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靖國の精神史 日本人の国家意識と守護神思想
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生き方・教養
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第三章 国家意識の形成――溯及的考察

『靖國の精神史 日本人の国家意識と守護神思想』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


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一 自国意識の契機、異文化との接触


伴天連追放から鎖国へ


 日本の成文憲法はここに(はじ)まるとまで竹越三叉の称揚した、徳川家康の三種諸法度の形をとった公武法制施行の歴史的意義は大きい。


 ただ、前章で検討したごとく、家康の法治主義の究極の目標は、徳川氏一族の後裔の末長き安泰と繁栄とを本願とするところに由来したものであった。従って大名諸侯の(失政のない限りでの原則としての)所領相続に基盤を置く封建の制は、図式化していえば武士階級以下は藩主に向けて、全国約百八十五藩(開幕当時)の藩主たちは徳川宗家に向けての奉公を道徳の中核として奉じていたのであって、日本という統一国家への忠誠を標榜したものではなかった。


 皇室への尊崇に国家主義的意味づけはなく、天皇は十善万乗の明徳の体現者として〈仁孝、聡明、至剛、研学顕るが如き標準〉(「公武法制十八箇条」の一)であるがゆえに、道徳的畏敬の対象なのだった。()ればこそ、上記のごとき徳目は、まず天皇に向けてその顕現者たることを、これまた法度を以て要請するという建前になっていた。


 それでは、幕府体制下の日本に、近代人が口にするごとき意味での国家意識は生じていなかったのかというと、もちろん、そういうわけではない。実際にはそれは、以下に述べるような形で、むしろ外から見た場合に封建制の道徳と併存して、明確に現象していたということができる。


 この〈外から見た場合〉という状況に(いささ)か説明を必要とするので、章末でそれを試みる。差し当っていえば、事は十六世の末から十七世紀の三十年代にかけての、史上に有名な切支丹宗門への迫害事件に関わっている。


 具体的に言うと、民間の寺社と教会との間での暴力的抗争や、貿易商人たちと南蛮人の経営する東インド商会との間の商業的利害の衝突事件等は全て除いて、日本国の国権を以てしてのキリシタン宗門への迫害事件の沿革を訊ねてみると、以下に述べるごとき回数になる。


 まず天正十五年(一五八七)六月に、筑前の箱崎でイエズス会側に通達という形で豊臣秀吉が発した伴天連追放令である。「定」と題したその禁令第一条の文言は、〈日本ハ神国たる処きりしたん国より邪法を授候儀(はなはだ)不可然(しかるべからず)候事〉であり、第三条は〈……伴天連儀日本之地ニはおかせられ間敷候間、今日より廿日の間ニ用意仕、可帰国候〉である。


 二十日以内に用意を整えて帰国せよ、との命令は当時の船舶運行状況からして、現実に不可能な要求であり、実行はされようもなかったが、翌十六年にかけて、秀吉は九州における日本人の切支丹宗門の徒を根絶する目的を有する禁令を、次々に発している。これは元来が天下統一、抵抗勢力排除の覇権的意志に発した政略ではあったであろう。


 文禄五年(一五九六、十月慶長と改元)九月に、ルソンからメキシコに向かう途上のスペイン船サン・フェリーペ号が、暴風雨に遭って土佐に漂着した。その船の積荷を秀吉が、奉行・増田長盛を土佐に派遣して没収せしめたことから紛争が生じ、船の航海長がスペイン国の強大とこれまでに征服した海外領土の広大なることを威嚇的に語ったことが秀吉の耳に入って、怒りを招いた。


 加えて、スペイン人であるフランシスコ会修道士たちが日本に後から割り込んできたことに不快を覚えていたポルトガル系イエズス会士から、スペイン人の領土的野心に対する中傷の(つげ)口もあり、これが同年十一月の長崎におけるフランシスコ会系のキリスト教徒二十六名の処刑事件を招いた。


 秀吉にしてみれば、いわば正当防衛ともいうべき国家叛逆の徒の刑殺であったが、周知のごとく、これがいわゆる二十六聖人の殉教事件として、長く歴史に名を残すこととなった。


 秀吉の死後にも、二代将軍・徳川秀忠の治世下、慶長十七年(一六一二)、レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』(一八六九年初版、同書は、秀吉の歿後から三代将軍・徳川家光の治世に至るまでの日本教会殉教史の趣を呈する)が詳しく報じているごとき迫害が発生した。この時には、翌慶長十八年に駿府にいた大御所家康が、外国奉行兼寺社奉行であった(こん)()(いん)(すう でん)に命じて「排吉利支丹文」なる邪教弾劾の宣言を起草せしめ、単に治安政策としてのみならず、宗教的にも国権を以て外来の一神教と対決する姿勢を鮮明にしたのであるから、その政治的効果は大きかった。


