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「皇帝・王様」たちの世界史
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歴史
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第四章 東洋中世の「皇帝・王様」たち

『「皇帝・王様」たちの世界史』
[著]島崎晋 [発行]PHP研究所


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押し寄せるモンゴルの嵐とイスラーム化の波


 匈奴(きようど)が衰えて以降、北アジアの覇者は鮮卑(せんぴ)柔然(じゆうぜん)突厥(とつけつ)、ウイグル、キタイ(契丹(きつたん))、ジュルチン(女真(じよしん))と移り変わり、十三世紀初頭には、新たにモンゴル族の台頭がみられた。モンゴルに一人の英傑があらわれたからである。その名はテムジン。のちにチンギス・カンの尊称を贈られた。

 チンギス・カンから数代の時を経て、モンゴル帝国はユーラシア帝国の東西に連なる大帝国に成長した。五代目のクビライのときには中国をも完全に支配下に置いた。

 時間の経過とともに、西アジアや中央アジアにおいては、その地域の民族・文化との融合がすすんだ。十四世紀後半、中央アジアを拠点に帝国を築いたティムールは、トルコ化・イスラーム化の著しくすすんだモンゴル人だった。

 モンゴル軍がやってくるより早く、中央アジアではトルコ人の進出がみられた。彼らはそこでイスラームを受け入れ、主に傭兵稼業に精をだした。やがて彼らのなかから、独自の国家を打ち立てようという者があらわれる。セルジューク朝を創建したトゥグリル・ベクはそのなかの一人だった。トゥグリル・ベクはシーア派のブワイフ朝を滅ぼし、カリフからスルタンの称号を授けられた。これよりスンナ(スンニ)派イスラーム国家の君主はスルタンを称号とするようになる。

 そのころ、バグダードのカリフは何の実権もなく、権威のみの存在だった。だが、それはスンナ派においての話で、シーア派を奉じたファーティマ朝ではカリフの権威さえも否定されていた。

 ファーティマ朝は現在のチュニジアに成立。のちにエジプトに本拠地を移した王朝である。異教徒に対してはおおむね寛容だったが、一時期だけ例外がある。それが奇行で知られた君主、ハーキムの御代である。ハーキムのおかげで、多くの教会が破壊されることとなった。

 アッバース朝のカリフの権力は、早くも十世紀頃から下降ぎみだった。十字軍が押し寄せてきたころには、イスラーム世界は大小無数の地方政権が割拠する状態にあった。

 十字軍の攻勢に対し、最初に有効な反撃をおこなったのは、アイユーブ朝の創始者サラーフ・アッディーンだった。西洋ではサラディンの名で呼ばれる英主である。

 当初、十字軍はエルサレムの攻略を目的としていたが、時代が下るにつれ、それも変わり、いつしかエルサレムを脅かす勢力の中心地、エジプトをめざすようになっていた。しかし、十字軍が押し寄せてきたとき、エジプトにはバイバルスという名将がいた。かのモンゴル軍を撃破した経験ももつ歴戦のつわものである。彼は数々の軍功をひっさげて、新たにマムルーク朝を創建することになる。

 八世紀までに、イスラームの信仰は、東はインド西北部、西はモロッコ、イベリア半島にまで及んでいた。モロッコの南には広大なサハラ砂漠が広がっているが、イスラームの信仰の波はそれをものともせず、サハラ以南の西アフリカにも及ぶようになった。十四世紀、ニジェール流域に栄えたマリ王国の王マンサ・ムーサはことに信仰心が厚く、多大な出費をものともせず、イスラーム最大の聖地メッカへの巡礼を果たしている。

 十六世紀、アジアには三つのイスラームの大国が並立していた。インドのムガル帝国、イランのサファビー朝、小アジアのオスマン帝国がそれである。サファビー朝は神秘主義教団によって建てられた王朝であり、中興の祖とされるアッバース一世の御代に美しき新都イスファハーンが築かれた。サファビー朝とライバル関係にあったのがオスマン帝国で、十三世紀末頃からにわかに台頭。北はバルカン、カフカス、南は北アフリカへと触手を伸ばし、スレイマン一世の時代に最大版図(はんと)を築くにいたった。

