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靖國の精神史 日本人の国家意識と守護神思想
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生き方・教養
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はじめに

『靖國の精神史 日本人の国家意識と守護神思想』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


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 第百二十五代天皇であられる今上陛下が、平成三十一年四月三十日を以て御退位になられると決定されたため、平成三十年は平成の元号を有する実質上最後の年となる。この年は、基督(キリスト)紀元では二〇一八年であるから、そこで、一八六八年即ち国際社会に向けて王政復古を通告し、五箇条の御誓文という国是の布告があり、明治への改元を定めたその年をいわゆる明治「維新」の年と見れば、維新以来、ちょうど百五十年という、大きな節目の年と()()されることになった。


 ところで、靖國神社の御創建時の呼称たる東京招魂社が、現在地の九段坂上に建立されたのは明治二年(一八六九)六月二十九日(当時旧暦)であったから、靖國神社の歴史も、維新の記念年が明けての平成三十一年六月には、満で百五十年の年数を(けみ)することになる。


 この百五十年間、御祭神に向けての祭祀儀礼にも、国民一般の神社に捧げる崇敬の心にも、そしてお(やしろ)の外容にも、基本的な変化は生じなかったが、人間でいえば戸籍上の身分に当る社格については、昭和二十一年(一九四六)一月に大きな変化を蒙ることを余儀なくされた。即ち、大東亜戦争での日本の敗北の結果として生じた連合軍(代表主体は米国軍)の軍事占領と、その占領政策強行の結果、靖國神社は陸軍省・海軍省の管轄に属する別格官幣社という国家による保護の絆を断ち切られて、単立の一宗教法人として経営・保全されてゆくより他ないことになった。


 この社格の変更が生じたのは一九四六年であるから、この年を境として御創建以来その年までの七十八年と、その年以降、平成三十年までの七十二年とでは、神社の性格は確かに大きく変っている。


 ただその変化を、一般に人の眼に映る部分と、形としては見えない部分との双方の局面において、著しい変化が生じてしまったと慨嘆するか、時局の激変の割には、神社の在り方も姿もむしろ昔ながらの安泰を保ち続けているように見える、とて安堵の息をつくか、人により、また視点の取り方により、現状を肯定的に捉えることも、また否定的に観ずることもできよう。その明暗それぞれの局面に、(いささ)か考察を施してみよう。


              *


 まず、靖國神社の蒙った不幸なる変化についてである。当神社に限らず、戦後の神社界全般を襲った占領軍による迫害は、昭和二十年の秋十月には、その苛酷な実体が顕在化し、その危険を看取した神社界としても対応に手を(こまね)いていたわけではなかった。しかし何分にも日本国政府よりも、否、国家元首たる天皇御自身よりも強大な権力を(ふり)(かざ)して国民に臨むことになった占領軍当局が相手なのであるから、対応といっても、いわゆる抵抗という形の対処は所詮不可能で、ただ占領軍の発する無理解と敵意に満ちた諸指令を、ほとんど受身一方の姿勢を以て甘受し、受容するより他はない状態だった。


 当時、神社界の受けた苦難については、もちろん詳細な記録が諸種残されているが、手近なところでは靖國神社第八代宮司・湯澤貞氏(平成九年五月より平成十六年九月まで在任)の体験的回想記『靖國神社のみたまに仕えて』(平成二十七年八月、展転社刊)に簡にして要を得た記述があり、概略を知ることができる。


 受難の決定打とも称すべきは、昭和二十年十二月十五日に占領軍最高司令部が下達した、いわゆる神道指令であったことは周知の史実である。


 このような指令を発したこと自体が、一九〇七年(明治四十年)オランダのハーグで締結された文明諸国間の国際条約であるハーグ陸戦法規第43(占領軍は被占領国の現地法規を尊重すべきことを規定)および同第46(占領軍は占領地での宗教的信仰、私有財産等の市民的権利を尊重すべきことを規定)への真向からの違反である。しかし、軍隊の武装解除、解散等で一切の武力抵抗の手段を奪われてしまった当時の「被占領国日本」には、占領軍の国際法・国際条約(じゆう)(りん)の挙に対して抵抗し、抗議するだけの政治力も気力も失われていた。


