ステップ
呼吸に親しむお稽古
それでは坐禅のレッスン、ステップ

。
ここでは、まずは息の感覚を再発見して自分自身の息と、まずは親しんであげるお稽古をいたしましょう。
目のつむり方
まずは目を閉じてまいりますが、目を閉じる行為の一つをとってみても、なんとなく閉じるのでなく、そのときどんな変化が起きているのかを、新鮮な心持ちで観察しながら行ってみましょう。
自らのまぶたの感覚や目の前に見えている視野感覚に意識を向け、そこに発生している感覚を、ありありと実感するよう努めましょう。
普段はまぶたを開け閉めするとき、「目が閉じている状態」と「目が開いている状態」くらいにしか分けずに認識していることでしょう。つまり、「0」か「1」かといった風合いに、大ざっぱにしか認識していないはずです。
しかしながら実際は、「0」と「1」の間に、
「いまはすこしだけ閉じてきている」
「さらにすこし閉じてきている」
「だいぶ目の前が見えなくなってきている」
「ほとんど閉じきっている」
といったように、微妙な変化が猛烈なスピードで展開しているのです。
ぼんやりとした日常的な認識力ですと、この中間にある微細な感覚の変化をすべて見落としてしまいます。
ここでは、その微細な変化をしっかり感じとるために、あえて非常にゆっくりとした動作でまぶたを閉じてみましょう。一〇秒以上くらいの時間をかける心持ちで、まぶたをゆーっくり下ろしていきながら、刻一刻と変化する目の前の映像に向かって心を集中いたしましょう。
「いま、ここ、この瞬間、ここまで目をつむっていってる」
という、自覚をともないながら、ゆっくりと意識的に閉じてください。
まずは息と親しむお稽古
次は、呼吸の流れへと向かって、心をそっと寄り添わせてまいります。
おそらく普段の生活においてはいつも、無意識的に呼吸をしつづけてきて、そのときそのときにどのような呼吸をしていたかなど、ほとんど意識にのぼっていなかったことでしょう。
ひるがえって、いまは呼吸へ意識のセンサーを向け、息の“吸う”、“吐く”にともなって生じている淡い身体感覚をスキャンするように感じとってまいりましょう。すなわち、「息の感覚そのもの」を見つけて、その感覚のうえに意識を乗っけてあげるような具合にいたします。頭の中を通り抜けていく“考え”というヴァーチャルなもののことは放っておき、鼻や胸に生じているリアルな感覚へと、心を密着させます。
呼吸にあわせて、ありとあらゆる感覚がそこに発生しています。外の冷たい空気が鼻の中に入ってきたときの温度の実感、空気が鼻孔を通るときに鼻の中の粘膜をうっすらとこすってゆく接触感覚、胸が膨らんでいく感覚、お腹が膨らんでいく感覚。そういったものの一つ一つを、ありのままに感じとってまいりましょう。
鼻先から空気が入ってくるのを、感じとってみる。その空気が流れてゆくのとともに生じる感覚の移動を、意識で追いかけてまいりましょう。鼻先から鼻のてっぺんまで入ってきた空気が、そこから鼻の奥へと下りていく。そして、のどを通り抜け、胸を膨らませたり縮ませたりしながら通り抜け、お腹まで向かっていきます。やがて自然に、吸う息が終わった時点で、今度は吐く息が始まります。
お腹が縮むような感覚が生じると同時に、胸の筋肉も変化しはじめます。そして、再び鼻の頂点へ向けて上がってきた空気が鼻先を通りすぎ、息が出ていく変化を、意識で追いかけます。こうして“鼻先→お腹へ”、“お腹→鼻先へ”という、何度も何度もいつ果てるともなくつづく往復運動を、淡々と見守りつづけます。
こうして鼻先からのどと胸を通り抜け下腹部まで、そして今度はお腹から身体を通り抜け鼻先へと、繰り返し意識を行ったり来たりさせてやります。
その際、部分によってはよりハッキリと感じられるところもあれば、感覚がボンヤリしているところも、そしてまた感覚がわからない“不感症”のようなところもあることでしょう。
けれども、感じるところは感じるままに受け取って進み、感じないところは感じないままに受け取ってそのまま意識を通り抜けさせるような具合に、淡々と取り組まれてくださいますように。感じないところに感覚を探し出そうと力む必要もありません。感じないところはイライラするので省略したくなるかもしれませんけれども、根気強く「ああなるほど、いまの自分には、この部分の感覚がわからないんだね」と柔らかく受け止めておくのが肝要です。
繰り返し繰り返し、平静さを保ちながら呼吸の経路に意識を向けているうちに、やがては不意に、身体の感度が高まって、いまとは違う感じ方になることに気付くことでしょう。
また、このエクササイズは単なる初歩的準備段階に過ぎない、と低く見られませんように。なぜなら、息の経路への感度を高めることは自然に、のどや胸や腹といったような、感情と密接にリンクした部位に敏感になることに、つながるからです。
“のどがつまる”“胸さわぎがする”“腹が立つ”などという表現があるように、感情が変化すると、いちはやく身体のどこかに不快なサインが現れます。それらのサインへの敏感さが養われることによって、自らの真の感情を理解しやすくもなり、そして不快なサインを出す感情からは自然に離れたくもなるものです。
そんな意味でも、このステップ

