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靖國の精神史 日本人の国家意識と守護神思想
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生き方・教養
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第四章 国家意識の熟成――内発的要因

『靖國の精神史 日本人の国家意識と守護神思想』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


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一 国家学の始祖・山鹿素行


捨近取遠の錯誤


 十九世紀中葉に西欧で成立したと見做されている国家学という学術(ジヤ)(ンル)が、それより約二百年を溯る十七世紀の中葉に、我が国で山鹿素行が独自に開拓していたと見るとすれば、そのこと自体が既に一瞬、人の耳目を(そばだ)たせるような新しい命題であろうか。これにはしかるべき論証、少なくとも、かく判断する根拠の説明が必要であろう。


 先行第三章第五節の「外交の新様式」の中で、京都五山の学僧・瑞溪周鳳の撰になる『善隣国宝記』の存在に触れておいた。当該の節ではこの書の編纂の動機とそれが有した外交上実用的な効用の面を紹介するにとどめておいたのだが、ここで改めて瑞溪がこの書に付した序文冒頭のある注目に値する見解を引いてみよう。曰く、

〈日本と震旦と相通ずるは、蓋し垂仁天皇の代に始まるか。其の書信を通ずるに則ち推古朝聖徳太子自ら隋国の答書を製す。予、両国の使者及び禅教の名師(けつ)(らい)の年月乃至(ないし)近時往返の書を録し、号して善隣国宝記と曰ふ。(あるひと)()ふ、此記の(はじめ)、神代の事を略述するは何ぞやと。曰く、此方の学徒、震旦の書を読む者、其の国の山川人物を知る。天竺の書を読む者亦然り。吾国に六国史等の書有りと雖も而して読む者(すくな)し。故に本国の事を知る者は希なるに(ちか)し。近きを捨てて遠きを取る、すなはちたがへるか。今両国相通の事を録すは、先づ(まさ)に人をして吾国の神国たるの由を知らしむべきの故に、十の一二を述ぶるのみ。(これ)皆神皇正統記の載する所也。……〉


 注目に値するというのは右の〈(あるひと)()ふ〉以下である。瑞溪は『善隣国宝記』上巻の冒頭を、北畠親房『神皇正統記』の有名な書出しを借用する形で〈大日本者神国也〉と書き始め、以下、神代の事蹟を(刊本で約二頁にわたり)概ね『正統記』に則って略述している。あれはいったい何故か、とある人に問われ、そこでその答として、別に草した序文でその答を述べた。曰く――日本の学者はよく漢土の書物を読んで彼の国の地理地勢から歴史上の人物の事蹟について詳しく知っている。天竺の書を読む者もまた同様である。しかるに我が国に六国史という立派な官撰史書があるのに、それを読む者は少ない。ゆえに肝腎の我が本国の来歴を知る識者も稀少である。これはいわゆる〈近きを捨てて遠きを取る〉の錯誤を犯すものである。そこで大陸との交渉の経歴を記するに当っては、まず我が国の歴史を述べることから始めるのだ、というのがその弁明である。


外来思想たる「朱子学」への懐疑


 さて、徳川家康の公正な学問奨励の事蹟については第二章第一節に記した。家康に招聘されて『貞観政要』を講じた藤原惺窩にせよ、幕府に禄を得て終生仕官の道を全うした林羅山にせよ、前者は相国寺、後者は建仁寺という五山の名刹に学んだ儒仏兼学の徒だった。()つ両者共に自らが身を置く当代が元和偃武以降の文治王道の新時代に入っているという事態についての明白な認識はあった。


 (しか)して、どちらかといえば藤原惺窩が五山の禅学的気風を捨て切れず、出世間的・内面的傾向の濃い包容的精神に生きていたのに対し、少壮気鋭の林羅山にはとかく弁別的精神の圭角が働き、仏教的世界観の否定において急進的であり、徳川幕府の治政方針の根本を先取りする過激派の趣きがあった。即ち林家の家学としての朱子学が幕府の御用学問化する傾向は、学徒としての羅山の素質の中に既に内在していたと言えよう。


 ところで、そこに生じたような一つの学統の原理主義的尖鋭化には、多くの場合、それ自身に具わる弁別的精神が、皮肉にもその学統自体への厳しい批判的分析を生み出す、という力学が働く。徳川幕府の官学としての朱子学にもそのことが起るべくして起った。


