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愛と義と智謀の人 直江兼続
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歴史
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第三章 北国の守護神

『愛と義と智謀の人 直江兼続』
[著]童門冬二 [発行]PHP研究所


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天下人に累進した秀吉の地方支配策 ―― 合戦の道と、精神を豊かにするための道


 信長横死後の北陸地域では、柴田勝家と佐々成政が手を組んだ。反羽柴秀吉連合だ。そこで天正十一(一五八三)年二月六日には、羽柴秀吉の将増田長盛(ましたながもり)が、上杉家に秀吉の越中出兵を告げ、協力を要請する手紙を寄越している。このとき直江兼続は主人景勝に対し、ためらわずに秀吉に協力する意志を固めさせた。上杉景勝には坊ちゃん育ちの気質があって、それはそのまま、
「反巨大権力」

 という気持ちを湧かせる。だから景勝も秀吉の異常な発展ぶりに反感を覚え、腹の中では、
(あんな成り上がり者に屈するものか)

 と考える一面がなかったとはいえない。しかし子供のときから苦労してきた兼続にすれば、そんな考えは私感情であって、今は公の感情で生きなければならないと思う。公の感情というのは、
「あくまでも、越後の民を守り抜く、大事にする」

 という謙信以来の治国方針を貫くことだ。織田信長が明智光秀に殺された以後の羽柴秀吉の累進ぶりは凄まじい。あのとき彼は備中(岡山県)高松城を囲んで、毛利方の城将清水宗治(むねはる)を攻め立てていた。例によって、直接戦闘は行わない。近くを流れている足守(あしもり)川の水が、城の周りに流れ込むように環状の堤を造った。水攻めだ。これによって城の食料や水を断たせる。成功しかけていた。

 そんな時に信長が殺された。そこで秀吉は急遽毛利方と和睦し、Uターンして上方へ向かった。京都山崎で明智光秀を討った。ついで清洲会議が行われたことは前に書いた通りだ。

 秀吉は自分が祭主となって、京都紫野大徳寺において信長の葬儀を行った。もちろん信長の遺体はない。木像を造ったという。

 十二月には信長の子信孝(のぶたか)と和睦した。そして翌天正十一(一五八三)年二月には、敵対した織田家の重臣滝川一益(たきがわかずます)を伊勢に討った。四月に柴田勝家との賤ケ岳(しずがたけ)の合戦が行われ、秀吉は大勝した。そのまま越前北ノ庄城に攻め入り柴田勝家は自刃した。このころ柴田勝家と共同歩調をとっていた織田信孝も居城の岐阜城から落ち、自刃した。

 この年五月に秀吉は従四位参議に昇進した。六月に信長の一周忌を同じ大徳寺で行った。滝川一益は秀吉に臣従した。七月から秀吉は大坂に城を造りはじめた。そして十一月には新城へ移った。

 翌天正十二(一五八四)年三月には、徳川家康との間に小牧(こまき)長久手(ながくて)の戦いが始まった。しかし、十一月になると秀吉は家康と組んでいた織田信雄(のぶかつ)と和睦した。このとき、彼は従三位権大納言に昇進した。十二月には徳川家康と和睦し、その子秀康を養子とした。天正十三(一五八五)年三月に、秀吉は正二位内大臣になった。五十歳である。

 このころ、九州の大友宗麟(そうりん)が秀吉のところにやってきて、
摩の島津が北上し、九州全土を席巻しっております。お助けください」

 と嘆願した。秀吉は九州征伐を決意する。その前哨戦として、紀州(和歌山県)を平定した。この功によって七月に秀吉はついに関白に昇進する。

 やがて、四国で暴れまわっている土佐(高知県)の長宗我部(ちようそかべ)氏を討つために四国征伐を起こし、直ちに平定した。こういう地方に対する制圧戦争を秀吉はすべて、
「征伐」

 と名づけている。それは彼が天皇の命によって、

・今後日本国内における私戦を禁ずる
・これに背いたときは、関白として天皇の依命通達により、懲罰のための武力行使を行う
・したがって、羽柴秀吉軍は天皇軍であり官軍である。対する抵抗者は賊軍である


