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「風水」で読み解く日本史の謎
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エンタメ
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第六章 大転換期が生んだ傑物たちの謎

『「風水」で読み解く日本史の謎』
[著]李家幽竹 [発行]PHP研究所


読了目安時間:25分
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伊達政宗


天下取りレース


 天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉の小田原城包囲戦に遅参したことから秀吉の怒りを買い、死を覚悟して上洛した伊達政宗は、この時二十四歳の青年でした。

 (まげ)を切り、白麻の陣羽織というまさに死装束で現れた政宗は、その剛胆さに感じ入った秀吉に罪を許され、その門下に降ることになります。
「政宗は天下を取る器」、人々はそう思ったに違いありません。

 しかし、天下はすでに豊臣秀吉のものです。あの、誰もが天下を夢みることができた、戦国の世は終わりを告げていたのです。

 ちなみにこの時、秀吉は五十四歳、家康は四十九歳。政宗が「天下取りレース」に出遅れたのは、天命だったのです。

 だからといって嘆いてばかりはいられません。

 政宗は、その遅れを取り戻すかのように、家督を継ぐやいなや、会津の葦名氏を滅ぼし、宿敵佐竹氏を討ち、相馬氏を滅亡させ、北方における領土の拡大を図ります。

 しかし、やはり政宗は生まれてくるのが遅すぎました。

 時代の流れは、秀吉の天下による太平の世へと移り変わっていたのです。

 こうして政宗は、天下取りへの野望を内に秘めたまま、秀吉に臣下の礼を取ることになりました。

 しかし政宗は思います。
「若さゆえに出遅れたのなら、若さを武器に取り返せるはずだ」

 独眼竜政宗は、天下取りへの夢をあきらめることはありませんでした。


 北条氏を下した秀吉にとって、残るは東北地方のみです。

 さっそく「奥州仕置」と相成るわけですが、この奥州仕置の中心は蒲生氏郷で、政宗は最上義光と共に、氏郷に協力する形となりました。

 陸奥・出羽の諸大名で小田原に参戦しなかったために所領を没収された家がいくつかありましたが、中でも大崎五郡を領していた大崎義隆、西七郡を領していた西晴信の勢力は強大でした。

 その大崎、西氏の旧領に入ってきたのが「にわか大名」、木村吉清、清久親子だったのです。それまで五千石に過ぎなかった木村親子が、いきなり三十万石の大名に抜擢され乗り込んできたのですから、名族である大崎、西氏の旧臣らは我慢なりません。

 ここにおいて、大崎、西氏らの遺臣による「大崎一揆」が勃発します。

 奥州仕置の責任者、蒲生氏郷は、さっそく政宗と共に一揆の討伐に向かおうとします。

 しかしこの時、思いもかけない人物が氏郷の陣中に訪れました。

 政宗の家臣、須田伯耆です。

 伯耆は、「この一揆を煽動しているのは政宗だ」と訴え、動かぬ証拠として政宗の書状を持参します。

 あまりのことに驚きうろたえた氏郷ですが、すぐにこの旨を秀吉に報告し、証拠の書状を送ります。

 政宗が本当に一揆を煽動していたかは定かではありませんが、確かに政宗にしてみれば、「にわか大名」木村氏が失脚するのは願ってもないことですし、多くの犠牲を払って手に入れた旧領、会津・岩瀬・安積・白河・石川を苦もなく領した蒲生氏郷が、その責任をとって召還されれば、自分の未来が開けると思ってもおかしくはありません。

 天正十九年(一五九一)正月、秀吉から政宗に上洛の命令が下されました。

 そこで政宗は、小田原遅参時に行なったのと同様、派手なパフォーマンスを繰り広げるのです。

 政宗が京都に入ったのは、二月四日のことでした。

 この政宗の行進に、人々は唖然とします。

 死に装束を身につけた政宗一行は、先頭に金箔の磔柱を押し立てて、京都の町を練り歩いたのです。

 政宗は、「磔にするのなら、どうぞこの金箔の磔柱でやってください」と開き直って見せたのでした。

 この政宗の一生を賭した派手なパフォーマンスが、彼の運を支え、この先伊達藩を繁栄へと導くことになるのですが、それはまた後の話としましょう。

 さて、こうして秀吉の前に現れた政宗ですが、秀吉の詰問に対し「この書状は真っ赤な偽物。自分の花押の鶺鴒(せきれい)には目に針で穴を開けているが、これは開いていない」と、堂々と申し開きをします。

 その開き直りにあきれたのか、感心したのか、秀吉はこの件を不問に付します。

 こうして政宗は「無実」を勝ち取り事なきを得るのですが、事件の真相はともかく、この時政宗が、まだまだ「天下取り」のチャンスを睨んでいたことに間違いはないでしょう。

 前田利家は、政宗を「若きに似合わず内股膏薬(うちまたこうやく)よ」と評しました。

 これは、「どっちにでもくっつく」という意味の酷評です。

 事の経緯は、文禄の役の際、肥前名護屋城下で徳川と前田の小人たちの小競り合いから両者の仲が険悪化し、一触即発の状態に陥ったことによるものでした。
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