仏教は「幸福学」である
釈尊の晩年のころの出来事である。
場所は祇園精舎──。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」と、『平家物語』の冒頭にうたわれたあの祇園精舎である。
阿那律という名の比丘(出家修行者)が、衣のほころびを繕おうとしていた。
だが阿那律は盲目である。それでも、繕いはできるが、針に糸を通すことができない。
そこで彼は、他人に協力をもとめた。
「誰か、他人に親切をして幸福になりたい人がおられたら、わたしの針に糸を通してください」
阿那律はそう呼びかけた。
すると、「では、わたしが親切をさせていただこう……」と、応ずる人があった。
阿那律は目が見えない。でも、声はわかる。それが誰の声だか、わからないはずがない。
まちがいなく、その声は釈尊であった。
阿那律は、あわてて針と糸をかくす。
「いいえ、お釈迦さま。わたしは世尊に申し上げたのではありません。誰か、他の修行者仲間に言ったのです」
「どうしてだね、阿那律よ。なぜ、わたしではいけないのだ?」
「お釈迦さまは、すでに悟りの彼岸に渡られた方でございます。幸福そのものであられます。いまさら功徳を積んで、幸福を求められる必要はありますまいに……」
「阿那律よ、それはちがう。そなたはまちがった考え方をしている。幸福の追求は、これでいいということはない。終りはないのだ。この世において誰がいちばん幸福を求めているかといえば、それはわたしなのだ。