 という定義を行っていた。秀吉流の自己権力拡張のための大義名分だ。しかしこれは理があった。というのは、やはり当時の武士はもちろんのこと、特に庶民層が長年続いた戦争に厭き果てていた。民力も疲弊しきっている。
「民力休養」

 は喫緊の課題だった。したがって秀吉の諸国征伐は歓迎された。とくに、合戦のために重い負担を強いられていた農民が喜んだ。そして四国平定後の八月に、秀吉軍はついに富山城に()っていた佐々成政を降伏させた。

 翌天正十四(一五八六)年二月に、秀吉は京都に聚楽第(じゆらくだい(てい))を造りはじめた。聚楽第は関白としての秀吉の役所だ。御所内に役所を設けると、周囲をびっしり公家たちが固めているのでやりづらい。そこで秀吉は御所外に出て関白役所を設けた。同時に聚楽第は秀吉の私邸でもあった。数寄を凝らした。この建設には多くの大名が動員された。いわゆる天下普請(ふしん)である。秀吉は九州征伐や四国征伐など例にとりながら、
「諸国の大名は至急京都に来て、天皇に忠節を誓え」

 と命じていた。天皇に忠節を誓えというのは、自分に忠義を尽くせということだ。家臣になれということである。ほとんどの大名がこの“秀吉関白丸”という船に乗り遅れまいと、先を争って京都にやってきた。訪ねるのは御所ではない。聚楽第だ。つまり天皇に忠節を誓うのではなく、秀吉に臣従の誓いを立てるのだ。

 しかし絶対に京都に来ない頑固な大名もいた。遠江(とおとうみ)(静岡県)浜松城を拠点とする徳川家康である。あるいは陸奥(東北)の伊達政宗だ。さらに相模(神奈川県)小田原城を本拠とする北条氏康などであった。秀吉はこれらの抵抗大名に対し、
「いずれは征伐する」

 と意志を表明していたが、その前にもしも徳川家康が臣従してくれれば、これらの抵抗大名に与える心理的影響が大きいと思っていた。

 このころ、上杉景勝もまだ京都には行っていない。佐々成政を征伐するときには協力したが、だからといって秀吉に臣従したわけではない。まだ対等の付き合いをしていた。秀吉の側近石田三成や増田長盛たちはこのことを憂えた。それ以前からも何度も手紙を寄越しては、
「景勝殿を上洛させてほしい」

 と兼続に要望した。しかし兼続は容易に腰をあげない。景勝の方が逆に、
「おい、そろそろ京都に行った方が良いのではないか」

 というが、兼続は首を横に振るだけだ。そしてぽつんと、
「安売りしてはいけません」

 という。景勝は眉を寄せて呆れたように兼続を見返す。そして、
「大分強気だな」

 と苦笑する。しかし兼続の頑張りぶりは景勝の望むところでもある。景勝も簡単には秀吉に頭を下げたくはない。やはり北国の守護神である毘沙門天意識は、景勝にもある。したがって織田信長が京都本能寺で横死したのちの上杉景勝・兼続主従の行動は、主として越中方面の防衛を固めると同時に、越後国内で蠢動(しゆんどう)する反対勢力の鎮圧に力を注いでいた。

 この間、天正十二(一五八四)年の十一月二十四日には、兼続の父の樋口兼豊が直峰(のうみね)城(上越市)の城主に命ぜられている。

 ようやく機が熟した、と判断した兼続の勧めによって、上杉景勝が京都に行ったのは、天正十四(一五八六)年五月二十日のことである。この直前に、例によって石田三成が木村清久と増田長盛との連名で、兼続に、
「今が景勝公上洛の最高の機会です」

 と要請してきた。このころは秀吉が自分の異父妹(あさひ)姫を、徳川家康の後妻に押し込んだばかりであった。秀吉にすれば、
「これで、頑固な家康も必ず上洛するに違いない」
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