へは、ことあるごとに立ち戻ってみられることをお勧めいたしましょう。
自然な呼吸
呼吸をコントロールしようとしないように。深呼吸をしようとしたり、腹式呼吸をしたりする必要もありません。「瞑想らしい呼吸をしなくっちゃ!」と自らの心を力ませぬように。ごく自然な呼吸を、淡々と見守る立場にとどまってください。自らの呼吸を興味深く、ただひたすら見守りつづけましょう。
雑念を放牧する
呼吸に意識を集中しようとしても、心は刺激を求めて何処かへ逃げ出してしまいがちです。
何か音が聞こえたとき、「あ、ラジオの音だ」と、その音に意識がとられることで、呼吸はいとも簡単に忘れ去られてしまいます。閉じている目の前に、光や映像が浮かんでくるときもまた然りです。あるいは、「そう言えば電話するの忘れてた」「えっと、『枕草子』の作者は誰だっけ」など、頭のなかで考えごとが回転しはじめることで、呼吸は忘れ去られてしまうことでしょう。しかし、「どうしよう、集中できない、うんざり」と苛立ってしまうとストレスが溜まるだけですから、先を急がず「ま、いっか」と現状を受け止めておきましょう。
その苛立ちは、“集中できない現状への怒り”であると同時に、“自分自身の雑念への怒り”でもあると申せましょう。
ポイントは、よくよく考えてみますと“雑念への怒り”もまた“雑念”だということ。つまり、イライラするという雑念によって火に油を注ぐことになり、思考の波がさらに激しくなってしまいます。
ですから、浮かんでくる思考とは、敵対しないのが一番です。思考を追い払おうとせず、邪魔者あつかいもせず、はじめのうちはただ、放ったらかしておいてあげましょう。
思考を放ったらかすとは申しましても、思考にのめりこんだり心をすっかり奪われたりはしないよう、心の何%かは、あくまで息の感覚に乗せておいてやります。心の残り数%が思考に奪われていたとしても、何%かが息のほうへ避難しているだけで充分です。
こうして雑念に対しては、いわば“放牧”しておきつつも心はそれに百%のめりこんでしまうこともなく、雑念と敵対することもなく、ゆるりんとしていられるように。
ともすると心は何らかの対象に向かうとき、“のめりこみ”

“敵対”という両極を揺れがちなのが通常なのですけれども、その両極を超越した“放っておく”という態度を、学んでまいりましょう。このゆるりんとした態度のことを“捨”と申しまして、“捨”のお稽古は独立してステップ

で取り組んでいただきます。捨、すなわち平常心は、のちのち体の内部や心を見つめてゆく際に、とても大事なものとなります。けれども、どうしても雑念にとらわれてにっちもさっちもいかないときは、早すぎるとはいえステップ

