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日本人の品格
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生き方・教養
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十二章 武士道は日本民族の文化遺産である

『日本人の品格』
[著]岬龍一郎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:18分
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 現代人への警鐘を武士道に聞く


 武士道は、すでに何度も述べたように、もともとは戦場を駆けめぐるサムライたちの「武人の心得」として誕生した。だが、その精神は江戸時代に入って平和な世が続くと、儒教精神とからまって社会秩序を維持するための「武士の心得」へと変っていく。これはサムライ自身の基本的な役割が「武」から「士」へと移ったためである。
「士」とは、現代流にいえば為政者側の一員である「役人」のことである。だからこそ武士は、幼少から「公人」としての教育を受け、同時にそれは、庶民の模範となる「師」としての厳格なる精神を保つことが義務づけられたのである。

 こうした「武」から「士」への移行は、関ケ原の合戦後、三十年たった将軍家光の時代からすでに芽生え始めた。当時、近江聖人といわれた中江藤樹(とうじゆ)(儒学者)は、
「侍たるものが儒道をそしり、儒学をするは士のわざならずなどといえるは、まことに無下に無案内なることなれば、其恥じを知るべし」

 と、いち早く説いている(『翁問答』)。

 この立場を踏襲したのが、先に紹介した山鹿素行であった。山鹿はもともと軍学者として名を馳せた人物であったが、その彼自身が兵法論より士道論を力説する。というのも、山鹿の活躍した家綱・綱吉時代は江戸期でももっとも安定した時代で、すでに兵法論など必要がなくなっていたからである。

 平和な時代ほど武人(軍人)の肩身が狭い時代はない。すでに将軍家の威光は天下に鳴り響き、(いくさ)のない歳月が長く続けば、武士はいやおうなく己の存在理由に疑問が生じてくる。いったい、自分たちの職分は何なのか。庶民が汗水たらして働いているというのに、武士は支配者層としてただアグラをかいていてよいのか。そうした忸怩(じくじ)たる思いが武士たちのあいだに充満した。

 武士の武士たる本分は何か。その疑問に山鹿素行はこう答えたのだ。
「農・工・商にたずさわる人たちは、日々の仕事に忙しく“人の(みち)”など尽し得ない。だが、士にはそうした口実は許されず、義の実現に力を尽し、農・工・商の三民の手本となって、平和に暮せるように、この秩序を守りぬくことこそ本分なり」(『山鹿語類』)

 この言葉はそっくりそのまま現代の為政者たちにあたえたいものだが、かくして江戸時代の武士は、政治家・行政官であるとともに庶民の模範となるために、つねに自己の修養を重ね、儒教道徳の修得はもちろんのこと、その実践者となる道を選んだのである。この不文律を武士道というのだ。

 もちろん武士道は、それを実践する武士階層だけのものでは終らなかった。その精神が“人の倫”として尊ばれるようになると、一般の庶民にまで即座に普及した。人間としての“人の倫”には武士も農民も町人も区別はないからである。

 新渡戸博士も、こう述べている(『武士道』第十五章)。
《太陽が昇るとき、まずもっとも高い山頂を朱く染め、やがてしだいに下方の山腹や峡谷へと光が注がれるように、当初、武士階級を啓発した武士道の道徳体系は、一般大衆の中からこれに追従する者を引きつけた。美徳は悪徳に劣らず伝染しやすい。(中略)やがてサムライの精神は、日本民族全体の“美しき理想”となった。「花は桜木、人は武士」と歌われた俗謡は津々浦々までいきわたった。
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