 ただし、幸いなことに、惺窩や羅山の新人としての登場自体が、家康という包容力の大きな覇者の庇護下にあって「学問の自由」という雰囲気を享受しての成長だったのだから、官学・御用学問としての朱子学は、羅山の時代においては後世の寛政異学の禁に見るごとき、狭量な異端排除の発想が表面化することはなかった。


 朱子学の原理主義的弁別的傾向が深化するにつれて、理の当然ながら、この学問は(ひつ)(きよう)日本にとっては異国である宋の国の学問ではないか、それでよいのか、との懐疑が生じてくる。宋学の原理とその教義への理解が進めば進むほどに、その学の抽象的観念的性格に学問の普遍性を認めて納得する向きも生じたであろうが、同時に、これは要するに外来思想であり、我が日本の古来の世界観とは異質のものである、との疑問が生じてくるのも自然である。


 この異質性は「我が日本の伝統」とは相反する、とまでの反発が出てくるのは、これより約百五十年後の国学の流れの中に浮上して来る(ゆう)(こん)な懐疑心であるが、官学としての朱子学への疑惑は、林家の権威と勢力の不抜なるにもかかわらず、徳川時代初期の学問界に、むしろ意外に早く発現し、表出され始めた。


 具体的に挙げてみれば、当時、自分の学問を「心学」と自ら呼び、傍からもそう呼ばれた中江藤樹(一六〇八―一六四八)の陽明学的実践倫理(『翁問答』一六四一)、山鹿素行(一六二二―一六八五)の朱子学批判(『聖教要録』一六六五)、伊藤仁斎(一六二七―一七〇五)の古学への立志(古義堂開塾、一六六二)等の新しい学問精神覚醒の動きである。


 山鹿素行の数ある著述の中で後世への影響という点で史家が注目して来たのは、『山鹿語類』の大石良雄以下赤穂浪士一統に対する、『武教全書』の吉田松陰に対する、そして『中朝事実』の乃木希典に対する強い感化力である。またこれら後生から先達の師に向けての深甚なる敬慕と尊崇の情も、読書人の注意を引いて来た。


 私共現代人にとって最も印象が深いのは、乃木希典大将が明治天皇の御大葬の二日前、即ち大正元年九月十一日に御年満十一歳の皇太子裕仁親王に特に人払いを願った上での単身拝謁を願い出、秘かに永訣の御挨拶を言上する際に、自ら朱点を施した自費出版の『中朝事実』を献上し、御進講申し上げたあの逸事である。


『中朝事実』の日本主義の根源


 その『中朝事実』は寛文九年(一六六九)、『聖教要録』より四年の後、素行四十八歳の折の述作で、その自序にいう、

〈愚、中華文明の土に生れ、未だその美を知らず、専ら外朝の経典を(たしな)み、(かう)(かう)として其の人物を慕ふ。何ぞ其れ放心なるや、何ぞ其れ(さう)()なるや。……夫れ中国の水土は万邦に卓爾たり、而して人物は八紘に精秀たり……〉


 右の〈中華文明の土〉〈中国の水土〉なる表現は、古来の慣用に反して、漢土ならぬ我が日本国を指しての呼称であるという点で特異なものである。直接読んだことはなくとも、その話なら知っているという人の甚だ多い問題作である。


 後に素行は播州赤穂の領主浅野家に配流・預りの身となっていた期間中の延宝三年(一六七五)に、簡潔な自伝と見做してもよい回想記『配所残筆』を著しているが、その中に『中朝事実』述作の動機と、自分が本朝を指して〈中国〉と呼ぶことにした理由を明快に説明している一節がある。


 冒頭の主要部分を現代文風に釈して引いてみると、


 ――自分は以前から異国の書物を好み、日夜精読した。最近輸入された書物のことは知らないけれども、十年以上前から入って来ていた書物は大方残らず眼を通している。ゆえに、つい異国のことは何でもよく知っていて、日本は小国だから何事につけても異国に及ばず、聖人と呼ばれる存在も異国なればこそ出現するのだ、と思い込んでいた。これは自分だけには限らず、古今の学者が皆そのように考えて異国の文物を学ぶのを専らにしていたのだが、最近この思い込みが誤りであることに気がついた。〈耳を信じて目を信ぜず、近きを棄てて遠くを取る〉というこのような態度は、改めて言うまでもない、実に学者の通弊というべきである。『中朝事実』にはこの弊について詳らかに記しておいた――


