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パールハーバーの真実
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歴史
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第2章 魚雷主義

『パールハーバーの真実』
[著]兵頭二十八 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間9分
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◆「九六陸攻」が山本五十六の戦争観を支配するまで


 大正10年のワシントン軍縮会議の直後、山本五十六大佐は、将棋名人の木村義雄を海軍大学校に招き、「角落ちの定石」を講義してもらったという(植村茂夫『海軍魂』昭17刊)。昭和12年まで続く軍縮条約時代、戦艦でも空母でも潜水艦でも英米の保有量を絶対に上回ることができないという条件をいかに克服するかは、一人山本だけでなく、日本海軍全体の深刻な課題となっていた。

 しかし見出すことのできた光明は、誰が考えても結局ひとつ。「魚雷主義」だ。

 当時、水線上をぶ厚いアーマーで囲った敵の戦艦を撃沈する手段は、二つしかなかった。

 同じくこちらも強力な戦艦の主砲でもって徹甲弾を上から次々と撃ち込み、最後には弾庫または火薬庫に貫入せしめ、これの轟爆に至らしめるか。

 さもなくばアーマーの無い(ただしバルジと水密区画はある)水線下に魚雷を当てて、敵艦の重量そのものを味方として大浸水から転覆を結果せしめるか――。

 戦艦数を相手より少なく制限されたとすれば、その穴埋めは当然、魚雷でするしかなかった。

 まず飛びつきたかったのは、第一次大戦でドイツが英国をひどく悩ませたと評判の「潜水艦」である。この新兵器、第一次大戦では英国の戦艦を撃沈した実績があったので(天野隆雄『アメリカ合衆国中立の研究』昭40刊)、日本海軍軍令部は、我が潜水艦で英米の戦艦を減殺できるものと大いに期待をかけた。だが、哀しいかな、日本は独自に最新鋭の潜水艦を建造する技術を有さない。まず英国や敗戦国ドイツから学ばないうちは、勝手にどんどん造ってしまうことも、できなかった(そのうち、昭和5年のロンドン軍縮条約となり、日本だけ多くの潜水艦を持つことも認められなくなった)。

 それならば――と全力が注がれることになるのが、水上艦艇の中でも、夜間に敵戦艦に肉薄して水雷攻撃を仕掛けるスピードを持つ、高速駆逐艦だ。旧来の53センチ魚雷を61センチ魚雷にグレードアップし、さらに荒天暗夜でも行動し得る猛訓練を積めば、近海迎撃の強みとあいまって優勢な米侵攻艦隊に対抗できると廟算(びようさん)したのであったが、ワシントン条約から9年後のロンドン軍縮条約で、駆逐艦の単艦重量や保有総排水量にも、上限が課せられる。それを見越して軽い船殻にやたらに武装をてんこもりにした新造駆逐艦は、ちょっと舵を切れば大きく外側に傾斜してしまうようなアンバランスなものとなり、実際に、荒天下ではとても使えないことを立証する事故も起きたため、日本海軍内の「艦隊派」は、「軍縮条約の下で自分たちは袋小路にはまっている」と思い詰めるに到る。

 これに並行し、ロンドン条約で、唯一「何隻造ろうと自由」とされた600トン未満の艦種枠を用いんものと、日露戦争後に一度は廃止していた「水雷艇」も、復活された。この小艦艇に53センチ魚雷を4本載せて敵艦隊に突撃させようと考えたのだが、やはり重武装が一因とされる転覆事故を起こすなどし、米海軍の魚雷艇のような大量の整備は、遂にされることはなかった。

 そもそも昼間、それから月夜の魚雷は、敵艦の側からその発射動作や航跡を見て、かわすことができる。砲力でも防護力でも劣る水雷戦隊は、だから真の暗夜にならないと、敵戦艦と互角に戦えるチャンスはなかった。敵主力艦隊に、昼間や月夜だけ出てこられたらどうしようもないというハンデがあるのだ。そこへもってきて、水雷戦力を質的に米海軍に数倍させようという企図の実行もなかなか簡単でないことを、悟らされた形であった。

 日露戦争の「日本海海戦」(ロシア海軍の最優秀艦隊を一方的に撃沈破して、少なくともロシア陸軍が早期に日本本土に上陸できる可能性をなくし、第三国での起債が難しくなったとロシア帝国の指導部をして信じさせた海戦)を再現する対米艦隊決戦しか眼中になかった日本海軍人は、その目的に対しての自信を失いかけた。

