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「皇帝・王様」たちの世界史
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歴史
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第五章 西洋近世の「皇帝・王様」たち

『「皇帝・王様」たちの世界史』
[著]島崎晋 [発行]PHP研究所


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絶対王政国家を築いた君主たち


 十六世紀から二十世紀初頭までの西洋史では、絶対王政・啓蒙主義・革命という言葉が大きな鍵となる。

 スペインは十六世紀ヨーロッパにおける最強の国のひとつで、早くに絶対王政が確立した。それだけに、国家の政治は君主の思想に大きく左右された。イサベル一世以来、カトリックの守護者を自任していたこともあって、宗教面では確固たる姿勢が示された。フェリーペ二世は異端審問に力をいれ、広く国中の民から恐れられるようになった。

 同じ時期、イングランドの王位にはエリザベス一世がいた。彼女は賢明にも、宗教政策では中庸を歩み、国内に大きな対立が起きるのを防いだ。そのかいあって、イングランドは国力を強め、強国の仲間入りを果たすことができたのである。

 女王といってもやはり人それぞれ、千差万別である。エリザベスとは対照的に、政治にはまったく関心を示さない者もいた。スウェーデンのクリスティーナがそれである。彼女は終いには、王位を捨てて信仰の道に入ってしまう。

 ロシアにおいて絶対王政を体現したのはピョートル一世である。彼は国力の増強と国家の威信を高めることに生涯を費やした。彼の御代を境に、ロシアは強国の仲間入りを果たすことになる。

 フランス絶対王政の頂点を極めたのはルイ十四世だった。「(ちん)は国家なり」などという言葉は、自分に絶対の自信がなければ決して口にできないものである。

 しかし、フランスにおける王権はルイ十四世の治世を境に衰退に向かう。そのあげく起こったのがフランス革命である。

 フランス革命にさきだって、イギリスでは十七世紀に清教徒革命が起きた。クロムウェルによる独裁期間を経て王政復古がなされるが、ときの君主であるジェイムズ二世が、宗教政策でのかじ取りを誤ったことから名誉革命が起こり、以来イギリスでは、「王は君臨すれども統治せず」が慣例となる。

 十八世紀は、知識人や君主のあいだで啓蒙思想がもてはやされた時代だった。啓蒙専制君主といえば、ロシアのエカテリーナ二世、プロイセンのフリードリヒ二世、オーストリアのマリア・テレジアが有名である。



 長い目でみれば、フランス革命は啓蒙思想の延長線上に起きた出来事といえるが、革命は理想どおりには運ばず、多くの血が流されることとなった。その混乱のなかから台頭し、権力の座についたのがナポレオンだった。ナポレオンはみずから皇帝の位にのぼったうえ、ヨーロッパ最大の名家ハプスブルク家から後妻をもらうなどして、権威を高めることにつとめた。

 ところが、その栄華も長くは続かず、ナポレオンの没落とともに、すべてはフランス革命勃発前の状態に戻されることとなった。その際、例外とされたのがスウェーデンである。ときのスウェーデン王は、フランス出身のベルナドット。早くにナポレオンを見限ったことから、生き延びることができたのだった。

 すべてをフランス革命勃発以前の状態に戻そうとしても、一度凋落(ちようらく)した権威を回復させるのは至難の業であった。運にも見放されたか、十九世紀のハプスブルク家はつぎつぎと悲劇に見舞われる。

 半世紀以上にわたって帝位にあったフランツ・ヨーゼフ二世は、それがために精神的に大きな打撃を受けることとなった。実弟のマクシミリアンはメキシコ皇帝の位につくものの、後ろ盾であるフランス軍の撤退とともに命運が尽き、銃殺刑という君主にあるまじき最期を遂げた。最初の皇太子ルドルフは愛人と自殺。愛する后エリーザベトは無政府主義者の手で暗殺され、二人目の皇太子としたフェルディナントは、セルビアの民族主義者に暗殺されている。

 オーストリア帝国は第一次世界大戦の末期に滅亡するが、同じ大戦のさなか、もう一つの帝国がこの世から消えた。ロシアのロマノフ朝である。最後の皇帝ニコライ二世は、家族ともども哀れな最期を遂げた。


異端審問に力を入れた不寛容な君主

フェリーペ二世(スペイン)
(一五二七〜一五九八年)


