読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン

12/21に全サービスをRenta!に統合します

(2021/12/6 追記)

犬耳書店は2021年12月21日に、姉妹店「Renta!(レンタ)」へ、全サービスを統合いたします。
詳しくはこちらでご確認ください。

0
-2
kiji
0
0
1253212
0
指導者の帝王学
2
0
0
0
0
0
0
ビジネス
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
第一部 企業家精神

『指導者の帝王学』
[著]山本七平 [発行]PHP研究所


読了目安時間:52分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ


〈第一章〉織田信長 創造のための破壊


織田信長(おだのぶなが)


 天文三〜天正十年(一五三四〜八二)

 尾張国守護代織田信秀の次男として生まれる。十六歳で父の跡を継ぎ、永禄三年(一五六〇)、今川義元を桶狭間に破り勇名をとどろかせる。その性格は「泣かぬなら殺してしまえホトトギス」で知られるように短気で、はげしい気性の持ち主であった。軍事的には天才的な能力を発揮、戦国時代を天下統一へと導き、日本の歴史を中世から近世へと導いた。天下統一を果たす直前に明智光秀の謀反により、本能寺でその野望は露と消えた。


合理性を追求した近代人


 ある経済雑誌の企業経営者や管理職を対象としたアンケート調査によれば、信長は歴史上の人物人気ベストテンの第一位にランクされた。それは、信長があくまでも合理性を追求していった、最初の近代的人間であった点に多くのビジネスマンが着目したからだろう。実際、信長の一生をながめると、近代的な発想といえる部分が少なくない。

 簡単な一例をあげれば、戦国時代は群雄相戦う混乱の時代とみられているが、同時に非常に礼儀礼式のうるさかった時代でもあった。これは人間社会にしばしばみられる現象であり、一方においてたいへんな混乱が出てくると、他方において非常に礼儀、礼式的な秩序を重んずるようになる。小笠原貞慶の著した『諸礼集』という足利時代の本がある。これは小笠原式礼法の原型になっているが、ここには手紙の封の仕方一つにいたるまで実に細かく規定があり、そのとおりにしなければ、「礼を知らない人間」と笑われたそうである。

 信長は、そのような旧来の理由がない慣習を平気で無視した。彼は部下の報告を聞く場合、いわゆる礼儀にかなった長々しい前置きを非常に嫌い、常に「用件を端的に言え」と要求した。端的に短く合理的に言えばそれでよろしい、というわけである。

 信長という人間をみていると、彼にはさまざまな面があることを発見する。彼は天才的な人間であるとしばしばいわれるけれども、時代を先取りする点でも優れていた。その基礎にも合理性があったといってよい。槍は短いよりも長いほうがよい、長い槍よりも鉄砲のほうがよい、というように過去の習慣にとらわれず、常により合理的なものを追求して時代を先取りしていった。礼儀作法から政策の発想にいたるまで、すべて政治的、経済的な合理性に基づいて行動していた。信長を近代的な人間というのは、まさにそういう点を指してのことである。

 現代人が彼に対して共感を感じるのは、彼が合理的な発想をして、この合理性を現実の世界に機能させた初めてのリーダーであったからだ、といえるのではないだろうか。

桶狭間の戦略と戦術


 永禄三年(一五六〇)五月十九日、織田信長は約四万五千の大軍を率いて京都へ向かう今川義元を桶狭間に襲った。信長が天下統一へのきっかけを掴んだ世に名高い桶狭間の戦いである。

 このとき信長の率いる手勢は約二千。二十倍を超す敵と戦ったわけである。もっともこのあたりは確かな資料もなく、一説には今川の軍勢は二万五千がよいところだったという説もある。しかしいずれにせよ、普通ではまず勝ち目のない戦いであったことは事実である。では、信長はなぜ勝ったのか。どのような戦略、戦術を用いたのかは、さまざまなところで絶えず論じられる問題である。

 一般には、簡単に奇襲が成功したからだといわれているが、奇襲といえない点がある。まず、信長は今川の動静を察知してあらかじめ放っておいた間者からの報告で今川の動きを逐一知っていた。そして今川勢がなぜか進撃の方向を変えて桶狭間、つまり田楽狭間へ入ったという間者からの報告に、襲うなら今をおいてないと決断を下した。田楽狭間は両側が丘陵地のやや凹地になったところで、そこへ入った隊列はどうしても縦長にならざるをえない。何万という軍勢がまとまって休息できる地形でないことも信長は承知していた。

 さらに、義元の率いる軍隊の実情まで正確に知っていた。いきなり本陣に急襲をかけたことはたしかに奇襲といえる。しかし、これはどの部隊でもうまくいくとは限らない。もしも相手方に非常に優秀な副司令官がおり、瞬時に復讐戦を挑まれ包囲されてしまえば、逆に信長のほうがあっというまに全滅してしまうことになる。しかし彼は、いきなり本陣に切り込んでいき、これを潰してしまえば、あとは総崩れになると判断した。それは、彼が戦国時代の軍隊の編成法をよく知っていたからである。ここがいちばんの要点だろう。

