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バラバラ殺人の文明論
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ルポ・エッセイ
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『バラバラ殺人の文明論』
[著]佐藤健志 [発行]PHP研究所


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時代が切り裂かれるとき


 二〇〇六年十二月三十日、東京の歯科医師一家・武藤家において、予備校生の次男・勇貴が、妹にあたる短大生の長女・亜澄(あずみ)を木刀で何度も殴ったうえ首を絞め、さらに浴槽の水に顔を押しつけて殺害した。

 約二時間半後、勇貴は浴室にあった亜澄の遺体を包丁とノコギリで切断、四つのポリ袋に分けて自室のクローゼットなどに運び入れる。切断に要した時間はやはり二時間ほどであり、バラバラになった遺体は翌二〇〇七年一月三日、亜澄と勇貴の両親によって発見された。

 本書の題名にある「バラバラ殺人」とは、この事件のことを指す。同事件は通常「歯科医師一家殺人事件」、ないしそれに類する名称で呼ばれるが、ここでは亜澄への弔意をこめて「短大生バラバラ殺人事件」で統一した。


 この事件がなぜ文明論の糸口たりうるのか? それは「人の主体性」をどうとらえるかという点と密接に関わっている。

 主体性は「自分自身の意志や動機に基づいて積極的に行動する姿勢」と規定できよう。このような姿勢を持つ者を、われわれは「主体性がある」とか「主体的である」と形容する。裏を返せば、主体性なる概念の根底には「他人から強制されて何かをするのでないかぎり、人が積極的な行動を取る際には、その人なりの明確な意志や動機がある(はずだ)」という発想がひそむ。

 ならば当の意志や動機は、そうと認めるかどうかはともかく、本人によってはっきり自覚されていることになろう。また「明確」という以上、それは第三者が容易に推測したり、理解したりできるものでなければならない。

 いかなる意志や動機に基づくものか容易には理解しがたい事件が発生した場合、犯人が「心神喪失」、つまり主体性を持ちえない状態に陥っていたのではないかという議論がなされるのはこのためである。武藤勇貴に関しても、犯行当時は心神喪失だったとする主張が公判において展開された。

 けれども人の主体性は、ふつう思われているほど確固たるものではない。「人が積極的な行動を取る際には、その人なりの明確な意志や動機がある(はずだ)」という発想は、人の意志や動機に一枚岩的なまとまり、ないし一貫性があることを前提に成り立つ。だがわれわれはしばしば、相互に矛盾する複数の意志や動機を内面に抱えこむ。またそれらの意志や動機について、すべてきっちり自覚していると見なすべき根拠も存在しない。

 しかも人は誰であれ、時代や社会のあり方と無縁ではいられない。「世の風潮」「社会の空気」「時代精神」といった言葉に示されるとおり、時代や社会のあり方は人々の考え方や感じ方に強い影響を及ぼす。おまけに個人の意志や動機と同様、これらの風潮や空気にも矛盾や歪みが含まれるし、そのことが人々によって自覚されていると見なすべき根拠も存在しない。


 時代や社会のあり方にひそむ矛盾や歪みの影響を(半ば無自覚のうちに)受けたあげく、自分の中にも矛盾した意志や動機を(そうと自覚しないものまで含めて)抱えこんだ存在 ―― これが人のいつわらざる姿であろう。われわれが明確な意志や動機に基づいて行動しうるのは、かかる矛盾をどうにか整理し、首尾一貫した形にまとめあげることができた場合に限られる。

 人の主体性など、じつのところ相当に脆弱(ぜいじゃく)な代物にすぎないのだ。だからであろう、時代や社会のあり方にひそむ矛盾や歪みが大きくなっているときには、人々は「心神喪失」じみた行動を取りやすくなる。将来への明確な方向性が見えず、社会全体に閉塞感が広まった近年の日本で、「キレる」という表現が定着したのはこの点で興味深い。

 キレるとは「自分の内面、とりわけ感情が制御できなくなって暴発的なふるまいに出ること」と規定しうるものの、これはおのれの中にある矛盾した意志や動機を整理できなくなって主体性が崩壊した状態と瓜二つではないか。武藤勇貴が亜澄を殺害したのは、木刀で殴られた後の妹の言動にたいし、怒りや憎しみを抑えきれなくなったせいとされるが、だったら彼はキレすぎた果てに亜澄を(文字通り)切り刻んだことになろう。

 しかるにおのれの中にある矛盾した意志や動機を整理できなくなったからには、主体性が崩壊した者の行動には、それらの矛盾がむきだしになって表れるはずである。他方、人の考え方や感じ方は時代や社会のあり方にも強く影響されるとすれば、くだんの行動には「時代や社会のあり方にひそむ矛盾や歪み」も露呈されているはずなのだ。