 この弾圧の結果として、江戸、京都、堺および西九州の殊に有馬領での信徒迫害と教会堂破壊の動きが激化し、三上参次の記述によれば、京都の四条坊門(うば)(やなぎ)にあった信長の認可以来の南蛮寺の破却も、この時のことであったという。この強硬措置により、翌十九年十月には、史上にいわゆる「大追放」が実行され、キリシタン大名として史上に名を留める高山右近(高槻、明石城主を経て加賀前田家の軍奉行)、同じく前田家の侍臣・内藤徳庵(もと小西如庵)他のキリシタン信徒たち計約四百人がまず長崎に移され、ついで国外追放の処分を受けてルソンおよびマカオに送られた。


 これら一連の刑殺・追放事件は、従来の通俗の国史の文脈から見れば、厳酷なキリシタン宗門の迫害史であり、教会(ローマ教皇庁)側から見れば、宗門の受難と殉教の歴史である。それは、やがて寛永十年(一六三三)から十六年にかけての五度の禁令公布を以て実現した鎖国政策の前史に当っている。


 さて、その寛永十六年(一六三九)には法制上完成したと見られる鎖国状態の評価であるが、大正から昭和戦前期にかけての国史学界では、概して否定的であった。徳富蘇峰の『近世日本国民史・徳川幕府鎖国篇』(大正十一年)では、その「鎖国の代償幾許ぞ」と題する結論部で〈わが大和民族は、少くとも鎖国政策のために、約二百五十年の損をしてゐる。而してこの損は果して将来において、取返しの付くべきか、(すこぶ)(おぼ)(つか)なく思ふ〉と嘆いている。


 和辻哲郎は『鎖国―日本の悲劇』(昭和二十五年)という長大な考察を、日本人の民族的欠点は科学的精神の欠如である、との前提を以て開始し〈……近世の初めに新しい科学が発展し始めて以来、欧米人は三百年の歳月を費やしてこの科学の精神を生活のすみずみにまで浸透させて行った。しかるに日本民族は、この発展が始まった途端に国を鎖じ、その後二百五十年の間、国家の権力を以てこの近世の精神の影響を遮断した〉と断じた。そしてその研究の結論を、昭和二十年に日本が連合国相手の戦争に敗北したことを以て〈現在のわれわれはその決算表をつきつけられているのである〉との悲痛な一句で締め括っている。


新羅遠征と渡来人


 改めて考えてみるに、国家意識なるものは、素朴に捉えれば「我国」という意識なのだから、それは「異国」「外国」の認識が生ずると同時に、その反射概念として育ってくるものである。即ち日本民族が、己の棲む土地とは離れたところに己らの話す言葉とは違った言葉を用いて暮す人々がいる、即ち異民族が存在することを認識した時がその契機であり、また彼等とは異なる土地に異なる言葉を用いて暮らす我等という発見が、即ち国民としての自己認識だということができるであろう。


 しかし、この発見が生じた時の日本民族が果してどういう人々であったか、という定義は史学上必ずしも一様ではない。周知の文化様式概念を以て考えてみるとしても、縄文文化を創り出した人々と、弥生文化の担い手だった人々とは同じ言語を話していたのか、互いに同族意識を有していたのか、それとも両文化の間には能動と所動、先進と後発といった序列関係があったのかどうか、ということさえも、我々現代人は正確には知ることができずにいる。


 自国と異国と、この区別が発生したのは、やはり有史以後の、日本という国家が事実の上で成立して後に、異国人との接触・交渉によって人々の意識に上って来たものだと考えておけばよいであろう。


 日本の歴史に登場する最初の外国は、仲哀天皇紀に出てくる神功皇后の新羅(しらぎ)遠征、その際に百済(くだら)任那(みまな)の両地を屯倉(みやけ)とした、との伝承であるが、『書紀』では、新羅の国王が日本から来寇した軍の勢を怖れ、戦わずして降伏し、朝貢を約したとのみ記され、日本側が初めて接触した異国の人々とどのような意識・感情を以て交渉したかについての記述はない。


 神功皇后の新羅征討の旅中、その胎内にあり、帰国後に筑紫で生れたとされる応神天皇の御代には、『書紀』にも渡来人の記事が多くなる。(こう)(らい)高句麗(こうくり)、百済、任那、新羅等からの入来で、彼等を一括して「(から)(ひと)」と呼んでいるのは、現代語の「(がい)(じん)」に相当するであろう。