 このようにアジアの西半分でイスラーム国家の興亡が繰り返されていたころ、中国でも王朝の攻防が繰り返されていた。唐のつぎには、五代十国と呼ばれる群雄割拠の時代がつづき、それから宋(北宋)の時代となる。宋は女真族のために遷都を余儀なくされ(南宋)、最終的にはモンゴルによって滅ぼされる。モンゴルの支配は一世紀あまりつづくが、それを打ち倒して建てられたのが(みん)だった。宋は初代の太祖と二代目の太宗、明は初代の太祖(朱元璋(しゆげんしよう))と三代目の成祖(永楽帝(えいらくてい))を除いて、これといった君主がおらず、長くつづいたわりには、庸君・暗君の多い王朝だった。そのなかでもとくにひどいのが、宋では徽宗(きそう)であり、明では嘉靖帝(かせいてい)だった。

 中国では早くから漢字という民族文字が使われていたが、周辺諸民族のあいだでもしだいに独自の文字がつくられるようになった。朝鮮半島でも朝鮮王朝(()朝)の第四代国王、世宗(せいそう)のときに、独自の文字ハングルが考案されている。

 中国で宋朝が栄えていたころ、東南アジアの密林のなかで壮大な建築物が築かれていた。現在、世界遺産となっているアンコール・ワットがそれである。これを築いたのはスールヤヴァルマン二世という国王だった。


驚くべき宗教規律を民衆に強いた恐怖のカリフ

ハーキム(エジプト・ファーティマ朝)
(九八五〜一〇二一年)


 世界の歴史をとおして、イスラーム世界の異教徒に対する扱いは、キリスト教世界のそれと比べてはるかに寛容だった。だが、なかには例外もある。九九六年に即位したファーティマ朝の第六代カリフ、ハーキムがまさにそれだった。

 ファーティマ朝はシーア派の分派、イスマーイール派を奉じる政権で、全盛期には西はモロッコから東は紅海、北はシリアまでを版図(はんと)に収めた。ハーキムの代になっても、依然としてパレスティナを支配下に置いており、それゆえ聖地エルサレムの教会にも害がおよぶこととなった。

 それまでのカリフと違って、ハーキムは異教徒に対して徹底的な迫害をおこなった。全土のキリスト教教会を破壊するよう命令を発し、エルサレムの聖墳墓教会も例外とはされなかった。さらには、すべてのキリスト教徒に長さ約七十センチメートル、重さ約二キログラムの大きな十字架を常に携行するよう、ユダヤ教徒には外出のときに重さ二・五キログラムの木片を携行するよう義務づけてもいた。

 これだけであればただの宗教弾圧であるが、ハーキムの攻撃の矛先はそれだけにとどまらず、ムスリムにも被害がおよんだ。猟犬以外のすべての犬を殺せ、マルーヒーアという野菜を食べてはならない、ビールを飲んではならない、鱗のはっきりしない魚を売ってはならない、ナツメヤシの実を売買してはならない、すべての女性は日夜を問わず街頭に出てはならない、といった命令が矢継ぎ早に出され、違反した者は容赦なく処刑されたのである。

 ハーキムはその命令だけでなく、ふだんの言動からして変わっていた。大変な気分屋で、そば近く仕える者は始終脅えていなければならなかった。アインという黒人の宦官(かんがん)はハーキムから寵愛されていたのに、ある日突然、右腕を切られてしまった。そんなことをしておいて、ハーキムはアインに栄誉ある称号を与えたり、重要な官職をあてがったりした。そうかと思うと、今度はアインの舌を切らせ、その直後に莫大な褒美を与えた。こんなことが日常茶飯事だった。

 暴君といえば、贅沢や色事に溺れるのがふつうだが、ハーキムは違った。それとはおよそ正反対のきわめて禁欲的生活を送った。

 だが、ハーキムの場合、禁欲というのを超えて、何ともいいようのない異常さがつきまとっていた。髪は伸ばし放題で、爪も切らず、身につけるのは黒い羊毛織のマントと青いターバンと決まっており、決して新品と取り換えようとしなかった。常に汗と悪臭を漂わせていたわけである。

 そのようないでたちで、ハーキムは夜な夜な市街を歩きまわった。そのため市民は夜通し店を開けて、煌々(こうこう)と灯火をつけていなくてはならず、市街はさながら不夜城の観を呈していた。
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