に述べている、雑念シューティングの方法を用いますのも、一策ではあります。ためしに、ご参照ください。
話を戻しますと、雑念が生じるのは仕方のないことなのです。いまはまだ集中力が十分でないからこそトレーニングをしているのであって、十分ではないからこそ意識も逃げるし、雑念に囚われもするのです。
集中できないのはごくごく当然の現象。大切なのは、その当然のことを、「いまはこんなものだよね」と柔らかく受けとめて粘り強く取り組むこと。意識がそれたとしても、「あ、それていた」と気づいて、もう一度呼吸の道すじへと戻ってくること。
「意識がそれた」「呼吸に戻す」「また、それた」「戻す」「それた」「戻す」。あたかも反復横飛びをしているかのごとく、この往復運動をたびたび繰り返すことによって、徐々に徐々に、自らの意識状態に気づく観察力と、ブレても再び一カ所に戻ってくるという集中力が育ってまいります。
これはあたかも心の集中力を形作る、筋力トレーニングのようなものと考えていただいてもよろしいでしょう。
すこしでも早く、一秒でも早く、「それた」と気づけるよう、見張っていましょう。そしてそれたことに気づいたら、再び呼吸に向かって、そっと心を乗せなおしてください。
そして、肉薄し、よりありのままに如実に、そこに存在している感覚をしっかりと感じとることにより、「いま、ここ、この瞬間」のリアルな感覚のなかに踏みとどまるよう、努めましょう。
そのようにして呼吸に心がぴったりと寄り添うようになるにつけ、徐々に呼吸は変化してまいります。決して意図的に呼吸を変化させるのではありません。呼吸に心が寄り添うことにより、呼吸の状態が自動的に最適化され、好ましい変化をもたらすのです。
徐々に呼吸が長くなり、なめらかになり、細くなり、深くなり、それに応じて身体が安らぎ、穏やかになっていくことが感じられることでしょう。その変化は、すぐに生じることもあるかもしれませんし、何日取り組んでもなかなか生じないかもしれません。期待せずに、求めずに、淡々と取り組んでいるとき、フッと変化が生じていることでしょう。
ただし、浅くて穏やかでない息が生じるときは、その浅い息を打ち消そうとせずに、浅い息をよくよく感じて付き合ってやることです。息苦しい息の生じるときは、その息苦しさと親しみ、その感触を味わっていてやってください。
“より良い息”といういまここにないものを作り出そうとするのでなく、“いまの息”を味わうことによって“いま”の中へと全神経を傾けてみましょう。
ともあれ、あるとき自然に呼吸が深く安定しはじめますと、外界のことがあまり気にならない具合になったり、呼吸にズーンと心がはりついたような具合になったりして、いわゆる“瞑想状態に入ってきた”という感覚がわかると思います。そうなってしばらくそれを味わっていましたら、そのままステップ

に進んでみましょう。
呼吸を整えるお稽古
集中しようとしても心が乱れているがゆえに、まったく集中できないこともあるでしょう。あるいは、呼吸を感じとろうにも、まったく呼吸が感じられない、という御方も、ときにはおられます。
そのようなとき「どうせ私は落第生なのだ」とあきらめてしまう前に、以下のいずれかの手法を用いてみるとよろしいでしょう。

息をコントロールし、長く深い息をすーっと吸い込んでいき、お腹の底まで意識を向かわせ、「これ以上吸えない」ほど苦しくなるまで吸う。そして鼻へと向かって長く深い息をすーっと吐き出していき、苦しさが限界になるまで吐き出す。

呼吸のたびに「いーち、にーぃ、さーん……」と心のなかで数えると、呼吸から意識が離れにくくなるでしょう。

息を吐いている間はずっと「吐く、吐く、吐く……」と心のなかで唱え、吸っている間はずっと「吸う、吸う、吸う……」と念じると、集中しやすくなります。
自然な息をコントロールせず、ありのままに見つめることが大事。……とは申しましたものの、時として息を整える、というコントロールをするのが有用なこともあります。
たとえば、瞑想に取り組んでいても落ちついていられずひたすらイライラしてしまうようなとき。そのままイライラしつづけるなら、坐禅をすることで悪業を増やしているようなものです。
そんなときは、あえて呼吸をコントロールしてやり、息を静めてみましょう。するととりあえず静まった息に引っぱられるようにして、体も心も徐々に落ちついてまいりますから。
次のように工夫をしつつ、息が安定してくるのをゆっくり待ってみましょう。

息は細く・均等に・深く・長く。

おへその下、下腹部へと空気を送る。

息が苦しくなるまで吐ききり、吸いきる。
整えるために“深く・長く”というのは誰もが何となくおわかりなことでしょう。けれども多くの人が“深呼吸しよう”と意気ごみますと、たいてい最初に勢いよく一気に「すぅーッ」とたくさんの空気を吸いこんで、あとは空気の入る余地が少なくなるぶん、急激に勢いが弱まる、といった風情に行われるものです。
つまり、最初が強く太く、あとが弱く細く、といったように、一定しないアンバランスなものとなりがちだったりします。すると心も体も深く安定はしてくれません。
ですから、吐くにせよ吸うにせよ、息の始めから終わりまでがなるべく一定となるよう、終始なめらかで細い息を、均等に保つように心がけてみましょう。
そして

