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遅咲き偉人伝
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ルポ・エッセイ
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松本清張【まつもと・せいちょう】

『遅咲き偉人伝』
[著]久恒啓一 [発行]PHP研究所


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あくまでも貪欲にして自由に、
そして奔放に、
この世をむさぼって生きていたい

「命と時間との競争だ」

 松本清張(一九〇九年〜一九九二年)という作家が作家活動四十年の間に書いた作品は、長編・短編を含め、実に一〇〇〇編に及ぶ。著書は七〇〇冊。四十三歳という遅い出発だったにもかかわらず、この量と質だから、常に「時間との戦い」ということを意識していた。

 中央公論社、光文社、新潮社、朝日新聞出版、講談社、文藝春秋社などの清張担当の敏腕編集者たちの清張を語るエピソードを紹介しよう。
「命と時間との競争だ」といつも言っていた・調べものには厳しかった・緊張感がありいつも真剣勝負だった・「時間がない。他の作家がゴルフなどをやるのは信じられない」と語っていた・自らを奮い立たせた人だった・とほうもないエネルギーを持つ怪物だった・「書くことが多すぎる」と語っていた、などがある。

 このように清張には「遅咲き」という意識が常にあり、趣味などには一切見向きもしないで天職に没頭した人生を送った。

 そんな清張は出来合いの分野の垣根を軽々と越えて、あらゆるジャンルに関わりながら書き続けた。分野としては、歴史・時代小説、自伝小説、評伝小説、推理小説、自伝・エッセイを書きまくった。邪馬台国論争などにも関わり、歴史学者の心胆をさむからしめたりと、とにかく守備範囲が広いのが特徴である。

 出世作『或る「小倉日記」伝』が、最初は直木賞候補だったが芥川賞に回されたことをみても、一つの型にはめられないところがあったようだ。清張の文学を「脱領域の文学」という評もある。主題によって小説の形式を決定し、表現方法を考えるという作風で、フィクション、ノンフィクション、評伝、古代史、現代史とあらゆる分野を(また)いでいった作家である。

「動機のない犯罪というのはありません。そして動機のある犯罪は、人間がもっとも窮極の立場におかれたときの性格の現れではないかと思います。したがって、動機を追及するということは、すなわち性格を描くということであり、人間を描くということに通じるのではないかという考えをもっているのであります」
(『推理小説の発想』) 
「当時の制度下で生きる人間を描くことは、現代の組織の中で息する人間を描くことになる」
(「松本清張記念館の展示」) 


 清張は、犯罪という人間的な行為の動機を発見することから始めた。人間は性格という土台に乗っかって生きているのだから、その性格を確かめるという行為は、犯罪という行為の秘密を解くことになる、というわけだ。

 膨大(ぼうだい)な作品群を改めて眺めてみると、『ゼロの焦点』『点と線』『黒の回廊』『日本の黒い霧』『けものみち』『昭和史発掘』など、タイトルのつけ方が実にうまい。

 堅固な構造のストーリー、スピード感のある展開、絶妙に語られる人間や風景の描写、これらの要素が織り成す小説的リアリティも特徴である。生誕百周年の二〇〇九年(平成二十一年)には全国を巡る巡回展が行われたが、この機会に改めてこの作家の作品に触れた人も多いことだろう。

司馬太郎と対照的な作風

 前述したように清張は好奇心が強くあらゆるものに興味を持ち、作品の主題に基づいて形式と表現方法を考えた。清張は「好奇心の根源とは?」との問いに、「疑いだね。体制や学問を鵜呑(うの)みにしない。上から見ないで底辺から見上げる」と語っている。

 あとでも述べるが、十四歳下の同時代の巨人・司馬太郎が鳥瞰(ちようかん)的手法を用いた作風であるのと極めて対照的である。司馬太郎は晩年には夏目漱石に()かれていったが、松本清張は外に生涯を通じて関心を持っていた。清張の書いた『両像・森外』には、透徹した目で見た外像が描かれている。

 現代史の分野では『日本の黒い霧』で占領下の一二の事件を追及している。帝銀事件、下山事件、造船疑獄、昭電疑獄……。やはり「先入観を持たず、権威や学問をまず疑ってかかる」と述べている。

 面白い調査記事がある。「毎日新聞」の二〇〇四年十月二十六日の記事である。第五八回読書世論調査の「好きな作家」(一人で五人挙げる)という項目の結果である。

 芥川賞作家では、一位松本清張(二二%)、二位遠藤周作(一七%)、三位井上靖(一三%)、四位石原慎太郎、五位田辺聖子、六位北杜夫、七位大江健三郎、八位村上龍、九位石川達三、一〇位柳美里。