 はたせるかな、「短大生バラバラ殺人事件」から浮かびあがってくるのは「現在の日本では『良さそう』に見える家族にこそ病弊(びょうへい)がひそむのではないか」という矛盾、もしくは「現在の日本において、家族は新しい世代を育成する場ではなく、新しい世代が圧殺される場と化しているのではないか」という歪みの存在であった。そしてこの矛盾や歪みがどこから来たかをさぐってゆくと、わが国が明治いらい進めてきた近代化・欧米化の問題点や、近代という文明それ自体にひそむ問題点にまで行きつく。

 妹の遺体を切断したとき、武藤勇貴は今の時代そのものをも切り裂き、ふだんは隠蔽(いんぺい)されている真実を露呈させた。亜澄の受難は、われわれのあり方を根底より見つめ直させるものであり、ゆえに文明論へといたる意味合いを有しているのである。


 実際「家族崩壊」は、わが国の現状を理解する重要なキーワードにほかならない。
「短大生バラバラ殺人事件」に限らず、家族にまつわる凶悪・凄惨な事件は、近年マスコミをしばしば騒がせるにいたった。そのせいもあってか「家族が根底より崩れだしたのではないか」とする疑念が、今や人々の間で広く共有されているように見受けられる。

 同時に家族は、社会を構成する基本単位であるうえ、(少なくとも建前としては)「愛」という強く肯定的な感情によって結びついている点から、「望ましい社会的秩序(ないし人間関係)」や「守られるべき規範や価値観」の象徴ともなる。ところがわが国では、このような秩序や規範、はたまた価値観についても、形骸化や崩壊が進んでいるのではないかとする声が強い。

 家族崩壊は、社会の基盤を突き崩しかねないだけでなく、「社会の崩壊」そのものを象徴的に予告する現象なのだ。映画や演劇といったわが国のポップカルチャー(一般文化)作品において、「新しい世代の圧殺に起因する家族崩壊」というモチーフが最近目立つのは、関連して注目に値しよう。

 ポップカルチャー作品の内容は、えてして人々の抱いている希望や不安の反映であり、時代や社会の雰囲気を色濃く映しだす。片や「カルチャー」(文化)という言葉は、本来「ある社会における人々の生活様式や行動様式」を全般的に指すのだから、現実の社会で進行しているだけでなく、フィクションの素材としても広く取りあげられる現象は、二重の意味で一般的 ―― つまりポピュラーな文化と評さねばならない。

 ならば家族崩壊こそ、まさしく現代日本を代表する「ポップカルチャー」なのである。ちなみに本書では、「家族」という表現と「家庭」という表現をともに用いたが、「愛によって結びついている(はずの)親密な関係」を強調したのが前者であり、「そのような関係が成立する場」を強調したのが後者だと考えていただきたい。


 わが国が現在の閉塞感を脱却し、未来への展望をあらためて確立するためには、家族のあり方を徹底して問い直す必要があるのではないか?

 それはとりもなおさず、戦後日本、ひいては明治いらいの近代日本がたどってきた道のりを再検証することではないか?

 家族崩壊が現代日本の「ポップカルチャー」だとすれば、そのような検証にあたっても、狭義のポップカルチャー、つまり映画や演劇などのフィクションに描かれた家族像の分析が欠かせないのではないか?

 二〇〇七年はじめ、「短大生バラバラ殺人事件」が社会に衝撃を与えたのを受けて、私はかかる発想に基づく一連の論考を『正論』誌に発表した。本書はこれらを一冊にまとめたものである。武藤勇貴には二〇〇八年五月、東京地裁が懲役七年の判決を下しているが、論考が書かれたのは二〇〇七年三月から二〇〇八年八月にかけてであるから、事件発生から一審判決までの区切りとほぼ連動する形になった。

 ちなみに第四章「図式さえも持てない人間」と第七章「論理性なき者の自己嫌悪」は、私の論考を批判した明星大学教授・和田正美(肩書きは二〇〇七年当時)との論争になっている。一九三八年生まれの和田が、一九六六年生まれの私よりちょうど一世代上にあたるのを思えば、わが国における家族のあり方を問い直す過程でこの論争が行われたのはきわめて有意義であった。

 なぜなら家族とは、異なる世代間の葛藤や対立が繰り広げられる場の典型なのだ。同論争は、人間の主体性が時としていかに脆弱たりうるかという点に関する面白い実例にもなっており、その点でも本書の内容を充実させた。


 これらの考察をめぐる一切の責任は、むろん私が負っている。だが私には、ここにおいて展開したような主張こそ、武藤亜澄が生命と引き替えに訴えたかったものだと思われてならない。
「短大生バラバラ殺人事件」の背後に文明論的な構造がひそむとすれば、亜澄を真に殺したのは近代日本の矛盾や歪みなのである。ならば彼女の死を無駄にせず、同じような犠牲者がさらに出るのを防ぐためにも、この事件が持つ意味合いに正面から向かい合うのが務めではないだろうか。

 本書は武藤亜澄の霊に捧げられる。
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