 この神道指令の及ぼす災厄が決定的となったのは、この指令の中核を成す国家と宗教との関係の完全分離を規定する条項が、やがて占領軍の手によって急造され、その採択を強制された一九四六年憲法の第二〇条にその主旨が採り入れられてしまったことによる。神道指令は、所詮は占領軍当局による占領政策上の一指令でしかないとの性格が明らかである以上は、その指令の効果は平和条約の締結・発効と共に、即ち昭和二十七年四月二十八日を以て失効し解消したと看做すことができるのであるけれども、その主旨が、これもその出自を問えば占領政策基本方針の固定化にすぎないものとはいえ、とにかく日本国憲法という名を僭称する国憲の中に生き残ってしまった以上、それはその僭称通りの効力を以て、国民の宗教生活を支配することになる。


 右に引いた憲法第二〇条は、元来、「信教の自由」について規定したものである。いかにも国民の個人としての信教の自由は、この条項によって保障されている。しかし同時に、個人ならぬ国およびその機関には、いかなる宗教活動をも禁止するという法理は、国家公務員が公人としては宗教活動をしてはならぬとの意味にとれる文言であるから、昭和五十年の三木武夫首相の参拝に至って、総理大臣の靖國神社参拝は、公人としては違憲になろうが私人としてならば容認されよう、との(まこと)に愚かしい理屈を生むことになった。


 全て法律の解釈・適用に該法規の立法者意志を顧慮するのは、一般論として意味のないことではない。そこで憲法第二〇条の、いわゆる政教分離原則の解釈には、依然として元来の立法者意志の表明である神道指令が狙いとした靖國神社への執拗な敵意が読み込まれるのが常であった。米占領軍は、靖國神社の英霊に向けての自分たちの復讐心と敵意の継承者を、日本国民の中に見出し育成するという情報宣伝工作に、見事に成功したことになる。


              *


 次に、靖國神社は、敗戦・国土の軍事占領・国家的庇護の全面的喪失・国家罪悪史観の(しよう)(けつ)といった、諸々の敗戦国特有の精神的環境の激変という悪条件にもかかわらず、意外なほど健全に、また、純良に御創建当時の(たたず)まいを保ち得たのではないか、との看方も存する、その点に考察を施してみよう。


 この現象の代表的にして()つ象徴的とも言える実例が、現に七月十三日の前夜祭から十四・十五・十六日の三日間にわたって、即ち民間の()()(ぼん)の行事と日取りを合せて斎行される、「みたままつり」(以下祭の字を用いる)である。


 みたま祭の発祥・沿革については、本書の著者の旧著『靖国神社と日本人』(平成十年八月、PHP新書)に第五章の1「みたま祭と日本人の信仰」と題する記述があるので、それとの重複は避けたい。


 その結論部分のみを要約すると――、昭和二十一年七月のお盆の時期に、長野県遺族会の有志の人々が、国土全土の軍事占領、神道指令を通じての靖國神社への露骨な敵意の表出といった世情にたまりかね、この逆境に陥った英霊の悲運を何とかして慰めたいとの想いを懐いた。


 この人々は、全く自発的な発想から集団で上京し、靖國神社の境内で盆踊りを行うことを計画した。神社内での集会には、当然、占領軍の許可が必要だったが、盆踊りとは子供の遊びのようなものだ、との必ずしも噓とはいえないうまい口実を設けて、何とか許可を取付けたらしい。場所は、境内の相撲場を使ったということであるから、それは招魂社御創建当時の例祭における余興の奉納の趣旨にも適っていた。


 長野県遺族会の人々によるこの催しは、神社側にとってもよき啓示であった。神社は昭和二十一年夏の盆踊りの成功を、既に翌二十二年の七月には、神社主催のみたま祭の斎行に繫げ、以後定例化し、これが今日まで七十年余り続いている「光の祭典」(多数のぼんぼりの献灯が呼物であるゆえの通称)としての、みたま祭の伝統の定着となった。


