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捨てちゃえ、捨てちゃえ
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生き方・教養
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「かくあらねばならぬ」ではなく、「いいかげん、ずぼら、ちゃらんぽらん」でちょうどいい

『捨てちゃえ、捨てちゃえ』
[著]ひろさちや [発行]PHP研究所


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  あなたはがんになり、あと一年の余命と告げられました。そこで、残された一年の余命を、あなたはどのように生きますか……?

  そう試問されたなら、たぶん多くの人が、「わたしはその一年を真剣に、まじめに生きようと思います」と答えるでしょう。作家であればすばらしい小説を書こうと思い、芸術家は大作を完成させたいと思います。百名山を選んで登山しようと思う人もいるでしょう。

  ともかく、人々は、残された人生を立派に生きようと思います。

  じつは、それが「美学」なんです。

  わたしたちは、人生を立派に生きなければならぬ。たった一度の人生なんだから、人生を真剣に生きるべきだ。知らず知らずのうちにそのような「美学」を持たされ、それに縛られています。窮屈ですね。

  そしてわたしたちは、宗教というものは、立派な生き方・まじめな生き方・真剣な生き方を教えるものだと考えています。つまり、宗教は「美学」であると思い込んでいるのです。

  嘘ですよ、嘘。宗教は「美学」じゃありません。少なくとも仏教は、そうではありません。

  そこで、そのことを教えてくれる禅問答を紹介します。

  中国・唐代の禅僧に趙州従(じようしゆうじゆうしん)(七七八―八九七)がいます。彼は中国禅僧のうちで最高峰の高僧とされています。

  その趙州に、ある人が尋ねました。

 《一物不将来(いちもつふしようらい)の時如何(いかん)》――何もかも捨て去って一物も持っていません。そういうときはどうすればよいのでしょうか?

  すると、趙州和尚はこう答えます。

 《放下著(ほうげじやく)》――捨てちゃえ!

 “放下著”の“著”は命令の意味の助辞です。“著”は“着”の字が使われることもあります。したがって“放下着”。でも、これは下着を脱げではありませんからね。それはともかく、ですから、“放下著”は「捨てちゃえ!」になります。でも、一物も持っていないのに「捨てろ!」というのはおかしいですね。それで、質問者は反問します。

 《(すで)()れ一物不将来、()什麼(なに)をか放下せん》――すでに何も持っていないのですよ。それなのに「捨てろ!」と言われる。何を捨てればいいのですか?

  それに対する趙州の答えはこうです。

 《恁麼(いんも)ならば(すなわ)担取(たんしゆ)し去れ》――それじゃあ、(かつ)いで行け!

  お分かりになりますか? 質問者は、何も持たないことが立派なことだと思っているのです。そして、自分は努力してその立派な境地に達したと自惚(うぬぼ)れています。で、趙州禅師からお褒めの言葉をいただきたいと考えている。それに対して趙州は、

 「おまえさん、その“すべてを捨てなければならぬ”といったこだわりも捨てんといかんのだよ」

  と親切に教えてやっている。でも、質問者にはそれが分かりません。捨てた上で、どうして捨てることができるのですか? と、頓珍漢(とんちんかん)な質問をすることになります。

  そうなると、仕方がないですね。「こだわり」が捨てられない以上、「こだわり」を持ち続けるよりほかない。そこで趙州は、「それじゃあ、“こだわり”を担いでおれ!」と言うよりほかありません。

  これが、禅問答の解説です。もっとも、読者がわたしの解説に「こだわり」をお持ちになれば、それに対しても、

 「放下著」

  と言わねばなりません。あまりわたしの解説に「こだわら」ないでください。
※  それはともかくとして、どうもわたしたちは「こだわり」を後生大事に抱え込んでいるようです。立派に生きねばならぬ。すばらしい生き方をせねばならぬ。親は親らしく、子は子らしくあらねばならぬ。会社員はまじめに働かねばならぬ。学生や生徒はまじめに勉強せねばならぬ。そう思い込んでいます。

  というより、いつのまにかそう思い込まされているのです。それが社会的規範なんですね。

  あるいは、道徳というものに縛られています。あの道徳というものは、どうやら強者が弱者を支配するための武器のようです。それが証拠に、社長と社員が待ち合わせをして、社員が遅刻すると、「遅刻してはいけない」といった道徳を楯に取ってこっぴどく叱られます。事と場合によれば、社員は首切りにあうかもしれません。しかし、社長が遅刻しても、「待たせたね」ですんでしまいます。俺は忙しい人間だから、約束なんか守れないのだと堂々としています。

  嘘をついては悪いといった道徳も、それに縛られて責められるのは弱者だけで、強者は平気で嘘をつきます。道徳を教える学校の先生が、いちばん非道徳的ではないでしょうか。わたしは、「道徳」の名によっていじめられている小中学生が気の毒でなりません。