 今の軍隊でいう中佐クラス以上の幹部が城詰めにいる。しかし中隊長以下は農兵であった。農兵は文字どおり農民であり、国人領主という小さい知行地をもっている領内の侍が、支配下にある農民である土豪を下士官クラスとして連れてくる。土豪は名字をもっていたから、名字の百姓、または地侍と呼ばれていた。その彼らが小作人のなかから何人かを選び、部下として連れてくるのである。これがおおよそ戦国時代の軍隊の編成である。

 このような軍隊は、自分の農地が襲撃されたときは一所懸命に戦うが、「京都に上って天下に号令をかけるからついてこい」と言っても、理解を示すものではない。そういう弱点をもっている。自分の周囲から敵がいなくなり平和になって農作ができればよいのである。

 これが、本陣を急襲され壊滅してしまうと、一斉に駿河に逃げ帰ってしまうという現象を起こした理由である。義元の率いる軍隊が、そういうものであることを信長は熟知していた。逆に京都に上って天下を号令しようとした義元は、自らの率いている軍隊のもつ性格を知らなかったといえる。

的確な情報の把握と戦術


 しかし、信長も何度となく失敗している。美濃攻めでもそうであるし、朝倉家を討つときにも浅井家によって退路を遮断され、危険な状態に陥っている。ところが、失敗はしても潰乱状態にはならなかった。彼が軍隊の編成を基本から変えていたからである。農繁期には動きたくないという部隊ではなく、自分の作戦計画どおりに手足のように動く、近代的な部隊をもっていた。これが桶狭間の奇襲を可能にした前提条件である。

 信長の一代記、『信長公記』によると、この戦いの前夜「四万五千にも及ぶ大軍が相手ではとうてい勝ち目はない。このうえは城を枕に潔く討ち死にしよう」と重臣たちが評定しているのを聞いて、信長は「ばかばかしい」と席を蹴って居間へ戻り寝てしまったという。そして夜半に突然起き上がり東のほうに向かって一礼すると、「人間五十年、下天の内にくらぶれば夢幻のごとくなり」と朗々と歌い、小鼓を打ちながら『敦盛』を三度舞った。

 舞い終わると信長は茶漬けをかき込み、「俺に続け」と叫んで馬を走らせた。信長が向かった先は熱田神宮であった。城を出たときわずか数騎であった手勢も、夜が明けるころには二千近くになっていた。このとき信長はあらかじめ仕掛けをしておき、神宮の社殿の中から白い鳩を飛ばしたり、社殿の奥で兜や鎧の触れ合う音を出させたりした。これを見聞きした部下たちは、「この戦われに神明の加護あり」と奮い立った。まさに信長の巧妙な策略であった。

 こうしてみると、桶狭間の奇襲も決して単なる奇襲作戦がたまたま成功したというものではなく、信長の的確な情報の把握と戦術の勝利がもたらしたものであることが分かる。

人心掌握術と能力主義


 信長は非常に権力的であり、かつ部下に対して峻厳であったと受け取られがちである。もちろん、彼は組織を合理的に動かすことに徹底していたから、その合理主義に対する反抗は絶対に許さなかった。また能力主義、器量絶対が信長の基本方針であり、いくら家格がよくても能力のない人間は遠慮なく排除していった。このような点からみれば、冷酷にみえる面もある。

 しかし、それだけでは人心を掌握することは絶対にできない。彼は非常に庶民的で、同時に細かいことまで心くばりをする面ももち合わせていた。この点は、従来あまり強調されてこなかったので、ここで二つの点から信長の人心掌握術について述べておきたい。

 日本に来たポルトガルのイエズス会の宣教師、ルイス・フロイスは、信長と直接面接した数少ない外国人の一人で、信長について次のような記録を残している。
「彼は天下を統一しはじめたときには三十七歳ぐらいであったろう。彼はきわめて戦を好み、名誉心に富み、正義を重んじた。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事柄では愛嬌と慈愛を示した。決断は内に秘し、戦術にきわめて老練で、非常にせっかちで、すぐに激するが平素はそうでもなかった」

 信長は短気で情け容赦のない性格と思われているきらいがあるが、このフロイスの文章からもそれだけではない信長の性格がうかがえて興味深い。また、信長の意外なほど優しい一面を示す手紙も残っている。これは信長が木下藤吉郎(豊臣秀吉)の妻ねね(北政所)に宛てた手紙である。
「……藤吉郎、れんれん不足の旨、中のよし、言語道断、くせ事に候。いづかたをあい訪ね候とも、それさまほどのは、また、二たび、かのはげねずみ、あい求めがたき間、これより以後は、身持を陽快になし、いかにも、上様なりに、おもおもしく、悋気(りんき)などにたち入候ては、しかるべからず候……」

 秀吉の家庭に問題が起こったときに、ねねが信長に直接相談したのか、信長の耳に入ってしまったのかは分からないが、信長の知るところとなった。
この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:21814文字/本文:25675文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次