 カール五世(カルロス一世)はオーストリア、ハンガリー、ベーメン(ボヘミア)を弟のフェルディナントに、スペイン、フランドル、ミラノ、ナポリ、シチリア、サルデーニャを息子のフェリーペ二世に継がせた。フェリーペは母親がポルトガル王家出身であったことから、断絶によって空位となったポルトガル王をも兼任した。

 カールとは対照的に、フェリーペはほとんどスペイン本土から離れることはなく、カスティーリャ語しか話さなかった。一五六一年に宮廷をマドリードに定めてからは、行動範囲はさらに狭まり、離宮のあったセコビア、アランフェス、エル・エスコリアルに限られるようになった。

 フェリーペは常々、「異端者に君臨するくらいなら命を百度失うほうがよい」と口にしていた。それだけにカトリックによる国家統合をもっとも重視していた。すなわち、異端審問が強化されたということである。

 当初、取り締まり対象はコンベルソ(改宗した元ユダヤ教徒)とモリスコ(改宗した元ムスリム)に限られていたが、フェリーペはそれを全住民に広げ、精神的・道徳的統制までもおこなうようになった。民衆による冒涜(ぼうとく)涜神(とくしん)の言動から、姦通や重婚、魔術行為、さらには、聖職者の求愛行為にまで取り締まりがおよぶようになったのである。

 スペインにはプロテスタントは影も形もみえなかったが、フランドルでは事情が異なり、フランドル北部にはカルヴァン派の信者が多かった。これに対し、フェリーペは一切の妥協を廃し、総督のアルバ公に徹底的な血の弾圧を命じた。しかし、力で抑え込むにはカルヴァン派の勢力はあまりに大きく、鎮圧するどころか、逆に独立戦争を招来することになってしまった。

 こうした戦費の負担もあって、もとよりよくなかった財政事情はさらに悪化。在位中に二度も借財の支払不能宣言をしたあげく、没するときには、父親から引き継いだ借財の五倍もの負債を息子に残すことになった。


逆境を克服し、イギリスを一大強国に導いた女傑

エリザベス一世(イングランド
(一五三三〜一六〇三年)


 イングランドではヘンリー八世(在位一五〇九〜一五四七年)の代に、離婚問題を契機として宗教改革が開始された。イングランドに成立したプロテスタントは英国国教会の名で呼ばれる。

 だが、その後の道のりは平坦ではなく、メアリ一世(在位一五五三〜一五五八年)の代にはカトリックが復活する。プロテスタントを容赦なく弾圧したことから、この女王には「血のメアリ」というあだ名がつけられている。

 メアリは子供を残すことなく、在位五年にして世を去った。その後を受けて即位したのがメアリの妹エリザベスである。彼女はどのような宗教政策をとったのか。

 エリザベスが生まれたのは一五三三年。母親はヘンリー八世の二番目の妻、アン・ブーリンである。アン・ブーリンは男子を生まなかったことからヘンリーに嫌われ、エリザベスが二歳のときに「悪魔がついている」との理由で処刑された。このような事情を抱えていたがゆえに、エリザベスは幼いころから慎重な性格であったという。

 エリザベスは意志が強く、頭脳明晰な大人に成長した。家庭教師のロジャー・アスコムが、通常は女子には教えない弁論術や演説の指導もおこなったことから、彼女は人の心を打つ言葉を操る能力をも身につけていた。

 それにしても、二十五歳で即位したエリザベスは最初から宗教問題という難しい課題に直面することになった。教皇とは修復不可能なほど反目しており、カトリックの強国であるスペイン、フランスとも緊張関係にある。国内をみれば、いまだカトリックを信仰する者のほうが多数を占めている。このような困難な状況下、エリザベスが選んだのは中庸政策だった。即位の翌年に「国王至上法」と「礼拝統一法」を発布しているが、前者は国王を教会の首長ではなく統治者とし、世俗権力としての色彩を強めることで、国王が聖俗両面であることに抵抗ある人びとでも受け入れられるように工夫がなされていた。後者は、司祭に祭服着用を義務づけるなど、ヘンリー八世時代に比べ、カトリック色が強められていた。

 中庸政策は、ドイツやフランスのような宗教戦争が起こるのを防ぐための暫定的な処置であった。一五六九年にはカトリックの貴族による反乱が起こるが、一般のカトリック信者が女王支持にまわったことから、反乱はたちまち鎮圧されている。

 この事件を境に、エリザベスはカトリックに対する態度を硬化させ、プロテスタント色を強めていく。

 宗教問題と並んで、後継者をめぐる問題も早くから重要視されていた。
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