世にはびこる者は憎まれる
「憎まれっ子世にはびこる」という諺がある。人に憎まれるような人間が、かえって世間では幅をきかせている、という意味である。新渡戸博士はこの意味を「世にはびこる者は憎まれる」と逆説的に解釈する。
どういうことか。本来、はびこるとは、「草木がひろがり茂る」という意味だが、それから転じて、よくないものの勢いがさかんになる、幅をきかせるなど、悪いほうの意味で使われるようになった。ところが博士は、これをはびこるほうの立場からとらえ、この行為は自分の天命をまっとうしようとしているのだから、天から見れば悪いことではないのではないかというのだ。
事実、世間にはびこる人を見ると、その多くは図々しく見えて憎まれがちではあるが、親しくその人に接して、その動機や行動を見ていると、むしろ感服することのほうが多いというのだ。つまり博士のいう「はびこる人」の意味は、社会において自分の主義主張を貫いている人、一途に物事を成し遂げて成功している人を示している。
たしかに、わが道を往くといった唯我独尊的な人や、これが自分の天職といって頑なに独立独歩する人は、ほかの人から見ればつきあいにくく、邪魔者あつかいされるかもしれない。だが、そのくらいの強い意志を持って進まなければ、何事も成功することはないのではないか、というのだ。
たとえば、キリストである。彼は自分の思想を忠実に実行したために、時の為政者からは邪魔者扱いされたし、旧宗教の人には憎まれたのである。ソクラテスにしても、当時の乱れた社会を批判したから処刑されたのである。このように、「世にはびこる者は憎まれる」というのも真実なのである、というのが博士の解釈である。
いわれてみればそのとおりで、もし誰からも愛され、誰からも好かれるような人がいたとしたなら、「八方美人」という言葉が悪い意味の言葉として使われるように、こういう人はよほどの偽善者か自分の意志のない人であろう。なにかを主張すれば必ず反対の意見をいう人が現われ、なんらかの行動を起こせば必ず他人との摩擦が生じる。それが世の中というものだ。
となれば、誰からも憎まれない「よい人」というのは、「どうでもよい人」であって、憎まれないというより相手にされていない人であり、何事も成し遂げることができない人ともいえるのである。ゆえに博士は、もし自分に主義主張なり志なりがあるのなら、たとえ憎まれたとしても「はびこる人」になれ、というのだ。幕末維新の推進者を見るまでもなく、歴史はこうした「はびこる人」によってつくられてきたのである。
人生はジレンマとの戦い
とはいえ、改革者や変革者といった高い志のある人はまだしも、普通、人は誰でも憎まれるのは気分のいいものではない。いやなことである。だが、いやだからといって「瓢箪の川流れ」のように浮き世のままに、あっちにふらふらこっちにふらふら流されるのは、これまた望むところではないはずだ。すこしでも自分の意志を持っている人や目的がある人は、必ず誰かに批判されたり反対されたりするのが世の常だと思って、それに負けずに進むくらいの意志が必要なのである。
むろん、いかにはびこるといっても、人に迷惑をかけるような傍若無人に振る舞えというのではない。独り孤立して世の中を渡れない以上、みんなと仲良くするためには配慮や遠慮も必要である。だが、反対があるから、妨害があるからといって、みずからの志を中途半端に終わらせてしまうのは、もっと情けないことではないか。問題は、どのようにすれば互いの調和がとれるかということである。
本来、何事かを成そうとする意志や義務の衝突は、根底においては矛盾するものではない。志や義務そのものは絶対的である。だが、その志や義務にも個人的には軽重、本末、大小、遠近といった相対的な関係があって、決して絶対的に同等ということはありえない。
だが、なにかを起こそうとすると、ここに自分と相手との間でその軽重、本末が問われ、実行するとなると衝突としての摩擦が生じるのである。これを、新渡戸博士はジレンマという。
どういうことか。身近な例でいうと、実母と嫁が口喧嘩をしているとする。間に立って聞いている夫は、それぞれの言い分がわかるので黙っている。このとき実母が、「あんたはどう思う」と息子に聞く。
息子としては双方とも一理あるので、母親の味方をするわけにもいかず、かといって嫁の味方をするわけにもいかず、「どっちもどっちだよ。ま、仲良くやれよ」といった答えで適当にはぐらかそうとする。すると実母と嫁の両方から攻撃が始まって、息子はとんだ災難となる。