 というのである。


 右の〈耳を信じて目を信ぜず、近きを棄てて遠くを取る〉というのは『配所残筆』に付した土田健次郎氏の注によれば『抱朴子』広譬篇に〈遠きを貴びて近きを賤しむは、常人の用情なり。耳を信じて目を疑ふは、古今の患ふ所なり〉とあるのが出典だということであるが、これはまさしく『善隣国宝記』序文と同じ典拠によって、同様に捨近取遠の弊風を批判しているわけである。


 この述懐には『中朝事実』という一書の作因、および該書に代表される素行のいわゆる日本主義の根源が簡潔明白に言い表されている。殊に後者について、それは往々誤解されているような夜郎自大的な自国中心主義とは全く別のもので、いわば〈まず汝自身を知れ〉との学問的信条を述べたまでのものである。


 その点で瑞溪周鳳と同じく我が国における物学びの筋道についての見解表明なのであり、自国の古典を差し措いて異国の書物を(ひた)(すら)尊重する儒学の徒にありがちな通弊を戒めた正論である。


観念性への反発と『神皇正統記』への敬慕


 素行の学問が、元来「山鹿流兵学」との呼称からも明らかなごとく、兵法の学から出発したものであることもよく知られている。


 その兵法の学とは、史家によれば〈決して単なる戦術でも詭道でもなく、国家護持の作法、天下の大道真実の常道である〉(相良亨「近世日本における儒教運動の系譜」、『相良亨著作集1』平成四年)と定義できる。即ち国家学の性格を具えた学問様式である。素行は師の北條氏長から、兵法とは国家護持の作法であるとの優れた命題を承け継いだ上で、その作法の実践の道を、儒学の実用的側面である治国平天下の教義に求め、()つそれを見出した。


 そうなると思考論理の必然の流れに沿って、ある新しい視野が開けてくる。即ち兵法学の実践的現実主義的性格に足を踏まえて儒学を見る場合、例えば朱子学の特徴をなしている、現実から遊離した、観念的抽象的思弁的性格に向けての懐疑が生じてくる。朱子学に見られるような観念性は、果して孔子以来の聖人の学としての儒学の本来の姿なのかどうか――との疑惑に捉われることにもなる。


 このような懐疑を生ぜしめた好例が(しゆう)(れん)(けい)の『太極図説』であり、朱熹がそれに付けた『解』である。周子は『易』にいう「太極」を図示しようとの試みをしたまではよいが、太極の上に〈無極而〉の三字を(かぶ)らせて〈太極は(もと)無極也〉との命題を作った。朱子がそれに注して〈無極にして太極と曰ふ。太極の外に、復た無極有るには非ざる也〉と釈した。


 この思弁は何とも内容空疎な観念性に繫る。素行の兵学者としての現実主義的感覚は、その観念性に激しく反発した。『聖教要録下』から引けば、

〈周子、太極図を作る。尤も後学の惑ひを起すに足る。是れ聖人の道を知らざるなり。……周子、無極而の三字を以て、太極の上に冠す。甚だ聖人の罪人、後学の異端なり。(朱子の注を指して)太極の外、別に無極無ければ、則ちその言贅せるなり。太極の前に無極有れば、則ち異端の説なり。聖人の教は唯日用のみ。太極は先後本末を含蓄し、至れり尽くせり(それだけで全てを言い尽くしている)

『太極図説』の観念性のいかがわしさを契機として、素行の疑惑は朱子学そのものの正統性への懐疑に成長してゆく。その過程は『聖教要録上』の「道統」の章に窺い見られる。その結論の紹介のみに留めておくが、素行の見によれば、儒学の正しい伝統は宋学に到って遂に滅んだ。当代の儒学は群小の学者たちが勝手に(ほしいまま)なる私見を撒き散らす末流の相を呈している――。