 入来とはいっても、百済王の献じた(きぬ)(ぬい)の技術を身に付けた工女の場合は、土着の日本人の持たない新技術の移入という意味があったであろうし、調馬の技術を有する()()()も、百済王の派遣によるものだった。


 よく知られた話であるが、阿直岐は文字を知り、経典を読む力を持っていたので、これに着目した応神帝は、皇太子・菟道(うぢの)(わきの)(いら)(つこ)に命じて、経典を読み字を綴る業を習わしめ、さらに阿直岐に問うて、翌年、百済から()()が来朝し、『論語』『千字文』の献上という重要な事蹟が生ずる。王仁は漢字文献のみならず、醸造の技術を持てる工人や、衣料縫製の技師をも引率して来た。阿直岐はやがて()(ちの)使()()の姓を与えられ、官命により江南の呉の国に使して、漢織・呉織の工女を伴い帰り、呉服部(くれはとり)の起源をなす職人集団の統率者となる。もっとも、この辺りの『書紀』の記述は前後重出や資料の錯列が生じていて、細部までの正確な史実の解読を期待することはできない。ただ、この頃の日本人が、新奇な技術をもたらしてくれる国外からの渡来人という存在を意識していた、という事実は確認できよう。


 渡来人から習得した技術が、国際関係の上で早速に役に立ったという事例も、史書の伝えるところである。即ち、王仁を師として漢文読解力に甚だ上達した応神帝の皇太子・菟道稚郎子は、高句麗王の使者が持参した王の上表文にいう〈高麗王教日本国〉との文言が無礼であると怒り、使節を責めたところ、相手もその非礼を認めて表文を破り捨てた、という事件が伝えられている。外国の使節が、文書の様式の上で外交的無礼に及ぶこともあるという、これは日本国としての初めての経験だったであろう。


 しかしながら、応神朝から次の仁徳天皇を経て、七代目の雄略天皇に至るまで、その系譜には『宋書倭国伝』に記載があることでよく知られている倭の五王(讃、珍、済、興、武)が含まれており、その漢字名が現実の七代の天皇にそれぞれいかに比定されるかについて国史学にもほぼ定説ができているほどであるのに、この間の国史(『紀』『記』とも)には、意外に外交上の記述が乏しくなる。


 それは一つには、国内が多事であったために、記述の重点がその方に振り向けられて、国際関係の記述が減っているのかもしれない。実際にも、雄略天皇の次の清寧天皇からまた七代目の宣化天皇まで、朝鮮半島では半島内部での勢力関係が流動化し、諸国(三韓他南部諸県)の力が増大してきたその分だけ、日本の影響力が低下し、利害関係も稀薄になっていたとは考えられよう。


仏法の渡来と聖徳太子


 この時期を過ぎ、日本人がまた半島との関係の濃厚となるのを経験したのが、言うまでもなく欽明天皇朝における百済の聖明王との政治的関係、交渉の頻繁化である。その結果として、百済王が日本の天皇のために丈六の仏像を造るという歴史的事件が起る。その像が日本に渡って来た時期は、聖徳太子の事蹟を記した『上宮聖徳法王帝説(じよう ぐう しよう とく ほう おう てい せつ)』に依れば宣化天皇の三年(五三八)であるが、『日本書紀』では欽明天皇の六年に仏像造りが始まり、十三年(五五二)に仏像・仏具・経典が仏僧と共に海を渡って来て、鄭重な上表文を添えて天皇に献上されたと記されている。


 そこで欽明天皇が、よく知られた文言であるが、

西蕃(にしのとなりのくに)(たてまつ)れる仏の()()(きら)(きら)し。(もは)(いま)(かつ)(あら)ず。(ゐやま)ふべきや(いな)や〉

と群臣に向かって下問することになる。この〈蕃〉の字は、やはり周礼以来の用例に見るごとく、化外の地、夷の国という含意のままに用いられているであろう。


 仏像渡来という事件に遭遇して、天皇を始めとする我国の貴人たちは、とかく政治的には自分たちにとっての厄介の種となることの多い対馬海峡の向う側なる夷の国と、その国で刻まれた仏の顔の端厳さとの不調和に、怪訝の思いを抑えきれなかった。


 神像というものを作らなかった日本人は、ここで初めて、精神の崇高という価値を「美」として表現する技がこの世に存することを知った。そして、その価値観と初めて見る造型技術とにある種の新鮮な衝撃を受けたことはたしかである。