 みたま祭がこの年以来、既に七十年を越える靖國神社の伝統行事となったことの意義について、旧著の記述への追加という形で、少しく書き添えておきたい所見がある。


 この行事は、靖國神社の祭祀儀礼の伝統を、戦前から戦後にかけて、その社格上の断絶を超えて架橋するごとき形で継承してゆくという意味を持った。その点で、普通世間に理解されている以上の、大きな役割を果しているのではないかと思われる。


 敗戦と、それに伴う社格の変更以前、靖國神社の祭祀には、皇室をその主軸として戴く形での国家護持という、法制上の強力な支柱があった。


 一九四六年憲法の施行によって、(およ)そ国体の伝統を無視した狭量な政教分離原則を強制されたため、この法制は維持しきれなくなった。神社に対する皇室の(ゆう)(あく)な御配慮には変りはなく、春秋の例大祭毎の勅使の御差遣の慣例も維持することはできた。


 しかし、国家元首としての天皇の御親拝は(皇后も同様だが)、憲法上疑問視される傾向が強くなった。それも不思議なことに、講和条約発効の昭和二十七年以後の十数年間、例えば昭和四十四年の神社御創立百年記念大祭への両陛下の行幸啓、同年十二月の皇太子同妃両殿下の御参拝までは格別の故障もなく実現していたのに、日本が独立国家主権を回復し、占領期に設けられた(しよう)(がい)の記憶が徐々に薄れてゆくにつれて、天皇陛下の靖國御親拝という重要行事だけが、逆に法的に問題視されるようになって来た。


 そして、昭和五十年十一月の両陛下の、さながら〈御微行の如き〉と評された控え目な行幸啓を最後として、以後、四十年余りの歳月、天皇の靖國神社御親拝という事蹟は跡を断つ。


 この中断は、百五十年にわたる靖國神社の歴史の中での、文字通りの断絶である。そこで断ち切られた歴史の赤い糸の正体が一体何であったかと問うてみる時、答として一つ思い浮かんでくるのは、靖國神社の本来の性格の重要な因子たる、国家的公共性である。


 近代文明諸国は、スイスのごとき少数の例外を除けば、東西両洋でその多くが国家形成期に主権確立のための対外戦争を経験している。その戦争を経験した諸国は、皆、戦争で(たお)れた死者たちに向けての宗教的慰霊施設を有し、戦士の霊を慰めるための儀礼の形式を有している。


 その形式は、それぞれの国民が主として奉じている宗教・宗派に応じて様々であるが、一つ共通している性格は、その慰霊の施設や行事に国家的公共性がある、ということである。つまり、国のために身命を捧げた戦士たちの霊を弔うのに相応(ふさわ)しい儀礼は、それが国家公認の公共性を帯びているということが不可欠の要件である。


 昭和二十一年一月までの靖國神社には、国家の庇護の下なる、その公共性が厳存した。それが単立の一宗教法人へという社格の変更によって、法制の上では、その国家的公共性を失うこととなった。


 法制の上で、その変更を蒙るのは已むを得ないとしても、(およ)そ公共性という性格は、国家の庇護の手から離れたとしても、実質的に維持することはできる。国民の輿論が支持するならば、例えば憲法における天皇の地位の尊厳に(なぞ)らえていえば、国民の総意に(もとづ)いてのこととあらば、英霊祭祀の公共性を承認し主張することは可能である。


 みたま祭の試みは、それが()()(ぼん)()という民間習俗に基いての祭礼であるがゆえに、国民的公共性を主張できる性格を有する。


 盂蘭盆会の起源は、『日本書紀』推古天皇十四年に〈七月の十五日(もちのひ)設斎(をがみ)す〉とあるのがそれである、との説が有力である。そうとすれば、それは聖徳太子が十七条憲法を定められた推古十二年(六〇四)の翌々年であるから、随分古い話である。


 これが後に、天平五年七月六日に聖武天皇が〈始めて大膳をして()()(ぼん)()(やう)を備へしむ〉(『続日本紀』天平五年)とあるごとき宮中での祭儀化を経て、やがて民間に拡がり、民俗的な年中行事となる。