 実はこの〈今は末流の世〉という認識こそが、力ある者にとっては、学問の再生復興への激励として響く内なる促しの声である。素行においては、この督励は二重の意味を帯びて生じた。


 第一に、現在の宋学が(しか)く末流ならば、そのような偏向を来す以前の聖人の学の本来の在り方はいかなる姿をしていたのか、との問いかけである。これが素行のいわゆる古学に向かう学問的姿勢の動機となる。その点、彼よりも五歳若い京都の町学者・伊藤仁斎の学問的覚醒と共通の地盤に立っている。寛文、延宝から天和、貞享年間にかけて、江戸と京都との双方で期せずして同様の学問上の新傾向が発していたということは、我が国の学問社会全般のある種の成熟の指標として、興味深い現象である。


 学問革新の第二の要として、素行は宋学における道統の〈(びん)(ぼつ)(『聖教要録上』)を看て取ったゆえに、翻って我が国における「道統」の在り様は如何?といった「他山の石」の警告をそこに聴く思いをしたのではないか。そして、その時に素行の念頭にあった我が日本の「道統」の指針とは、北畠親房の『神皇正統記』であった。


 先に引いた『中朝事実』の「自序」を、素行は〈今歳冬十有一月、皇統の実事を編し、児童をして(これ)を誦せしめ、其の本を忘れざらしめんとす、と(しか)()ふ〉(原漢文)と結んでいる。〈皇統の実事を編す〉というのがまさに『神皇正統記』と共通の発想である。


 北畠親房は国史の諸事象の考察を皇統の正しき継承という重大事に凝集させることによって、国の歴史が()つべき規範性を検証せんとした。素行は皇統の正しき継承という歴史の現実を確認済の前提として規範に取り、以て国家の在るべき姿を探索するという方向を取った。いわば、親房の考察の験算とでもいうべき方法であるが、志すところは同じ皇統の実事の確認である(親房が『正統記』の奧書に〈延元四年秋或る童蒙に示さんが為、老筆を馳せし所也〉と記したことは床しい含蓄であるが、素行も現実のある愛弟子を念頭に置いて、児童をしてこれを誦せしめ、「(もと)」を忘れざらしめんとするものだ、と記した。これも親房の(ひそ)みに倣ったものであろう)


国家学としての性格と限界

『中朝事実』の構成は上下二篇から成るが、上篇下篇共に、標題は「皇統」である。紙面の制約上、各章の項目を追っての内容検討の結果を記すことは控えざるを得ず、全体としての叙述の性格の紹介にとどめておく他ないのは残念である。


 その性格をあえて簡約して述べてみるならば、皇統の正しき継承という主軸を常に踏まえながら、兵法という国家護持の作法としての治道の要が、歴史上どのように発揮されていたかを講説してゆく。つまりは政治学の講義の展開なのだが、そこで取り上げられる諸契機は、まさに国家学の名に値する体系性を有している。

〈皇統上〉では前半の〈天先〉〈中国〉〈皇統〉の見出しを持つ各章で、〈天先づ成り〉で天地自然の生成と人間の誕生を語るのだが、(まこと)に残念ながら、本居宣長の『古事記伝』発表以前の学問的状況を如実に反映して素行の歴史考察の基礎史料は専ら『日本書紀』である。ゆえに、本人の古学重視の立志にもかかわらず、「からごころ」の影響は拭い難く、我が「葦原の中つ国」が〈天地の中を得た〉る事実を以て「(ちう)(ごく)」と呼ぶべしとの有名な命題自体が所詮「からごころ」の所産であるともいえよう。

〈皇統〉の項に至って、漢土の易姓ほとんど三十姓、朝鮮では易姓四氏、()つ李氏における国王弑逆の挙既に四度という〈乱逆・禽獣相残〉の歴史に対して、本朝の〈神武肇国以来二千三百年の皇統の不動〉との国体観の定立が宣言される。


 後半の〈神器〉〈神教〉〈神治〉〈神知〉の各項は、見出しに共通する〈神〉の字からだけでも素行の政治学の性格が推察できよう。即ちその要諦は、常に神勅と神代の巻の神々の事蹟に治道の規矩を読み取ってゆく底のものである。