 いったいここに示されたこの新しい価値にどう対処すればよいのか、迷いが生じたのも(もつと)もである。


 渡来した蕃神への礼拝の是非をめぐって、崇仏派と排仏派とが、遂に干戈を交えるまでの意見の対立を生じたことは、同時にまた、異国の異文化との接触を通じて、自国の精神伝統の存在を反射的に意識せしめられるきっかけとなった。この場合は、仏の御法にも、我が国古来の神々の道にも、一神教的排他性がなく、慈悲と包容力とがそれぞれの本性であったのだし、殊にたまたま、上宮太子厩戸皇子のごとき秀れた人格者がおられたために、出自を異にする二つの信仰体系は、世界文明史上他に例のない見事な調和・融合を実現することができた。


 だが、その聖徳太子こそがまた、異国の人間に己を高しとする丈の高さがあるならば、彼等と相対する我が国にも同じく丈の高きを以て自ら任ずるだけの自尊心がなければならぬという、国際社会における地位の相対性について、深くも鋭くもある認識を示された最初の人であった。

『隋書倭国伝』が〈(倭国には)文字無し、唯木に刻み縄を結び(て記録としている)、仏法を敬し、百済に仏経を求めて得しより始めて文字有り〉としているのは事実の認識として正しいのだろう。それだけに〈新羅・百済、皆倭国を以て大国にして珍物多しと為し、並に敬して之を仰ぐ〉としているのも当時の客観的状勢を伝えている記述と思われる。そこでまた、有名な(くだ)りであるが〈其の国書に曰く、日出処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや〉というのも国史にその記述があるわけでなくともやはりこの通りの文言だったのであろう。

『隋書』にはこの国書に接しての煬帝の反応を、

〈帝之を覧て悦ばず、(こう)()(けい)に謂ひて曰く、蛮夷の書に無礼なるもの有り、()た以て聞ゆるなかれ〉

と簡単に記しているだけである。


 隋帝から見れば東夷たる倭国の国書が、後漢王朝期には朝貢国の一つであったその臣従の姿勢を捨てて、対等の外交儀礼を取ったことが既に無礼と映った。同じく東夷の国であった朝鮮半島の三韓にも、また契丹等の北狄、占城等の南蛮の諸国にも、こうした昂然たる外交姿勢を示した夷国はなかったはずである。


憲法十七条制定と法典編纂の推進


 聖徳太子の外交姿勢は、現代語を用いていえば、独立国家の主権の尊厳という意識を踏まえて立ったものであり、千古不易の国家理性に(もとづ)いている。基督暦第七世紀の初頭(推古天皇十五年〔六〇七〕)に日本人の国家意識が既にこの域に達していたのは実際驚くべきことである。


 しかも、この外交姿勢は、決して隋の出方を窺い見ての上での挑戦でも虚勢でもない。国使・小野妹子の派遣に先立つ三年前の推古十二年に、太子はかの憲法十七条を制定し公布しておられる。


 十七条の憲法は、これも現代感覚で受けとめる限りは国家基本法というよりも、むしろ明治天皇の著作し給うた教育勅語に近いような性格の道徳的訓令である。しかし、その条数を見れば、陰陽五行説にいう陽の極数九と陰の極数八を合算した素数であって、そこに天の理と地の道を貫徹する法といった含意を感じさせる。


 官吏の服務規定としても、堂々たる国法感覚が看取できる。即ちこの憲法の制定により、日本人は意識の上で、法治国家の基礎を固めたと称してよい。その自信が自ら外交姿勢に反映した結果が、あの毅然たる隋帝宛の国書の文言になった。


 法治感覚の厳格さは立派であったが、具体的な統治技術としての法の構造については、飛鳥朝の日本は何分にも未経験だった。法典編纂の要請は、上宮太子の憲法(六〇四)より約四十年の後、大化改新の詔(大化二年〔六四六〕)の中に、判然と読み取ることができる。詔書自体が既に、食封の制定、京師と畿内の編制、班田収授の法、租・庸・調の税法を宣言していて、行政法の試作のごとき観がある。


 この要請が、大化の改新の実質上の推進役であった中大兄皇子により徐々に法制上、具体化され(詔は孝徳天皇の御名で発せらていたが)、やがて皇子が即位され(天智天皇)、都を近江の大津に遷され(天智六年〔六六七〕)、その翌年の近江令の制定となり、我国は法制の上でいえば律令時代に入る。


二 律令制移入と法治主義の定着


大化の改新・独自の元号


 古代における日本人の国家意識の形成に、大化の改新が一つの顕著な紀元を画したについては、大方、異論がないであろう。「大化」という我国独自の元号の使用開始をとってみただけでも、その歴史的意味は明らかである。

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