 直木賞作家では、一位司馬太郎(一七%)、二位五木寛之、三位向田邦子。

 このように松本清張と司馬太郎は様々な面で興味深い比較ができるようだ。両氏と近い関係にあった編集者で後に作家となった半藤一利氏が、『清張さんと司馬さん』というエッセイで述べていた。ローアングルの清張はデビュー作から最晩年の『両像・森外』まで一貫して外に興味を持ったのに対して、ハイアングルの司馬は晩年には漱石を懐かしむようになった、という。この社会の底辺から見るという清張の視点は、多くの作家に大きな影響を与えた。文壇には「清張以後」という言葉ができたほど、松本清張の存在は大きかった。清張以後に活躍した、森村誠一、三好徹、笹沢左保、佐野洋、水上勉などは、松本清張という作家がもたらした推理小説の変革によって誕生したといってもよいくらいだ。

膨大な作品群と圧倒的な仕事量

 松本清張の年譜を見る。十五歳電気会社の給仕、十九歳印刷会社の見習い職人、二十四歳オフセット印刷所見習い、二十八歳朝日新聞社九州支社広告版下係、三十四歳正社員、三十五歳第二四連隊入隊、三十九歳朝日新聞社西部本社広告部意匠係、そして四十一歳「週刊朝日」懸賞小説に『西郷札』で三等入選、四十四歳『或る「小倉日記」伝』で芥川賞受賞、東京への転勤を経て四十七歳で朝日新聞社を退社し、作家生活へ入る。

 四十代後半から、やっと念願の創作活動に専念する。

 そして、四十九歳『点と線』がベストセラー、五十歳『小説帝銀事件』、五十一歳『日本の黒い霧』、五十二歳所得番付作家部門一位、五十六歳『昭和史発掘』……と満八十二歳で亡くなるまでの三十五年間をまさに仕事の鬼になって、良質の膨大な作品群を生み続けた。

 中島敦、太宰治、大岡昇平、埴谷雄高(はにやゆたか)、そして松本清張は一九〇九年(明治四十二年)の同年生まれである。中島には『山月記』、太宰には『人間失格』、大岡には『武蔵野夫人』、埴谷には『死霊』などの代表作がある。「群像」を舞台とした大岡昇平の「松本清張批判――常識的文学論」と清張の「大岡昇平氏のロマンチックな裁断」という論争もあった。

 一九〇九年という年は、伊藤博文が旧満州で暗殺された年であり、文学誌「スバル」が創刊された年でもある。年譜を見ると、彼らの少年時代は大正デモクラシーの時代で、自由主義教育、大正教養主義の盛んであり、教育の現場では「綴り方」が行われていた。埴谷雄高の小学校一年から五年までの通信簿によると、修身、国語から始まって歌唱、手工などすべてが優秀の「全甲」だった。国語の項目を(のぞ)くと「話し方、読み方、綴り方、書き方」であった。以下、同世代の作家の人生を点描してみよう。

 青年時代は、清張のみ高等小学校を出て就職している。大岡は小林秀雄に心酔し、個人教授を受けているが、京都帝大を出て国民新聞、帝国酸素、川崎重工を経て出征し、新夕刊新聞、フランス映画輸出入組合に職を得ている。早熟の中島敦は東京帝大を出て三十三歳で亡くなっている。

 戦争が始まった一九四一年(昭和十六年)は三十二歳。太宰、埴谷は胸を患い徴用免除、清張は衛生兵として朝鮮に、大岡は暗号手としてフィリピンに出征している。清張と大岡が会社勤めをしたのは、出征後にも手当てが出ることが理由だった。

 この同年生まれの五人の作家の全集を見ると、中島は三巻、太宰は一二巻、埴谷は一九巻、大岡は二三巻だが、清張は実に六六巻と圧倒的な仕事量だったことがわかる。

 中島は三十三歳で『山月記』(三十三歳で没しているが、死後『李陵』が発表された)、太宰は三十五歳で『津軽』、大岡は三十九歳で『俘虜記』を発表し、埴谷は三十九歳で『死霊』第一巻を刊行、そして清張は四十四歳で『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞して、各々作家としての地歩を固めた。清張はこの中でもやはり遅咲きである。

 清張は満八十二歳で亡くなるまで膨大な仕事をし、満八十七歳で亡くなった埴谷もその直前まで作品を発表している。全体を眺めてみると、活躍した時代がずいぶんと違う。人の業績をみるには生年ではなく、没年が重要なのだ。

