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バラバラ殺人の文明論
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ルポ・エッセイ
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第十一章 怪物だけが未来を拓く ―「ドッペルゲンガー時代」の保守 ―

『バラバラ殺人の文明論』
[著]佐藤健志 [発行]PHP研究所


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自民党は民主党である


 自分と同じ姿をしているが自分ではなく、自分と相容れない「もう一人の自分」―― ドッペルゲンガーを目撃することは、ふつう死の予兆と見なされる。自分のほかに自分がいるならば、それは自分の存在が幻や虚妄にすぎず、本当には存在しないことをほのめかすのだ。

 しかるに近代化は、国や社会のあり方をさまざまな形で大きく変える。またわが国にとり、近代化の推進は欧米という異質な文明の摂取ともイコールであった。あまつさえ明治以後の日本は近代化・欧米化を急激に達成しようとしたのだから、これは過去百五十年あまり、「伝統的・アジア的な日本」と「近代的・欧米的な日本」という二つの国が、同じ国土の上に存在してきたことを物語る。

 伝統と近代が多分に相容れないものであるのを踏まえれば、この二つの日本にドッペルゲンガー同士としての関係が見られるのは明らかであろう。そして国そのものが分裂をきたしているとき、個々の国民のアイデンティティにも「伝統的・アジア的な自分」と「近代的・欧米的な自分」という分裂が生じるのは当然のことにすぎまい。

 一昔前であれば、前者を「時代遅れで劣ったもの」、後者を「進歩的で望ましいもの」と規定し、いずれは「近代的・欧米的な日本(人)」が「伝統的・アジア的な日本(人)」に完全に取って代わる形で分裂が解消されると考えることもできた。だが近代化・欧米化の流れにひそむ矛盾や限界が、テロや環境破壊、あるいは自由主義経済における格差の拡大などを通じて顕在化しつつある現在、そう楽観的な態度を取ることはできない。

 すなわちわれわれは、国や社会のいたるところにドッペルゲンガー的な分裂がひそむばかりか、今後それらが深まりこそすれ解消されることはないとわきまえつつ、物事をできるだけベストの状態に保つ必要に迫られている。かかる分裂の面白い例として、『朝日新聞』が二〇〇八年一月七日に掲載した「表面 飾る政治家」なる記事を紹介しよう。

 ここでは政治家が学歴や職歴を実際よりも立派に謳ったり、整形手術やメイクで顔の印象を良くしようとしたりする傾向が、「表面上の差異へのこだわり」と位置づけられているのだが、当の傾向を「政治家としての中身に差がなくなりつつあることの一つの表れではないのか」と考えた記者たちは、ある実験を試みた。コミュニケーション工学を専門とする原島博東京大学教授の指導のもと、コンピュータ用の画像処理ソフトを使って衆院議員の顔を主要政党ごとに入力・合成、各党の「(平均的な)顔」をつくってみたのである。

 この実験は「政治家が均質化したとしたら、それは端的に『顔』に表れるのではないか」という発想に基づいていたものの、記事によると原島教授自身、実験結果に驚かされたらしい。というのも自民党議員五十名の顔を合成した「自民顔」と、同じく民主党議員五十名の顔を合成した「民主顔」とが、なんと瓜二つだったのだ。

アイリス・チャンのたどった軌跡


 だとすれば民主党は、自民党の顔をしているのに自民党ではない「もう一つの自民党」、つまり同党のドッペルゲンガーと評しうる。自民党から民主党への政権交代が実現したところで、日本の政治は(文字通り!)同じ顔によって担われるのである。社会党(現・社民党)が最大野党として自民党に対抗していた、いわゆる五五年体制の時期には、「自民顔」と「社会顔」は明らかに違っていたそうなので、「同じ顔をした二つの党が政権を争う」状況は、過去十数年の間に成立したことになろう。

 原島教授はこれに関して「(自民党と民主党の)顔が似ているというのは、政権交代しても大きく路線が変わらないという政治状況や、大きく変化するのは困るという有権者の意識を反映しているのではないか」とコメントする。しかし看過しがたいのは、政治家の顔が似ているのは中身(もしくは内面)が似ていることの表れだと考える場合、「自民顔」と「民主顔」のドッペルゲンガー的な類似は、日本の政治に変化の可能性がそもそもなくなっており、有権者には実質的に選択の余地がないことを示している点なのだ。社会に閉塞感が漂うのも無理からぬ話ではないか。

 もとより自民・民主両党の掲げる政策が、何から何まで同じであるはずはない。ただし肝心の政策を唱える「顔」が瓜二つでは、どちらを支持したところで結果は変わらないと見なすのが賢明といえよう。福田恆存の名台詞にならえば、他人の話を聞くときに最も重要なのは、内容を観念的に追うことではなく、相手の語調や表情(=顔)に注意を払い、言葉の背後にひそむ真実やホンネを見きわめることなのである。

 同じ二つの顔が違った政策を説いているのは、政策の相違がうわべだけにすぎないことの何よりの証拠なのだ。しかもどちらを支持しようと結果は同じとすれば、自民党であれ民主党であれ、ことさら支持するいわれはない。政権交代をめざす最大野党が与党のドッペルゲンガーと化すこと、それは政党政治自体が「死」にいたる予兆と思われる。

 あわせて紹介されるべきは、二〇〇四年にピストル自殺を遂げた中国系アメリカ人の作家、アイリス・チャンの事例といえる。チャンのベストセラー『ザ・レイプ・オブ・南京』(一九九七年)は、いわゆる「南京事件」(日中戦争下の一九三七年、中国の首都だった南京を日本軍が攻略した際、大規模な虐殺・暴行・略奪が行われたとする主張)について、日本を糾弾する立場より扱っているものの、同書の事実認識や信憑性には怪しげな点が多く、わが国の保守派の間ではとかく評判が悪い。
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