「ないもの」がある部屋
「ないもの」は「ある」のだろうか?
いや、つまり――
この絵は何の絵だか、わかりますか?
何を聞かれてるのか、困っちゃったかもしれないけど、これは、いろんなものの絵でありうる。たとえば――
これは、ぼくの気持ちとしては「この部屋にはパンダがいない」という絵なのだけれど、もちろん、「この部屋には噴水がない」という絵でもありうる。もちろん、「この部屋には金塊の山がない」という絵でもありうる。そしてもちろん――
というわけで、いろんなものの絵でありうる。
何の関心ももたないで世の中を見渡してみよう。ほら、否定なんて一個もない。ただそこにあるものが、そうあるようにして、あるだけだ。
「ない」を求める若者の話
昔、「ない」ということがわからない若者がいた。
彼は村の一人の僧侶に尋ねた。
「『ない』というのは、どういうことなのですか。教えてください」
僧侶は答えた。
「明日、目覚めたらあたりをよく見なさい。そして『ない』を探してごらんなさい。あなたの家に見つからなければ村に出て探しなさい。そして日が暮れたら、私のところにもう一度いらっしゃい」
翌日若者は言われるままに「ない」を探した。日が暮れて、何の成果も得られぬまま、若者は僧侶のもとにおもむいた。
「探しました。でも、『ない』はどこにもありませんでした。この村にはないのでしょうか」
僧侶はにっこりして答えた。
「いま、ありました」
否定の不思議
ぼくはうかつにもさっきこう言ってしまった。「何の関心ももたないで世の中を見渡してみよう。ほら、否定なんて一個も〈ない〉」。だけど、こう言ったとたんに「ない」が一個出てしまったわけだ。
でも、あれ? そうすると否定はあったわけだから、そのとたんにまた「ない」がなくなってしまって、ありゃりゃ。
いかん、こんがらがってしまった。
否定の不思議。
ないものが、ある。
否定において、ぼくたちは、そこにないものを見てとることができる。
たとえば書斎に入ったときにいつもある机がなかったとする。「なんか変だ」どころじゃない。「あれっ、机がない」。ぼくはそのとき推測したり推理したりすることなく、机がないことを「見る」だろう。
机がないその部屋を写真にとることだってできる。でも、それが「机がない」写真だってことは、だれにでも伝わるわけじゃない。黙ってその写真をひとに見せる。そのひとは言うかもしれない。
「あれっ、パンダがいない」
――そうじゃないだろ。
でも、写真にことばを添えればだれにでも伝わるようになる。「この部屋、机ないだろ」と言えば、だれでも「そうだね」と言ってくれる。あたりまえ? いや、そのあたりまえのことが、なかなか不思議な感じがしないだろうか。
否定はことばで表わされる。そこでぼくはさらに、ことばがなければ否定はない、と言いたい。
言いたいんだけどね、それはもっと大きい話の一部として話さなければならない。
まあ、ゆっくり行こう。
人間以外の動物でも考えるのだろうか
質問――人間以外の動物も考えるのですか?
答え――わかりません。
だって、人間以外の動物のことなんて、ぼくにはわからない。