〈皇統下〉の各章の標題は〈聖政〉〈礼儀〉〈賞罰〉〈武徳〉〈祭祀〉〈化功〉(此は帰化人来朝とその文化上の寄与の論判)となっているが、標題の文字を見ればこれらが即ち国家学の体系を構成する諸契機であることは推測できよう。中について〈礼儀〉の章が抜群に詳細で、分量は『中朝事実』全篇の約四分の一を占める。国家儀礼の概念を広く取り、君臣の義、賜姓命号の礼、憲章の制定、即位・立后・立太子の礼・大葬の礼はもとより善隣修好の外交儀礼、詔書書式の体例等々、この章は素行の国家学の面目が最高に発揮されている部分である。


 ということは、一方、〈賞罰〉〈武徳〉の章などには、後生としてある種の不足と不満を覚えるものでもある。親房が『神皇正統記』に衷情を吐露した時代には、朝廷は衰えたりとはいえ、ともかくも、なお勤皇の徒を糾合し、「官軍」として錦旗を掲げしめるだけの「武力」を有していた。素行が『中朝事実』にこの考察を記した寛文年間、霊元天皇の御代においては、朝廷は近衛軍団どころか儀仗兵の一隊さえ保有することが叶わず、現実には元和元年(一六一五)制定の「禁中並公家諸法度」によって(がん)()(がら)めに手足を緊縛された状態にある。〈皇統〉における武徳を論ずるとすれば、素行の基本的立場が〈皇統の実事を編し〉という現実主義にある以上、その叙述は、古典に記された上古の朝廷の兵事に限定してこれを語るにとどめるより他はない。南北朝時代の事蹟に至っては、親房の『正統記』に、さらに付け加えて語るべき何事もないという事態になっていた。


 一応の結論としていえば、乃木希典から捧げられたあれほどの敬重にもかかわらず、素行の国家学には、彼自身の「からごころ」に縛された教養と、朝廷が受けていた法的制約との双方により、国民の国家意識を全般的に改新するほどの影響力は未だなかった。その思想史的事業は、やはり後続の学徒たちの努力を俟って、(おもむ)ろに熟成の途を辿ることになる。


二 国史編纂の着想・幕府と水戸藩


徳川家康と江戸幕府の国史の編纂


 本書では第二章の第一節、第三章の第六節において徳川家康の存在と事蹟が日本の歴史に占める位置の重要さについて、既に相当程度の筆を費した。(しか)して国家意識の熟成を促した内発的要因という本章の主題からすれば、やはりふれずに通り過ぎるわけにはゆかぬ名前として、三度、家康の文教政策の歴史的意義に言及しておきたい。


 その意義とは他でもない、国史の撰修という事業の意味についての明白な自覚に(もとづ)いての強い意欲である。その意欲が表れた形は国家の最高権力者の意志に発する国史の編纂である。


 溯ればその名のみが伝承されている継体・欽明朝頃の「帝紀」「旧辞」や、聖徳太子、蘇我馬子の撰になったとされる「天皇紀」「国紀」に遠い先例を有し、元明天皇、舎人親王による『日本書紀』編纂の実現、以下、六国史の官撰という古代の長期の努力の再現と見てもよい壮挙が、幕府初期の修史事業だった。


 古代の国史が勅撰であったのに対し、家康の企てた国史は幕府の私撰にすぎない、との見方が立てられるかもしれない。しかし頼朝による武家政権の樹立以来、承久と元弘・建武の二度の朝廷による政権奪還の挙の挫折を経て、今や朝廷は完全に政治的実権を失っており、幕府が実質的な国政担当権力である。幕府の命による国史の編修は即ち「官撰」の名に値する事業と看做すべきものだった。


 もっとも、ちょうど徳川幕府成立当時の朝廷は、学問に(すこぶ)る心を傾けられた後陽成天皇が位に即いておられた(御在位一五八六―一六一一)。後陽成帝は、朝鮮半島から秀吉によって移入された活字印刷の技術に着目され、慶長勅版として声名の高い立派な木活字本を印刷せしめられたが、その中に『日本書紀神代巻』と北畠親房の『職原抄』が含まれていることが注目される(他に漢土の古典から四書と『古文孝経』が主なものである)。即ちこの時、天皇の宸襟裡にも歴史への御関心が確と存したわけである。ただ、それは勅撰史書の編纂を命ぜられるというまでには至らなかった。それは多大の財力と組織力を必要とする事業になるからである。多分、時の皇室の力を超えていたであろう。