 旧著に引いておいたことであるが、平安から鎌倉時代にかけての(たま)(まつり)は、和泉式部や()(ねの)(よし)(ただ)の和歌、兼好法師の『徒然草』に見られるごとく歳晩の祭であり、各人の家の先祖の祭であったらしいのだが、やがて古代文献に見る通り、旧暦七月十五日に移って、その季節の行事として広範囲な習俗の姿に定着してゆく。


 ところで古典文献中の稀少な用例である和泉式部・曾禰好忠の和歌でも、亡き人の霊を指す詞は「たま」であって「みたま」ではない。

「みたま」との尊称を用いた用例は、実は有名な大伴家持の「陸奥国より(くがね)を出せる詔書(みことのり)(ことほ)く歌」に出てくる〈天地の 神相(かみあひ)うづなひ 皇御祖(すめろき)の ()(たま)助けて 遠き代に かかりし事を……〉くらいである。これは〈皇御祖(すめらみおや、とも)の御霊〉なのであるから〈みたま〉と敬称をつけて呼ぶのは当然であろう。


 一般の臣民の霊ならば、普通に〈たま〉と呼べばよいわけで、これは幽霊、亡霊、精霊、山霊、木霊など、人間の魂魄のみならず天地の間に遍在する物の霊の場合も同じことである。〈ひとだま〉〈すだま〉〈こだま〉等の呼び方がその証例である。


 こうした諸文献の用例を尋ねてみた上で言えるのは、陣歿した戦士たちの霊をおしなべて〈みたま〉と呼ぶ、その心には英霊に向けての、なみなみならぬ畏敬の念が籠められてあるに違いないという、この一事である。


 その畏敬の念の由って来るところには、その霊たちが、各々の遺族の祖霊であるという個々の家の次元を超えて、国家・国民という公共性の守護神に昇華したとの認定であろう。この認定が、盆踊りという民衆的習俗ではあるが由緒正しく歴史も古い祭祀儀礼に結びつけられて表現されたところに、深い意味がある。


 つまり、靖國の神が元来帯びていた国家的公共性を、神社が国家の保護の手から離れたその断絶の直後に、一年の空白を置くこともなく、民間人の心と行動によってそれを継承し得ることを証明したのが、みたま祭発祥の画期的意義である。


 みたま祭が東京の夏の風物詩として定着してより、早くも七十年を越えたわけだが、このお祭を、新暦のお盆の四日間に重ね合せて日取りを組んだ発案者たちの着想は、(まこと)にめでたいものだった。民間の個々の家族の「たま祭」と同じ日取りなのだから、日本人なら誰にとっても、その祭の意味は即座に理解できる。そして、その祭が靖國の「みたま」に捧げられたものである以上、その神霊が自分たちにとって何を意味する存在なのか、ということは、その人の内部に日本固有の祖霊崇拝の心情が微かにでも宿っている限り、やはり解るのである。


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 十九世紀中葉は、東アジアにおける国際関係の激動期だった。この激しい嵐の風浪に翻弄されながらも、辛うじて国民国家としての自立と国際環境への適応を全うし得た明治の日本にとって、その適応に払った犠牲の記念碑のごとき東京招魂社が、国家的公共性を本質とする宗教施設となったのは、当然のことだった。


 しかし、それから約百年の二十世紀中葉になると、世界中で国民国家という存在自体が、その神聖不可侵を自明の前提とし得るような環境ではなくなっていた。(いきお)い、靖國神社という宗教施設もまた、国家的公共性という基盤を自明のものとしてそこに安住することは難しい、と見る見方が生じてきた。


 そのような難しい時代の到来に直面して、ここで改めて考えておきたいのは、靖國神社という聖なる施設を成立せしめている国民の精神的な根拠は、(そも)(そも)何なのか、ということである。この設問に今一度重ねて考察を施し、靖國の思想とでも呼ぶべき一系の理念体系に、日本人の精神史という深い脈絡の中での然るべき位置付けを試みる、という作業が要請される。


 本書は、その試みの取りあえずの一つの報告書であるが、(じよ)(じよう)の設問に本書を以てどの程度まで答え得ているか、結果は(ひとえ)に読者諸賢の御判定に()つより他はない。

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