「反時代的」という言葉が、私の若い頃によく使われていたことを記憶している。これはもちろん西洋の思想家の発言だったように記憶するが、いまの私にとって、よい意味での反時代的な思想家として思い浮かぶのは丘浅次郎と幸田露伴である。丘は『進化論講話』などで知られる動物学者であり、露伴は言うまでもなく文学者である。
では二人の共通点として私が尊敬していることは何か、というと、日露戦争に勝った日本を見て、「これはあぶないぞ」と感じたことである。ロシアは当時世界第一の陸軍国でナポレオンを裸にして追い払った国であり、海軍もイギリスに次ぎフランスと肩を並べる大国であった。そのロシアに対して日本は陸に海に連戦連勝し、白人優越という神話を現実に打破した。周囲には恐るべき国は一つもない(当時のアメリカは太平洋に大艦隊を持っていなかった)。そのうえ日英同盟によって日本は、外交上でも安定した地位を持っていた。どこを見ても日本は安泰である。軍隊の強さは超一流国の仲間に入る。国民はこのような強い軍隊に守られた帝国に生まれたことを心から誇りに思っていた。
しかしこの「強い軍隊こそが危険なのだ」ということを動物学的に言ったのが丘であり、文学者的、あるいは東洋哲学的に言ったのが露伴である。
恐竜はその体の大きさからいって無敵の動物であった。しかし、そのまさに「大きさ」のために絶滅するのである。小型のトカゲ類は絶滅していないのだから、超大トカゲ類の恐竜が滅んだ理由はその「強み」とされた大きさにあったといえる。またマケロズス虎はナイフのような牙を持っていたが、その牙が発達しすぎて顎を突き破るようになって絶滅した。それほど牙の発達しなかった他のネコ族は生き残っているから、これも「強み」とされた巨大な牙が破滅の原因であったといえる。同じように「日本が巨大な軍隊をつくったら、恐竜かマケロズス虎のようになる恐れがある」と丘は書いているのだ。しかも日露戦争の大勝利からそれほど経っていない時に、である。
露伴もそれほど違わない頃に、「惜福」の大切さを説いている。海に魚が豊富なのは日本の「福」だが、乱獲してその富を惜しむ心を失えば魚資源は涸渇するだろう。日本の兵士が勇敢なのは日本の「福」だが、それを乱用すれば国が危うくなるだろう、と。
そしていまから思えば、丘の言ったことも露伴の憂えたこともすべて当たっている。そしていま、日本人が、かつての強兵信仰のように無条件で「善」としている平等主義がいかに危険な考え方であるかを指摘する「反時代的」な言論は、大手マスコミや教育界や政治の場ではタブーになっている感じがする。現世における平等などはキリストも説かなかったものであることを、もっと認識すべきなのではあるまいか──と、この頃考えている。この考察を本書の表題にした。
また、日本にリーダーシップの欠如していることを、この前の大戦で実感した者として、もう一度、現代の問題としても考えてみたい。この前の戦争に至った道筋は、日本にリーダーがいなかったからだ、という一語に尽きることを忘れてはならないであろう。この二つの論考「信長のごとく“生き筋”を求めよ」「ふたたび“獅子の時代”がやってきた」は、元来は雑誌『正論』(産経新聞社)に掲載したものである(不平等主義に関するものは今回書き下ろした)。
他の比較的短い考察は雑誌『Voice』(PHP研究所)に掲載したものである。いずれも多少は「反時代的」な内容のものだと思う。まさにそれゆえに読者のためにいささかでも思索の糧として役立ってくれれば幸いだと思う。本書はPHP研究所学芸出版部の白石泰稔氏の御厚意でまとめられたものである。厚く御礼申し上げる次第である。
平成十三年、立秋を過ぎて、台風十一号のニュースを聞きながら
渡部昇一