のポイントにつきましては、息を吸いながら下腹部を前に突き出した際に、感覚として目立つ地点がおわかりいただけましたら、そこに向かって空気を送りこみ、そこから空気を吐き出すように意識してみましょう。

につきましては、あまり無理をする必要はありません。ただ、「ちょっと苦しくて限界かな……」というくらいまで吐ききり、吸いきることで心から
余裕を奪ってやることで、心がシャンとしてくるはずです。

〜

の工夫を取り入れてすぐのうちは、自然に行われようとする呼吸を強引に変えようとするがゆえに、かえって疲れたり違和感が残ることもあるでしょう。けれども細くなめらかで、長く深い息が継続的につづけられているうちに、やがて心が「このように落ちついた息が出入りしている……ということは心も体も落ちついているに違いない」と、無意識的な認識をいたします。それに引きずられて、やがて心身ともにざわめきが静まり、落ちついてくるのが感じられることでしょう。
瞑想のほどき方
ここで、瞑想状態をほどいてゆく際のコツを申し上げましょう。
「ああやれやれ、やっと終わった」
と拙速に瞑想をほどいてしまっては、もったいないです。
終えるときは、学びの時間にしてしまいましょう。自らの手をほどくとき、足を動かすとき、その一挙手一投足を、きわめて自覚的に強い意識をともないながら、動かしましょう。
最初に目をつむったときと同様に、目を開けること一つとっても、ツバを飲み込むこと一つとっても、瞬きをすること一つとっても、手を動かすことや足を動かす一挙手一投足をも、「飲んでいる瞬間ッ」「動かしている瞬間ッ」といった具合にきわめてていねいに意識的にしてください。すなわち、一つ一つの動作にしっかりと意識のセンサーを当てながら、「念入りに」行うようにしてください。
そしてまた、きわめてゆっくりとした速度で身体を動かすよう心がけましょう。身体感覚の変化してゆく有り様が、はっきりと観察しやすくなるはずです。
そして一回の動作につき、一つの事柄しか行わないように注意いたしましょう。手を動かす際は、ゆっくりと、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと動かしながら、ただひたすら手を動かすのです。手の感覚に徹底的に心を置きながら、動かしてください。
手が足から離れる瞬間、そこには足が触れていた感覚が消え、新たな感覚の変化が生じます。「いま、手はここにある」「次の瞬間は、ここにある」「いまここにあって、こんな感覚がある」そういった感覚の変化を徹底的に実感し、感じとりながら動いてまいります。
もし、足に痛みがあるようでしたら、ゆっくりと足を動かしていく間に、その痛みが変化していく有り様をしっかりと感じとりましょう。「いま、痛みが消えて楽な感じだ」「楽な感じが、いま、消えた」そういった感覚の変化に、意識のセンサーを研ぎ澄ませながら、寄り添い、徹底的に集中してください。
きわめて緩慢な動作で行うことによって自然に集中力が喚起され、心がとどまりやすくなるのです。そのような心がけをともないながら、静かに、穏やかに、たおやかに禅をほどいてまいりましょう。
〈補講〉うまくいかない方のためのイメージ法
ここでは、坐禅瞑想に行きづまったときの、自分をケアする方法をもう一つ紹介しておきましょう。
日本禅宗の臨済宗で中興の祖とされる白隠禅師は、バランスを欠いた勢いで必死に坐禅に取り組みすぎたあげく、二十代半ばごろに心身ともに病んでしまいました。他の頁にも記しましたように、瞑想で自分の心身の闇が見えるようになってきたとき、平常心を欠いて神経過敏になってしまいがちな人の場合、心身の闇に圧倒されて、その闇を浄化するどころか増大させてしまうことがあるものです。
そんな白隠禅師が自らをケアするために編み出したのは、自分の体が糖蜜によって温かく満たされていくようイメージする、一種のイメージ瞑想法でした。それに加えて、寝転がってリラックスした状態で、足のかかとを通じて呼吸をするという手法を用いていたことも知られています。
これらを元に、取り組みやすくまとめたエクササイズを記しますので、坐禅が煮詰まったときなどの気分転換にも、用いられるとよろしいでしょう。現実をありのままに見つめていこうとするのが仏道の基本ではありますけれども、ときとしてイメージの助けをかりるのも、困ったときには良いものです。

