のテーマである。東京裁判史観の徹底的批判は被占領期の呪縛から国民を解き放つことであり、教育基本法批判は国民の歴史を再確認するための前提であり、靖国神社問題は運命共同体と人間の生死にかかわる核心を感得することにほかならない。氏は国家観を語る最終章の終わり近くで、次のように述懐する。
〈我々は一つの民族として決して若い存在ではない。それどころか実は世界でも明らかに少数派に属するほどの古い、確乎たる連続性を保持した歴史の所有者であり、従って歴史の中に蓄積してきた民族の知恵の伝統も深く又重厚なのである。十九世紀の世界史の潮流に合せて、我々が厚く年輪を重ねたこの古い国家を若返らせ、近代国家としての再出発を遂げた時代を顧みてさえも、今ここに想起した福澤諭吉のみならず、数多くの先人達の苦心の思索と考察の跡を我々はいつでもり返してみることができる。〉

 小堀氏の立ち到った確信の一端が率直に表現されている。「確乎たる連続性を保持した歴史の所有者」という自覚を前提にすれば、明治という「古い国家を若返らせ、近代国家として再出発を遂げた時代」から今日までに繰りひろげられた悲喜劇もまた、巨視的に眺めれば回復可能の領域にあるということであろうか。いずれにしても近年の小堀氏はゆるぎない境地を確立していると思われる。

 想像するに、そこに小堀氏における孤立と連帯がある。つまり現在只今だけを見ていると孤立を深めることがあっても、巨視的に歴史を眺めれば大いなる連帯が成立するということである。私はそこに古典主義者小堀氏の歴史との幸福な出会いを直感するのであるが、そのことが読者を励ますことになることもまた間違いないのである。一人でも多くの読者が氏の文章を通じて歴史との和解をはたしていただきたいと願わずにはいられない。
(拓殖大学日本文化研究所所長) 
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