 一方、「空母+飛行機+魚雷」という新規のシステム、すなわち艦上攻撃機を開発して、飛行機から魚雷を発射して昼間でも戦艦を攻撃して沈めてしまおうという可能性にも、いちおうの考慮は払われた。

 今なら、海軍にさして詳しくない者であっても、そんな水雷戦隊なぞを創るくらいならば、空母から航空魚雷を吊した艦上攻撃機をたくさん飛ばすことを考えた方がよほどいいではないか、と判断するだろう。が、大正10年当時はもちろん、昭和5年を過ぎても、その発想は直ちに肯定され得ぬほどに、まだ飛行機は低性能であり、航空魚雷は非力で、空母の艦隊決戦能力も信頼できなかった。

 加えてそもそもワシントン条約で早々と空母の保有枠も米英両国以下に厳しく規定されたわけだから、航空派の海軍人ですら、「これからは空母だ」と思ったはずはなく、「こうなったら正真正銘無規制のカテゴリーである、陸上基地から運用して、2トン級の爆弾を投下できる、重爆撃機に賭けるしかないだろう」と思うのは当然であった。その代表格が、ロンドン会議から帰るとすぐに航空本部へ配属となった、山本五十六である。

 ロンドン会議以前の山本は、ワシントン軍縮で航空母艦の数を敵よりも増やせなくなったのなら「艦攻」は頼みにできないので、もっと水雷艦隊を造ろうという海軍の「逆行」の考え方を支持していた。結局、ロンドン軍縮後の山本が「陸攻」を完成することで日本国内で代りに何が建造ストップになったかというと、それが「水雷艇」だったのである。

 もちろん、空母から運用できる「艦攻」も、少しずつ、注目を集める存在にはなっていった。

◆不評だった「八九式艦攻」


 昭和7年7月20日、英軍の雷撃機が演習でウェイマス軍港を夜襲。灯火管制下、探照灯と防禦(ぼうぎよ)砲火がパイロットを幻惑したが、主力艦2隻に魚雷「命中」したというニュースは、わが海軍人の興味を()くものだった。

 とはいっても、なにしろ内燃機関革命であった第一次欧州大戦に事実上参加せず、すっかり航空後進国となっていたために、第5代目の国産艦攻である航空廠の「九六式」が昭和11年に出来上がるまでは、性能的に信頼の置けそうな艦上攻撃機を、日本はなかなか持てずにいた。

 たとえば、昭和8年の夏に、艦攻の、自由回避する戦艦に対する雷撃演習があった(機種は不明。たぶん昭和7年採用の3代目の三菱「八九式」艦攻をテストする意味があったかと思われるが、昭和16年4月刊の中沢宇三郎『航空忠魂録』の殉職事故リストを見れば、昭和9年でも2代目の三菱「十三年式」艦攻は現役である)。

 この演習、艦戦パイロットの柴田武雄の見たところでは、全機が目標艦にぶつかるほどに接近して投下するものだから、全魚雷が戦艦の艦底を通過しはする。が、敵の戦闘機に追いかけられ、敵艦の機銃で撃ちまくられることになる実戦ではそんなに長く投下のタイミングをこらえるのは不可能であろうし、しかも実際にこの演習と同じ至近から投下したとすれば、深度を安定させる余裕が魚雷に与えられないので、文字通りみな敵艦の底をくぐり抜けるだけに終るだろうと思われた。雷撃機乗りの日高実保大尉もその意見に同意であったが、それを聞いた山本五十六(当時、航空本部技術部長で少将か)が、航空雷撃の射距離は戦闘機の射撃開始距離と同じく訓練よりも1mも伸ばしては相ならんと、その場で柴田らを叱責したという(柴田『源田實論』昭46刊)。

 これは、もともと砲術科の海軍将校であった山本の、水雷兵器に対する知識がどんなものであったかを物語るエピソードなのだろうか。近ければ近いほど当るというのは、要するに砲術のアナロジーとしてしか雷撃を理解していないのだ。

 ようやく「九一式魚雷」が実用域に達しつつあった昭和9年度の「戦技」においても、自由回避行動をとる戦艦に対し、艦攻の発射雷数44本、命中判定39本と判定されたというが、似たようなスタイルだったのであろうか。

