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靖國の精神史 日本人の国家意識と守護神思想
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生き方・教養
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第二章 守護神崇敬の源流

『靖國の精神史 日本人の国家意識と守護神思想』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:33分
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一 子孫永続の本願・徳川家康


知的上層階級としての武士の文民化


 以下が、本書の本論たる「靖國の精神史」である。


 序論としての前章に記したごとく、嘉永の黒船来航の衝撃と、安政の開国に始まる幕末・維新期の日本人一般にとっても、国家と天皇の一体視、現代の通念でいう国民統合の象徴としての天皇という観念は、必ずしも自明の理ではなかった。早い話が、明治二年六月の諸藩による版籍奉還、続いて四年七月の廃藩置県という社会構造の大改革が断行される以前においては、日本人にとっては「国」といえば、それは士農工商のいづれの階層から見てにせよ、即ち、藩のことであった。


 その段階では、「国のため」とは藩のためであり、忠義という徳目は藩主への忠義であり、旗本=直参の武士たちにおける忠義とは徳川将軍に対する御奉公以外のものではなかった。


 藩主である大名が、知行という形で約束してくれる俸禄の御恩に対し、奉公という名義で応えるのが、武士階級の最高の徳目たる忠義である。この忠義には、いざ鎌倉という標語で知られているごとく、藩主の身上に一朝、何か事が生じた場合、己の責任と負担とにおいて事件の現場に駆け付け、己の武力を以て藩主を助けるという義務が伴っていた。


 だが何分、徳川二百五十年の平和という歴史上の標語が示す通り、一六三七年から八年にかけての島原の乱が平定されて以後、国内には戦乱と呼ぶような武力行使の沙汰はほとんど生じたことがない。大坂夏の陣の収拾として成就した、一六一五年のいわゆる「元和(げんな)(えん)()」以降、特に右に述べた島原の乱の平定以降はさらに徹底して、武士階級には武力という己の本来の職分に関して、国政の場での出番がなくなってしまう。武士たちは実質上、次第に文民化し、ただ、いざという火急の場合には社会秩序の維持に責任を有する階層として、武力よりも、むしろ平生の道徳の維持を期待される社会集団と化していった。


 この文民化は、しかし幸いなことに、武士階級の弛み・堕落を招かなかった。公的・外面的には、「()()(しよ)(はつ と)」という法制上の束縛があって武士たちに禁欲的な身の処し方を命じていたし、内面的にも武士道という道徳的格率の成立を見るのは、現実に武士の出番が消えてしまう徳川時代初期のことである。


 やがて十八世紀ともなれば、佐賀の山本常朝が『葉隠』(一七一〇口述開始)を以て武士道の理論化を試みるという動きも起る。


 安定の時代の到来という新しい境遇に直面して、武士階級の存在意義は、どういうところに求められていたか。


 客観的にも、おそらくは自覚的にも、彼等は知識人・教養人としての社会的役割を担うことを、その人生の目標として立てることとなった。


 初期においては、なお支配階級としての自負の然らしめるところで、彼等が修めたのは古典的政治学である。大御所の家康が、この流れの向かう行先を(つと)に読み取り、方向づけていた。


 元和偃武の少し前に、日本はいかにも平和と学問の時代の到来にふさわしく、活字印刷の技術を実用に供する段階に入っていた。


 この技術には二つの異なる淵源があった。一つは、天正十八年(一五九〇)に九州の大友・大村・有馬三侯の遣欧少年使節が八年にわたる南欧の旅から持ち帰ったグーテンベルク系の活字印刷技術とその機器であり、他の一つは、豊臣秀吉が文禄元年(一五九二)に朝鮮半島に派遣した征討軍が戦利品の一種として持ち帰った高麗活字版の一式である。


 前者は、いわゆるキリシタン版として知られる活字本の刊行事業の基礎となり、天正十八年から慶長十六年(一六一一)にかけての二十年間に、文献史上甚だ重要な印刷物を世に贈り続け、不朽の文化史的意義を青史に刻み付けている。


 (しか)して家康が着目したこの新技術の効用は、当然ながら高麗から導入した方式の方にあった。その活用は、意外に早く実践に移され、文禄二年(一五九三)には西洞院時慶による『古文孝経』の印刷刊行があったのは、キリシタン版中の世俗文学として名高い『エソポのハブラス』と同年のことだった。


 家康の直々の指図による活字印刷の刊行は、通称「伏見版」と呼ばれる一連の書籍で、これは足利学校第九代の(しよう)(しゆ)を務めていた(かん)(しつ)(げん)(きつ)という臨済宗の僧を、慶長六年、伏見に家康が創建した円光寺の住職に招請し、そこで行わせた事業である。元佶は、家康から大量の木活字の現物を与えられ、『孔子家語』を初めとして、『六韜』『三略』『武経七書』等の兵術書、『貞観政要』のごとき政治学・帝王学の古典を印刷した。


 殊に、慶長十年『東鑑(吾妻鏡)』を印刷刊行したことは、武家政治の綱領の確立として、その思想史的意義は大きい。該書は武士の倫理の歴史的回顧の書として、題名通り武士の生き方の鑑となった。


徳川家康の法治主義宣言


 家康は、(ふじ)(わら)(せい)()や林羅山の学問を敬重し、その講義をよく聴いたことが知られているが、このことは彼が儒学に深入りしたことを意味するものではなかった。彼は儒の思想と結びついている唐土の詩文を愛したわけでもなかった。彼の知的関心は専ら、己の為政者としての識見を涵養することにあった。


 その意味で、彼は現実主義者であり、実務家であった。その性格は彼が樹立しようと志した新時代の武士の倫理なる道徳律の質に、やはり反映しているようである。


 家康の現実主義は、あるいは端的には織田信長、豊臣秀吉と続く戦国乱世の覇者の系譜の末に、本番として登場した武将の面目そのままであったのかもしれない。彼は学問を保護奨励し、右に述べたごとき思想史上の文献学的貢献は歴史に(のこ)る立派な事蹟と評してよいのだが、本人に学問的経歴があるわけではなく、彼の学問的関心は、それが現実政治の上で何らかの役に立つ限りでの発揚だったと見える。


 従って、ある特定の学統や思想の系譜に心を寄せるのではなく、それが彼の覇業と、それを達成し得た後の守成の業に寄与すると見た限りでの重用だった。

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