  ともあれ、われわれは社会的規範や道徳に縛られています。その束縛が「こだわり」です。しんどいですね。

  そうして、自分が「こだわり」に縛られているだけではなしに、他人をもまたその「こだわり」に縛りつけようとします。俺たちの若いころの日本は、貧しい国だった。われわれは一生懸命働いて、豊かな国をつくってきた。しかし、最近の若い者は、その豊かさに感謝をする心を持っていない。けしからん! と、ぶつぶつ若者を批判する老人がいます。どうしてそんなに他人が気になるのですか!? 老人であれば(わたしも七十六歳の老人ですが)、人生の残り時間がそんなにないのですから、自分の「生死」を一生懸命考えたほうがよい。いちいち他人の生き方に干渉する必要はありません。いわゆるお節介を焼かないでおきましょう。

  つまり、わたしたちは、「かくあらねばならぬ」という社会規範に束縛されています。「かくあらねばならぬ」というのが「こだわり」です。ただでさえわれわれは「こだわり」に束縛されているのに、その「こだわり」を他人に適用し、その「こだわり」によって他人を裁いています。そして、他人を裁けば裁くほど、わたしたち自身がますます強くその「こだわり」を意識し、それに束縛されるはめになります。自縄自縛(じじようじばく)になります。

  たとえば、知らず知らずのうちにわたしたちは「怠けてはいけない」といった「こだわり」を持っている。持っているというより、持たされているといったほうがよいでしょう。そして、あまり真剣に働こうとしない(ように見える)他人を、その「こだわり」でもって裁き、批判します。すると、こんどは自分にちょっとした怠け心が生じると、自分で自分を叱らざるを得なくなるのです。それが自縄自縛の意味です。

  まあ、ともかく、わたしたちは窮屈な生活をしています。「かくあらねばならぬ」といった「こだわり」に束縛されているのです。束縛されているのではなく、自分で自分を束縛しているのです。

  もっと自由に生きましょうよ。

  もっとのんびり生きましょうよ。

  もっといいかげんに、もっとずぼらに、もっとちゃらんぽらんに生きましょうよ。

  いいかげん、ずぼら、ちゃらんぽらんと言えば、「そんな非常識な発言は許せない!」とクレーム(抗議)がきそうです。でも、その人は常識に「こだわり」を持っているのです。常識というものは道徳と同じで、弱い者が常識の名で批判されます。もしもわれわれが常識の名で批判を受けたなら、われわれのほうからは「仏教」の名で相手をやっつけてやりましょう。

  たとえば、江戸後期の禅僧の良寛(一七五八―一八三一)がいます。彼の人生は「遊」の字に象徴されるでしょう。子どもたちと手毬(てまり)をつきながら、良寛は悠然と、のんびりと人生を生きたのです。

  もちろん、二十一世紀に生きるわれわれは、良寛のようには暮らせません。禅僧ではないわたしたちは、あくせくと仕事をせねばなりません。ですが、心のどこかに、良寛のような生き方もあるのだと思っていましょう。そして良寛のような生き方こそ、真実の人間の生き方だと思っておきましょう。あくせくと金(もう)けに生きる生き方は、真実の人間の生き方ではなく、奴隷か牛馬のような生き方なんだということを知っておきたいものです。

  もう一人、室町時代の禅僧の一休(一三九四―一四八一)は、「狂」の字に生きた高僧です。彼は世の中の道徳や常識を笑い飛ばし、自由奔放に生きました。いっさいの「こだわり」を捨てたのです。

  だから、一休は「風狂」の禅者と呼ばれました。“風狂”というのは常軌を逸していることです。でもね、狂っているのはどちらでしょうか。何千万円もする金襴(きんらん)袈裟(けさ)を身につけた高僧を(あが)める世間の人々と、弊衣(へいい)を身にまとって堺の街を闊歩(かつぽ)する一休と。

  ――「遊」と「狂」――

  わたしたちが変な「こだわり」を捨てたとき、そこで得られる自由の境地が「遊」と「狂」だと思います。しかし、繰り返しますが、二十一世紀の日本に生きるわれわれは、完全な意味での「遊」と「狂」に到達できませんよ。そのような完全な自由を得ようとすれば、社会から離脱するよりほかありません。わたしたちは、社会の中で生きねばならない。それゆえ、完全な自由は得られないのです。

  でもね、だからといって、この世の中の価値観に執着するのはよくない。ほんのちょっとは「こだわり」を捨てて、自由を味わいませんか。そうです。「捨てちゃえ、捨てちゃえ」です。ほんの少し捨てただけで、わたしたちはまちがいなくもっと気楽に生きられます。仏教は、われわれにそのことを教えてくれているのです。
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