縁と運が重なり合ってチャンスが巡る

 清張の『学歴の克服』というエッセイを読むと、清張は家庭の経済状況から進学できずに、最終学歴は高等小学校卒業だった。そのため辛酸をなめたが、学歴による差別を受けると、その落差を埋めるだけの闘志を持って仕事をしていた、という。

 その不遇の時代に「いつかは小説家になろう」と思って本をよく読んだ。それが心のより所だった。そのことが自分自身への矜持(きようじ)となって、人生に希望を失わなかったのだろう。

 また、『あのころのこと』というエッセイには、『西郷札』から始まって世に出るまでの物語が記されている。
「週刊朝日」の懸賞小説に四十歳の清張が書いた『西郷札』という作品が入選した。この作品は三等一席というヒラの入選だったのだが、編集者の好意でたまたま春季増刊号で活字になった。

 その好運によって、すでに大家となっていた大佛次郎(おさらぎじろう)が読み、感想とアドバイスをもらっている。そのことで、「三田文学」への寄稿の道が開かれた。

 この「三田文学」に『或る「小倉日記」伝』が載ったのだが、これが直木賞候補になった。受賞は逃したが、選考委員の永井龍男が芥川賞向きだとして、芥川賞選考委員会に回された。そしてこの作品が、芥川賞をとったのだ。

 その後、「別冊文藝春秋」を仕事場として、小説を書き続けた。それは、勉強しながら書き、書きながら勉強するという状況だった。

 編集長から()められると調子に乗ってますます勉強する小学生のように励んだ。そのとき清張はもう四十八歳だったが、その修業が後の大成につながった。

 若いときに志望していた小説家になったのは偶然で、それは努力したからではなく、大半は運だった、と本人が述懐しているのもうなずける過程だった。
「私のような者にも運はくるものだと思った(受賞は運によるところが大きい)」と清張が述べているように、縁と運が重なり合ってチャンスが巡ってきた、その四十代に死に物狂いで仕事をしたのである。

 瀬戸内寂聴の『奇縁まんだら』(日本経済新聞出版社)には、「私は世に出るのが遅かったからな、人の三倍くらい書かんことには死ぬまでに追いつけない気がして焦るのよ」と、生真面目な清張の言葉が紹介されている。また日本一の流行作家として名をなした清張は女性関係で、ある悪縁があったが、「おかげで、ぼくは悪女というものを初めて識った。あれ以来小説に悪女が書けるようになった。心の中では恩人と思ってるんだ」(『奇縁まんだら』)と語ったそうである。
「使える」と思った編集者は資料収集にこき使ったり、気に入らない担当者には感情的に接するなど、清張は編集者にとってかなりの難物だったようだが、こういう純情な一面もあったようである。

 清張は、一九八〇年(昭和五十五年)から日記をつけ始めた。それは七十一歳のときである。内容は旅の記録、人との交遊、歴史上の事件に対する懐疑、人物批評など様々だが、清張らしい緻密(ちみつ)な内容だ。読むと、この年齢での行動力に感心してしまう。以下、私が線を引いた箇所を記してみたい。

酒はなるべく控えるべし、酒を飲むと執筆の時間がなくなる、と自分は先輩の彼に「忠告」したことがある。
自分はもとより才能なく、ろくろく教育を受けず、知識を授かる正規な場所も人もなくして、今日に至る。些少の努力をもって欠点を補わんとしたるのみ。
未知の読者からのこうした手紙を拝見するたびに、ありがたいと思うと同時に、身の緊まる思いがする。
ゲラに手入れす。いつもの如く抹消、加筆多し。推敲の足らざるを反省す。


 清張の人生は正規の教育を受けなかったという弱みを補うために、酒も控え、趣味も持たず、ひたすら努力を重ねる人生であった。読者の声と自分の誠実さを頼りに仕事に没頭する姿を垣間見る思いがする。

「巨匠とは何ぞや」という問いに、いかに長い時間原稿用紙に向かっていられるか、と答えたそうだ。これは、新潮社の編集者の述懐である。
「歳をとって、よく人間が枯れるなどといい、それが尊いようにいわれるが、私はそういう道はとらない。それは間違っているとさえ思う。あくまでも貪欲にして自由に、そして奔放に、この世をむさぼって生きていたい。仕事をする以外に私の枯れようなんてないんだな」

 最後まで駆け続けた松本清張らしい言葉である。
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