 慶長二年に始まった勅版より二年遅く、家康の出版事業は慶長四年に開始され、慶長十一年の彼の駿府移居の年に及んだ。印刷所が家康の居城に近い伏見の円光寺に在ったことから、ここで印刷された版本は伏見版とか円光寺版と呼ばれた。『孔子家語』『三略』『六韜』等の啓蒙的古典と兵法書がまず印行されたのはよく理解できるが、翌慶長五年即ち関ヶ原合戦の年に『貞観政要』という政治学ないし帝王学の最高の古典を印刷させているのが特徴的である。慶長十年には『東鑑』『周易注』を印刷させているので、彼がいよいよ深く武家政治の歴史に心を入れて研究し始めた形跡が窺われる。


 家康の歴史研究と出版は慶長十二年に駿府に隠居してからも続けられ、元和二年の歿年まで、金沢文庫本『群書治要』の書写と印行、『続日本紀』『延喜式』等古典文献の写本作りを行わせ、林羅山を駿府城の書庫管理に任用するなど、史書を中心としての学問研究に自ら心を砕いた。


 幕府の官命による修史事業は、家康の唱導に始まって五代将軍綱吉の頃まで活発であり、その後六代家宣、八代吉宗、十代家治にかけては現実政治多事の時代で修史は低調を来すが、十一代家斉の寛政期に再び盛んとなり幕末に及ぶ。


修史事業を支えた国家意識の高揚


 今、水戸藩の『大日本史』編纂開始と拮抗する形となった、幕府の修史事業の前期の部分について、これは坂本太郎著『日本の修史と史学』(日本歴史新書、至文堂、昭和三十三年)の記述を借りて、一瞥という程度になるが概括しておく。


 坂本の説いている通り、新たに登場した支配者が自己の支配権力の正統性を主張するために、自己の覇権の来歴を、種々正当化を施しつつ編修するのは古来多くあることで別に珍しい現象ではない。徳川幕府の場合、武家政権としての己の登場の正当性を論証せんとするだけならば、武家政治の創始者たる頼朝の出現の歴史的必然性を説くことから始めて、その正系の後裔として現に源姓を名告っている己の覇業の正しさを説けば済むはずである。


 ところが家康の歴史的関心は、実は決して自己正当化の動機に発したものとは思われない広さと学問的な公正さを有している。続く秀忠、家光にしても同じであり、その三代の将軍に学術顧問として仕えた林羅山(四代家綱の時まで存生)にしても、学究としての本領は宋学であったにせよ、その『本朝神社考』や『神道伝授』の著作が示しているごとく、国史と神道に関する造詣は深厚であり、幕府の修史事業の学問的根柢を支えていたのは羅山だったと見てよいであろう。


 以下、坂本太郎氏の該書に依拠して、徳川時代前期の官撰歴史編修事業の主要なものを挙げると、まず三代家光が寛永十八年(一六四一)に林羅山に命じて作らせた神代以来の天皇の系図、および鎌倉、室町幕府の将軍家の系図、織田信長と豊臣秀吉の年譜があり、それらが完成した正保元年(一六四四)に、羅山はその実績に(もとづ)いて公家・武家の系譜作りに編纂の規模を拡げ、『本朝編年録』を編み上げた。


 この稿本は、明暦三年(一六五七)江戸の大火で類焼した江戸城の火災のため、羅山が苦心して蒐集した一万巻余の蔵書と共に焼失した。その災厄に衝撃を受け、羅山は数日後に死去するが、羅山の三男・春斎(別号、()(ほう)が、自家に在って災禍を免れた「編年録」の草稿を基礎とし、さらに諸方に史料を採訪して亡父の遺志を継ぎ、編纂の業を再興させた。


 春斎はその二子・春信(ばい)(どう)、信篤(ほう)(こう)および門人等の助力を得、また老中酒井忠清の信頼をも()ち得て寛文十年(一六七〇)、合計三百十巻の大冊を四代将軍家綱に献上することができた。神代に始まり、後陽成天皇の御代に至る本朝の通史が完成し、司馬光(温公)の『資治通鑑』に倣って『本朝通鑑』と命名することになった(編纂の過程等の細目にわたっては煩を恐れてここに贅しない)


