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夫への詫び状
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ルポ・エッセイ
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第I章 夫の発病

『夫への詫び状』
[著]金美齢 [発行]PHP研究所


読了目安時間:31分
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 異変


 夫の周が亡くなって、ひとりぼっちになってしまった夕食に、私はビールのいちばん小さな缶を開けて、ゆっくりゆっくり味わうことがある。

 私はアルコールを飲む習慣がまったくなかった。それにひきかえ、夫はお酒が好きで、しかも強くて、いくら飲んでも乱れない人だった。病に(おか)されてからも、お酒は飲もうと思えばいくらでも飲めたようだった。

 そんな夫の影響で、私も少しずつ飲めるようになった。

 逆に、夫が私につられて飲むようになったのは、朝のカフェオレだ。私の習慣に影響されて、夫もいつからか飲むようになった。だから、私は毎朝、台所に立つとまずコーヒーをいれて、牛乳を温め、カフェオレを二人分用意した。

 朝ならカフェオレを飲みながら、夜ならば、お酒を飲みながら、私たち夫婦はいつもおしゃべりしていた。新聞で知人の死亡記事を見れば、
「あなただったら、どんなお葬式にする?」
「そうだな、大した遺産もないし、遺産争いする家族げんかもないだろうし、なんの心配もないから、葬式も何もかも、とにかくキミに全部任せるよ」
「じゃあ、私のいいようにするわよ」

 またあるときは、新聞の国際面を読みながら、故郷・台湾の陳水扁(ちんすいへん)総統の政策について議論を交わすのだ。

 その朝のカフェオレを、ある時期から、夫はいらないというようになった。それと前後して、固い食べ物を避けて柔らかなものばかりを食べるようになった。心なしかやせてきたような気がした。
「あなた、少しやせた?」

 私がそれとなく聞くと、明るくいった。
「やっぱりそう見えるかね。ダイエットの効果が出てきたようだね。うれしいよ」

 しかし、私にはいわないだけで、夫はそのころには、もともとの便秘症がひどくなって、非常に苦しむようになっていたのだ。

 血便もあった。ところが、それさえも、これは単なる()からの出血なのだと自分にいい聞かせていたらしい。もちろん、そんなことは私にはおくびにも出さずに。

 あるとき私に、「キミ、本当に悪いんだけど、浣腸(かんちよう)を手伝ってくれないか」といってきた。私は、手を貸しながら、「そこまで苦しんでいるなら、病院に行けばいいのに」と忠告した。私が浣腸を手伝うことくらい何でもない。だが、誇り高い夫が、そんなことまで私に頼んでくるとは、よほどつらいに違いない。だが、彼はまだ自分をごまかし、病気に目をつむろうとしているようだった。

 それが、二〇〇四年の秋から冬にかけてのことで、二〇〇五年の正月に、私は仕事で家を留守にした。短い旅行から帰宅すると、夫は、「キミの留守に風邪をひいてしまったよ」と報告した。風邪ならすぐに治るでしょう、と私は彼のいうままを信じて楽観していたが、いつまでも本調子にならず、ぐずぐずしている。私は気になったから、「病院に行きなさいよ」と何度もいった。

 けれども、例によって、「病院に行ったって、風邪はどうせ治らないから」「風邪くらいで病院に行くなんて」などといっては、市販の便秘薬と風邪薬を飲んでいる。
「あなたね、こんなに高い保険料を払っているんですよ。医者に行ったらどうなの」

 私は半ば腹を立てていった。それでも、「今日は時間がない」「仕事がいっぱいある」「病院も休みだと思う」といい訳がふえていくだけだった。

 そうこうするうちに一か月ほどがたち、見るからにつらそうになってきた。それでも、苦しいとも、つらいとも、決して口にはしない。

 一緒に外出すると、彼は最寄り駅で階段を避けて、エレベーターを使うようになった。歩く速度も確実に遅くなった。四十年の歳月をともに歩んできた伴侶(はんりよ)の姿に、年をとったなあ、と寂しく思わないではいられなかった。

 そればかりか、家にいても大きなソファーに体を一旦(いつたん)うずめると、テレビを見ながら、うつらうつらして過ごすだけになった。
「これはまずい」と思ったので、私は一計を案じた。夫ひとりを病院に行かせようとすると抵抗するので、二人で一緒に健康診断を受けよう、と提案したのだ。

 考えてみれば、彼は勤め先の大学で定期的に検査を受けているが、私は何年も前に大学病院で胃カメラを飲んだことがあるくらいで、私こそ自分の体をほったらかしにしている。いい機会だからと、五月の連休明けの一日、そろって房総半島の病院で人間ドックに入ることにした。

 しかし、その日を待たずに、久しぶりに夫を見た娘の麻那(まな)が、父親のあまりの変わりように驚いて、病院へ連れて行くと迫った。私がいえばけんかになることも、かわいい娘のいうことは、素直に聞く父親だった。

 かつて周が家庭教師をしていた少年が、いまや医学部を卒業して、父親の胃腸病院を手伝っている。娘は、その先生にお願いして、父親を連れて行くという。そこへ行くというのだから、夫もさすがに断わらなかった。すでに断わる気力もなかったのかもしれない。

 私も同行するつもりだったが、たまたま台湾に行かなければならない仕事があって、私は娘夫婦に一切をゆだねた。夫が診察をしてもらう翌日に私は帰国する予定なので、結果は帰宅してからゆっくり聞くことにして、私は心を残しながらも台湾へ飛び立った。
「どんな結果が出ようとも、その日のうちには帰れないのだから、台湾までわざわざ報告してこなくていいわ。帰ってからゆっくり聞くから」

 娘夫婦にいうと、わかったといってくれた。私はさしせまった仕事を台湾でスケジュール通りにやりこなすしかなかった。



 契約違反


 夫が病院に行った日の夕方、私の滞在先の台北のホテルに、息子の士甫(しほ)から電話がかかってきた。
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