 ちなみに昭和14年9月、九七式飛行艇×7機で戦艦『山城』に対して、それぞれ九一式魚雷×2本を、機速100ノット、高度100mから発射する(2本は1秒間隔で続けざまに落す)という演習が実施されている。このような訓練では、航空魚雷の調定深度はすべて15mにされるから、ダイレクトヒットする魚雷はなく、艦底を潜り抜けたものを命中と看做(みな)すのであるが、ある1機だけは、魚雷が艦底を通過したのに「不発」とスコアされている。それは、他の機がいずれも900〜1200mくらいの距離から正しく魚雷を投射しているのに、その機は命中にこだわりすぎてか600mという至近距離でリリースしたからであった。山本のいた頃よりは、判定が合理的になされていることが分るだろう。
「八九式艦攻」は、昭和12年の支那事変に投入したところ、果してアジャイリティの悪さのために不評で、損害ばかりが大きいので、一線からさげられてしまっている。

 また、4代目艦攻となった航空廠の「九二式」も、エンジンが不調で、支那事変では後方で水平爆撃機として使うことしかできなかった。

 航空本部の人間であったときの山本が、自らは雷撃にさほどの専門知識や信念がなくとも、これらパッとしない雷撃機を含めた全海軍航空の軍艦に優る利点を強調してやまぬのは、出世するタイプの組織人としたらあたりまえの態度であろう。そして、日本海軍がそれに同意しなかったのにも、根拠があったのだと察せられよう。

 潜水艦は劣速すぎ、条約型の駆逐艦では荒天時の自信が持てず、ましてや水雷艇ではいけない上に、どうもやはり航空機に賭ける踏ん切りもつかない日本海軍は、満州事変後の内外のムードの変化を奇貨として海軍軍縮条約体制から脱退し、思う通りの大型艦艇を建造することにした(昭和9年12月に条約廃棄通告、昭和11年末に失効)。

 海軍軍令部は当初、軍縮条約枠を取り払いさえすれば、戦艦や補助艦の対米比率は7〜8割まで回復するだろうと思い込んでいたという。近代日本国の秀才官僚たちによる最も愚かしい誤判断の一つが、ここになされている。

 小学生でも分りそうな話のはずだが、米国の方が、造艦設備も海軍関連資源も維持費予算も、すべて豊富であった。軍縮をご破算にしたことで、統計数値的な海軍力の日米格差は、むしろ前よりも開いていってしまうことが、戦略情報戦のセンスのまるでない海軍主流の戦艦派のおつむりでも、やがて理解されてきた。

 結局、昭和16年になり、このまま過ごせばあと2〜3年で戦艦・空母は対米「3割」、航空機に関しては「1割未満」に落ち込むことも考えられる情勢になる。ならばせめて航空母艦の数でやや上回っている(『飛龍』級の『ホーネット』は昭和17年に完成し、それに多数の改装空母と『エセックス』級が続くことはよく分っていた)今のうちにと、開戦が急がれることになるのだが、これはもうちょっと先の話である。

 その前に海軍人は、戦艦の隻数では確かに勝ち目はなさそうだけれども、搭載する大砲のサイズならば勝てる、との理論を捻り出すのだ。いかに無理をしてでもこれを1セット(4隻)造ろうではないかというのが、昭和9年から次第に固められた『大和』型18インチ砲戦艦の整備計画であった。

 この計画案に半刻遅れる感じで、海軍全体に、別な、微かな新風が吹き始めた。

◆「九六式艦攻」に続いた名機「九七式艦攻」


 昭和11年、誰もが「これは今までのと違って実用的な雷撃機だ」と認めるにやぶさかでない、第5代の艦攻の「九六式艦攻」と、第3代の陸上攻撃機の「九六式中型攻撃機」が、相次いで進空した。これらの新型機が、対戦艦の艦隊決戦も一部代行できる――との航空本部の言い分が、ようやく昭和12年以降に、海軍内で説得力を持ち始める。

 どちらの貢献が大であったかといえば、もちろん、「九六式陸攻」だ。同機の、張り線など1本もない、あまりにモダンな金属モノコック構造の外見(それは「魚雷型」とあだ名された)に、メカは多少見慣れていた当時の日本の海軍人も、口をポカンと開け瞠目(どうもく)した。

 海軍将校といってもほとんど全員、明治時代の田舎育ちだ。彼らがこの全金属機の外観に触れたときの鮮烈な衝撃と、そのキビキビとした飛行ぶりから受けとった異常な感銘とを、今日の我々が追体験しようとしてもそれは不可能である。まず全員がシャッポを脱いだのだった。

「九六式艦攻」はむしろ、定評のあった「九四式三座水偵」の改造品であるがゆえに、「あいつの転用か。だったら大丈夫だ。ともかくやっと普通に使えるものを制式化してくれたか」といった安堵(あんど)感を与えた。
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