 改めて言うまでもないことだが、『資治通鑑』の語義は、政治に資するための常の(かがみ)(手本、前例)である。十一世紀末葉に成立したこの書は、その「目録」と「考異」を併せて支那の史書の最高峰であるとの評価が定着している。


 その書名にあやからんとの意思に発したこの命名には、やはりそれだけの自負心が籠められており、その自信の根拠は、本朝の神代以来の史実に関する史料の博捜とその厳密な批判に(もとづ)く記述の公正に在る。


 思うに、このような国史の書の実現を官撰の形で要請したというところに、徳川初期三代の幕府中枢とその学術顧問たちの精神を支配していた、国家意識の昂揚を看て取ることができる。つまり時代はそこまで成熟に達していた。


水戸藩・徳川光圀の修史企画

『資治通鑑』の存在が、興隆に向かった徳川初期日本の国家意識に官撰国史の所有という形を取ってよき刺激を与えたとすれば、同じ脈絡で水戸藩の修史事業『大日本史』の編纂が有する意義を看過するわけにはゆかない。


 明暦三年一月の江戸の大火で江戸城内の文庫にあった『本朝編年録』の稿本が焼失し、林羅山が落胆の余り、数日後に死去したことは今述べた通りだが、その翌月二月下旬に水戸藩の第二代藩主・徳川(みつ)(くに)が江戸駒込の別荘(現在の文京区弥生一丁目)に史局を開設し、国史の編修に着手した。わずか一カ月の時差しかないこの二つの事件の間に、巷間の風聞に言う如き何らかの微妙な関係があるのかないのか、後生が(みだ)りに忖度すべきことではないが、少しく興味を(そそ)る連関である。


 この史局は寛文十二年(一六七二)小石川の今の後楽園の地にあった水戸藩の別邸に移転し、「彰往考来」の成語から採って彰考館と命名された。


 徳川光圀の修史に志した動機としては、彼が十八歳で『史記』の伯夷伝を読んで感奮した経験がそれであるというのが巷間の通説である。これは光圀の歿後に(正徳五年)彰考館総裁・大井松隣が、藩主・(つな)(えだ)の名義で書いた「大日本史叙」に出てくる話であり。それなりの権威を以て流布しているが、どうも話をわかりやすくするための作り話ではないかという匂がする。


 より重要なのは、幕府自身をして史書の編修に向かわしめた時代の空気というものである。その空気の中で、たまたま羅山の畢生の苦心の成果たる史書稿本の焼失という災禍が生じた。この時まだ世子の身分であった光圀の胸中に、羅山の遺志を継いで国史撰修の業を推進するのが自分の使命だ、との意識が生じたといえば美談めくが、羅山の後には然るべき俊秀の子弟門人が揃っていたことではあり、光圀が羅山の悲願を忖度して志を立てたと見るよりは、むしろ先に幕府中枢による修史事業への対抗意識が胸中に在り、それが稿本焼失の報を機として自らの修史の着手という形に表れたのだと見る方が自然であろう。

『大日本史』編纂の経過自体が一篇の物語ともいうべき複雑さと起伏を有しているが(『国史大辞典』で約二頁にわたる)、ここではその紹介はあえて差し控える。またその国史としての三大特筆と評定されている、ある傾向をも、本書の文脈では重視する必要を認めないのだが、これは光圀自身の史観の顕著な表れと看做されている事項なので義理として触れておく。


 その第一は、神功皇后の一代を本紀には入れず、后妃伝の系列に入れていることである。神功皇后の扱いについては『日本書紀』がその巻第九全巻をあてて事蹟を叙しながら、天皇の称号を奉らず、常に皇后と呼び、六十九年の長い摂政在位の期間をも即摂政としての(おき)(なが)足姫尊(たらしひめのみこと)の諡号で通している、一種の不決断の体を見せている。『本朝通鑑』では我が朝の初の女帝と呼ぶ態度を取った。このどちらともつかぬ従来の扱いに対し、光圀は『通鑑』への対抗意識もあり、名を正すの気概も働いて、后妃としての認定に筋を通したのであろう。