ゆったり仰向けに寝転がる
全身の力を抜いて、両手のひらは柔かく開いて上を向け、胴体のわきに投げ出して仰向けに寝ましょう。

足裏呼吸をイメージする
足裏、ここではとくにかかとを通じて息を吐いていき、かかとから息を吸いこんでゆくよう意識する。「かかと→下腹部」、「下腹部→かかと」へと息を往復させるようにイメージし、上半身にばかりいきがちな意識が下半身にしっかり定着するようにしてあげましょう。
観察力が鋭敏になっているときであれば、足裏を通じて、ピリピリッとエネルギーが流出入しているのを感じることでしょう。

古きを吐き、新しきを吸う
吐く息とともに、心身両面における古くてネガティブなものを吐き出しているようにイメージいたしましょう。そうして新しいものが入ってくる余地のできたところへ、新鮮で新しいものを吸いこんでいるようイメージいたします。
その際に、外から入ってくるものを、温かく心地よいものとして、イメージいたしましょう。暖色系の色をもった空気が温かく自らの体を満たしてゆくようにイメージしても良いでしょうし、白隠禅師の真似をして、甘いシロップが体のすみずみまで満たしてゆくようにイメージしても良いでしょう。
以上のような方法で心身をリラックスさせることで、過敏になりすぎな方や、バランスを崩しそうな方は、ゆっくりと回復することが叶うでしょう。
またこの手法は、眠れない夜になど、どうせ眠れないのなら取り組んでみられるのもお勧めです。やがて緊張がとれてきたころに、心地よく入眠できることもあるでしょう。
ステップ
観察力のお稽古
さあ、坐禅のレッスン、ステップ

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これから、呼吸の質を細かく観察することを通じて、観察力を磨くお稽古をいたします。ただしステップ

を行っているうちに、ある程度呼吸が落ちついてきていて、息の変化が見分けやすくなっていることを前提にしておりますので、そうでなければステップ

からやり直してください。
呼吸の質感を味わう
自らの呼吸に対する自覚のセンサーの網の目を、細かくしてまいります。すなわち、感じとる内容を以下のようにより細かく、はっきりとしたものへといたしましょう。
いま、この瞬間に感じとっている呼吸につきまして、
「楽な感じなのか、苦しい感じなのか」
「長さはいかに」
「深さは?」
「なめらかさは?」
「太さは?」
「勢いは?」
そういったさまざまな呼吸の性質ないし質感を、はっきりと具体的に感じとってまいります。
それはただ感じとるだけで、言葉を使う必要はありません。言葉や概念に囚われず、頭で考えごとをすることなく、ありのままに、いま、呼吸がどのようになっているのかということを、細かく具体的に肉薄し、感じとってまいります。
一回、一回、まったく同じ呼吸というのは絶対に存在しません。自らの感情の変化に応じて、呼吸の風味は、一回、一回、微妙に変化しているのです。
呼吸がどのように変化し、どのような影響を身体や心に与え、どのように身体や心の状態と連動しているのかということを、徐々に徐々に、探求してまいりましょう。探求とは申しましても、具体的になすことは、「あ、いま、息の安らかさがなくなり勢いがついたな」と気づいたなら、そのときの心のざわつき具合を感じとっておくとか、「あ、いま、息が消えていきそうに細くなっていくな」と気づいたら、そのときに他のいろんなことが気にならなくなってゆく心の感触をチェックしておくとか。そういった、息と体と心の関連データを、ひたすら拾い集める地道な作業に徹しましょう。
このように、目の前にあらわれる変化からデータを収集しつつ、呼吸と身体の秘密に向かって、徐々に徐々に分け入り、探検を始めてください。
ただし、先を急ぐ必要はありません。早く知りたい、早く極めたいと欲望を作って先を急いでいるのに気づかれましたら、フッとその力みをほどいてあげましょう。その力んだ欲望の「業」は自らを阻害し、集中力を阻害してしまいますから。
あくまでも明晰で波立たない、曇りなき意識状態を保ちながら、淡々と淡々と、「いま、ここ、この瞬間」の呼吸のなかにとどまりつづけましょう。
もし、呼吸に何か顕著な変化が現れたとしたら、その風味の変化を見逃さぬよう、感じとりましょう。