読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン
0
-2
kiji
0
0
1252860
0
明治天皇の世界史 六人の皇帝たちの十九世紀
2
0
0
0
0
0
0
歴史
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
第四章 大国になった日本──そして明治天皇崩御

『明治天皇の世界史 六人の皇帝たちの十九世紀』
[著]倉山満 [発行]PHP研究所


読了目安時間:30分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ


あくまで日露戦争を望んでおられなかった明治天皇


 我が国は、日露戦争に勝利しました。明治天皇は、「大帝」とも呼ばれるようになります。大戦争に勝って大帝国を築いたから、大帝です。


 しかし、明治天皇の心身は優れませんでした。戦争を決して望んでいなかったことが大きな理由と思われます。


 なぜ明治天皇は、ロシアとの戦争を望まなかったのか。平和を愛する心の持ち主だったから、勝算がなかったから、公家的精神の持ち主だったから、立憲君主としての立場をわきまえていたから。あるいは、それら複数が原因か。歴史家によって評価はわかれるでしょうが。いずれにしても、開戦を望まなかったのは確かです。そして、体調不良が目立つようになりました。


日露戦争後、ロシア帝政はますます袋小路へ


 日本の運命も、日露戦争に勝っただけで安泰となったわけではありません。


 まだまだ、ロシアの復讐戦を警戒しなければなりません。では、ロシアの事情は、どうだったでしょうか。日露戦争後のロシア国内事情を見ておきましょう。


 一九〇五年ポーツマス条約に調印した年、ニコライ二世が国会の開設などを約束した「十月詔書」が発布されます。それでも、十二月にはモスクワでゼネストから暴動が起きるなど、改革を求める動きは収まりません。翌一九〇六年五月六日には、憲法にあたる国家基本法が発布され、五月十日には第一回の国会にあたるドゥーマが開かれました。内相から首相に就任したストルイピンが土地改革を進めます。


 一八六一年に皇帝アレクサンドル二世が農奴解放令を出してからも農民の多くは自作農にはなれませんでした。ミールという共同体に分けられた土地が有償で農民に払い下げられるようになったとはいえ、土地を手に入れるだけの支払いができる農民はほとんどいなかったからです。土地を買えなかった農民は農奴であったときと同じようにミールに縛りつけられていました。


 ストルイピンはミールをなくし、農民を解放して自作農としてやっていけるようにしようとしました。革命の波を止めるためにはそれが必要だと考えたからです。


 その一方で、ストルイピンは革命運動に対して激しく弾圧します。革命運動に携わるテロリストを多く死刑にしたので、絞首台が「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれたほどでした。


 彼が行った土地改革は貴族や大地主などの保守層、議会の改革派のどちらからも歓迎されず中途半端なまま終わり、革命運動も抑え込めませんでした。ストルイピンは一九一一年、観劇中に狙撃され落命しています。皇帝ニコライ二世の目の前で起こった事件でした。


 ニコライ二世は公私の両面で困難が続きます。


 一人息子の皇太子アレクセイの血友病をなんとしてでも治してやりたい親心が、怪しげな人物を招き入れてしまいました。「怪僧」と呼ばれるようになる、修道士ラスプーチンです。




 最初にラスプーチンを紹介されたのは、ニコライ二世の皇后アレクサンドラでした。ラスプーチンは皇太子アレクセイの治療にもあたるようになり、あるときアレクセイの発作がやわらいだのをきっかけに次第に皇帝夫妻の信頼を得ていき、皇帝夫妻に与える影響が大きくなっていきました。


 それは私的な面にとどまらず、政治にまで及びました。ラスプーチンの影響は皇帝夫妻のみならず、広く宮中にも広がっていきました。


 アレクセイの病は良くなったかに見えたときもあったのですが、治りません。


 ラスプーチンがロシアの貴族に暗殺されるのは、もう少し先の一九一六年です。ニコライ二世が二月革命で退位を余儀なくされる前年に起きます。


 ロシアでは改革も進まず、帝政にも行き詰まり感が一層増していきます。


豚戦争──またも火を噴くバルカン半島


 日露戦争以降、またもやバルカン半島が欧州国際政治の争点になっていきます。この時代のバルカン半島は、文字どおり一夜にして敵味方が入れ代わります。


 一九〇六年七月、オーストリアとセルビアのあいだで「豚戦争」と呼ばれる関税戦争が起きました。


 セルビアは元々ロシアの子分でしたが、ロシアがブルガリアに肩入れして「大ブルガリア帝国」を作ろうとしたので、ロシアと対立するオーストリアに近づきます。セルビアはオーストリアと密約を結び、オーストリアの保護国のようになっていました。


 ところが、一九〇三年にセルビアの親墺派の国王と王妃がともに惨殺される事件が起きると、そこから反オーストリアに転じます。セルビアが軍需品の輸入先をオーストリアからフランスに切り替えたかと思うと、今度はオーストリアがセルビアから輸入していた豚に高関税をかけました。豚はセルビアの主要な輸出品です。当初こそセルビアは危機に立たたされたのですが、交易先をオーストリアからドイツに切り替えるなどしたため、結果的にセルビアが経済的自立を果たします。これが「豚戦争」のあらましです。豚戦争は三年続きました。


 同じ年の十月、オーストリアの外相に就任したのがエーレンタールという人です。このエーレンタールが二年後「ヨーロッパの火薬庫バルカン」に火をつけることになるのですが、その話はまたのちほど。


 ロシアでの国会・ドゥーマの開設がオーストリアの社会運動を大いに勇気づけ、オーストリアでの普通平等選挙法の成立につながっていきました。その結果、一九〇七年にオーストリアで普通選挙による初めての総選挙が行われます。


 日本はロシアの復讐を警戒していましたが、もはやロシアは満洲を取り返しに行くどころではなくなっていたのです。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:12359文字/本文:14613文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次