 第二は、大友皇子の即位を認め、天皇として本紀に立てたことである。光圀は『書紀』が大友を天皇として扱っていないのは編者の舎人親王が父の大海人皇子=天武天皇の正統性に配慮して曲筆したゆえだと判じた、というのが坂本太郎説である。


 話が少し(わき)(みち)に外れるが、第五十五代・仁明天皇までの帝紀である『水鏡』には、〈天智天皇十二月三日に失せ給ひしかば、同五日大友皇子位を嗣ぎ給ひて、明くる年(壬申)の五月に、(大海人皇子が)なほこの帝を疑ひ奉りて〉云々と、確かに皇位継承の生じたことを明記し、〈帝〉と呼んでもいる。だが、この程度の根拠で大友皇子の即位を断ずるのは軽率だというのが坂本説である。


 ちなみに『水鏡』の記述は天武帝の大友皇子に向けての所行について〈みかどは、皇子の御叔父にておはせし上に、御舅にてもおはしまししぞかし。かた〴〵したがひ奉り給ふべかりしを、あながちに勝にのり給ひし事の、仏神も(うけが)はずなりにしにこそ侍るめれ〉と批判的であり、天武帝の崩御の年の十月二十三日〈天文ことごとく乱れ、星のおつること雨の如く侍りき〉と何か思わせぶりの記述をしている。


 第三の特色が、よく知られている南朝正統論である。これは明治四十四年に国定国史教科書が南北両朝の併立を端的な史実として記述していたのに対し、南朝正統論者の一部が政争の種とせんとの企みから南北朝正閏論争を起した事件にまで尾を曳いた、史学上の難問題である。


 これは『本朝通鑑』の編纂者たちも頭を悩ました揚句、当代の皇統が北朝の系統であるといった政治的次元の判断から北朝正統説を採らざるを得なかった難題であった。官撰の史書編修の立場からすれば自然の逡巡ぶりと言えよう。


 水戸藩とても、以て北朝の正統を否認するというまでには行っていないのだが、いわば、ここは学問の自由を貫徹するという立場から、あえて南朝正統論を立説するに至ったごとくである。これもまた、むしろ寛文から貞享・元禄にかけての我が国の学問世界を領していた自由の雰囲気のよき証言をなす、相反する見解の併立現象だったと見てよいであろう。


『大日本史』の歴史的意義

『大日本史』の場合、史書としてのその内容・傾向よりも、このような包括的な国史の編纂が企てられ、その史料をなす古文書類の蒐集と本文批判とに未曾有の学問的努力を傾け、()つそれが企画発案者である光圀の存生中に「百王本紀」の本文と「列伝」の草稿までは完成できたという意義が重要である(「論賛」という人物・事蹟の評価は光圀の初案にはなく、部門別の制度史たる「志」と各種官職表なる「表」までを含む全構想が完成したのは編纂開始から二百五十年を経た明治三十九年のことであった。印刷刊行の実現は大正年間にかかっている)


 史体という観点からいえば、本書は漢土に先例を仰いだ紀伝体であり、本紀・列伝・志・表(加えて目録)という構成を有すること、右に成立史に即して記した通りであるが、本紀の部分が何分にも神武天皇建国の古から第百代後小松天皇まで、文字通りの百王一姓の帝紀が綴られてある姿は、漢土にも全世界のいかなる国史にも絶えて例を見ない、唯一無二の帝室史になっている。


 列伝の系列に(つらな)る后妃伝、皇子伝、諸臣伝、将軍伝、将軍家族・家臣伝の各巻は、一言にしてその意味を直言するとすれば、歴史は(すべか)らく人物本位で見るべし、との大いなる鑑戒の体例である。いわゆる唯物史観に向けての、無言の、徹底した反措定(アンチテーゼ)である。


 同じ脈絡で、文学(文人)伝、歌人伝、孝子伝、義烈伝、烈女伝、隠逸伝、方技(医家、卜家、占星家等)伝も、歴史上の様々なる人間の営みの来歴を知る点で面白く、叛臣伝、逆臣伝という項目が立てられてあるのも興味を(そそ)る。

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