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靖國の精神史 日本人の国家意識と守護神思想
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生き方・教養
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第一章 英霊祭祀の原型理念

『靖國の精神史 日本人の国家意識と守護神思想』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


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一 「国事殉難」ということ


靖國神社が具える不思議な性格


 以下は旧著『靖国神社と日本人』の始めの章でも、一応の用が足りる程度に述べておいたことなのだが、この主題についての初心の読者のために、あえて重複を厭わず、靖國神社の創立事情と以後の沿革について、簡単な説明を試みておく。


 この神社は、日本人の宗教生活の中に占める位置としては、その名の示す通り、いわゆる神社神道の様式に則ってのお社の一つであって、その限りでは別段、特異なものではない。


 だが、誰でもすぐ気が付くであろうような、ある一種、不思議な性格を(そな)えている。


 それは、我々が日常生活の中で普通にお参りしている身近の氏神様や、各地の有名無名の神社と比べると、御祭神の柱数が比較を絶して多い、ということである。その点で、全国ほとんど全ての道府県に一社ずつはある護国神社と同様であるが、今は靖國神社をその代表として考えてみよう。


 普通の神宮、神社にしても、主たる御祭神の他に、それに併せて祀られている二柱や三柱、あるいはそれ以上の数の配偶神を有しているものが大多数である。例えば東京では、明治神宮の御祭神は明治天皇と照憲皇太后の二柱であるし、庶民の間に人気の高い神田大明神は大己貴神(おおなむちのかみ)(大国主神の別名)少彦名神(すくなひこなのかみ)に加えて、(あい)殿(どの)に平将門の神霊を祀ってあり、三の宮に当る将門の霊が、妙に有名である。深川の富岡八幡宮は、当然、応神天皇の霊を主神とするが、八幡宮によくあることで御祭神は合せて八柱になる。鎌倉の八幡宮なら、応神天皇、神功皇后、比売神の三柱である。


 だが、同じ神域内の摂社、末社という形ではなく、一つの神殿の(本殿の)中に、現に二百四十六万六千余柱という多数の御祭神を祀っているという神社は、この靖國神社以外にない。


 また、その御祭神は、それぞれ固有の神名を持つ天つ神でも国つ神でもない。その点では、式内社として延喜式に記載されているような全国各地の由緒ある大社や一般の村社・郷社とは、明らかに性格を異にしている。


 靖國神社の多数の御祭神は、元々神として扱われていた存在ではない。ここに祀られるまでは、ただの人間であり、その大部分が近代のいわゆる無名の庶民階級出身である。


 その点で、同じく明治以降の創建にかかる神社ではあるが、大楠公(楠木(まさ)(しげ)とその弟・(まさ)(すえ)以下の一族郎等と、小楠公(楠木(まさ)(つら)をも含めて祀る湊川神社や、和気清麻呂、広虫姉弟を祀る護王神社などとも、御祭神の柱数とその身分に関して、やはり性格を異にする。


戦歿将兵の招魂慰霊という着想


 靖國神社御創建の縁起と神社の初期の沿革についても、(いち)(べつ)を投じておこう。


 慶応四年(その年九月に改元されて明治となる)正月に、京都の南郊・鳥羽伏見の地で、官軍と幕府軍との間に開始された内戦を、その年の干支に(もとづ)いて戊辰戦争と呼ぶが、戦線は官軍の圧倒的有利の態勢のままに急速に東に移り、三月十四日には、有名な勝(やす)(よし)と西郷隆盛の芝・田町の薩摩藩邸での会見により、江戸城の無血開城が決まる。五月十五日の上野の山での幕府側彰義隊の最後の抵抗も空しく、新政府軍の勝利は決定的となった。


 戦争の帰趨がおおよそ見極めがついた頃、慶応四年閏四月二十日、および続けて二十八日付でのことであるが、官軍の「東征大総督」である有栖川宮熾仁(あり す がわの みや たる ひと)親王付の参謀の名を以て、京都進発以来の東征の途上の戦闘により討死したり、負傷したりした兵士の姓名を記録し、提出せよとの通達が、官軍各藩(十三の藩からの出兵があったとされる)の隊長宛に出されている。


 名簿提出の趣旨は、陣歿者の招魂祭を行うゆえ、ということにあったので、この通達が、戦歿将兵の招魂慰霊の祭式を挙行するという官の着想が文献に表れた、最初の記録である。


 右にいうところの招魂祭は、総督の通達が発せられてから約一カ月後の六月二日午前十時に、官軍が接収した江戸城内の西の丸大広間において斎行された。これは官軍東征途上の陣中慰霊祭という性格を有するものであったから、そこに招降された陣歿者の霊は、関東および越後での戦いで落命した官軍の将士たちのものであって、正月の鳥羽伏見での戦死者は含まれておらず、八月に始まる会津の戦いの死者も、もちろんまだ出ていない段階のことである。


京都東山の祠宇


 江戸城西の丸での招魂祭とは別に、慶応三年十月十四日の徳川慶喜の大政奉還上奏を受け、翌日勅許、十二月九日に王政復古の宣言を出したばかりの新政府の行政官である太政官府が、翌慶応四年五月十日付で戦死者の慰霊に関する布告を「御沙汰書」との題で出している。


 この題がある以上、戦死者慰霊の着想は当年十七歳の若き明治天皇の叡慮の反映には違いなく、その文言には招魂祭斎行というだけでなく、既に神社の建立という着想を明示していることが特徴である。


 布告の本文はいわゆる和漢混淆文の少々読みにくい文体なので、それを普通の平仮名の国文に書き直して掲げてみる(原典の明白な誤記は訂正した)

〈大政御一新の折柄、賞罰を正し、節義を表し、天下の人心を興起遊ばされ(たく)、既に豊太閤・楠中将の精忠英邁、御追賞仰せ出だされ候。就いては()(ちう)以来唱義精忠、天下に(さきがけ)して国事に斃れ候諸士及び草莽有志の輩、(ゑん)(わう)()(くわ)の者少なからず、此等の所為、親子の恩愛を捨て、世襲の禄に離れ、墳墓の地を去り、(しつ)(ぷう)(もく)()四方に潜行し、専ら旧幕府の失職を憤怒し、死を以て哀訴、或いは(しん)(しん)家を鼓舞し、或いは諸侯門に説得し、(しゅつ)(ぼつ)(けん)(くわい)、万苦を厭はず、竟に身命を抛ち候者、全く名義を明かにし、皇運を挽回せんとの至情より尽力する処、其の志実に嘉すべし。尚況んや国家に大いなる勲労有る者、(いか)でか(いん)(めつ)に忍ぶべけんやと歎き思し召され候。之に依り其志操を天下に表し、且つ忠魂を慰められ(たく)、今般東山の()(ゐき)()()を設け、右等の霊魂を永く合祀致さるべき旨仰せ出だされ候。猶天下の衆庶益々節義を貴び、奮励致すべき様、御沙汰候事〉

と、以上のごとき文面なのだが、二・三注意すべき語句に注を付しておくと、〈既に豊太閤・楠中将〉の精忠に御追賞、というのは、太閤秀吉を祀る豊国神社の社殿が荒廃の状況にあったのを、この年、慶応四年閏四月に秀吉の偉勲を追想せられて廟祀再興の御沙汰を賜ったこと、同じ慶応四年三月、湊川なる徳川(みつ)(くに)建立の大楠公の墓碑の背後に、社殿造営を仰せ出されしことを指す。

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