母なるものを持った母親に育てられた人と、子どもにまったく無関心な母親に育てられた人では、「生きる」ということはまったく違った意味を持っている。
心が満たされた父親に育てられた人と、心が憎しみに満ちた父親に育てられた人では、「生きる」ということはまったく違った意味を持っている。
哲学的に「生きるとは何か」と考えることは必要であろうが、なかなか答えが出るものではない。
しかし「今、この自分にとって生きるとは何か」を考えることは、哲学的に「生きるとは何か」と考えるほど答えが出ないわけではない。
人間は自分を理解してこそ初めて努力が幸せと結びつく。自分を理解するには、自分について二つのことを知る必要がある。
一つは、自分は何をもっとも求めているのか、次に自分は何をもっとも恐れているのか。
これがしっかりとできていないと、幸せになるために自分はどう生きればいいのかが見えてこない。
先に書いたように母なるものを持った母親に育てられた人と、母親に情緒的に虐待されながら育った人では、「生きる」ということはまったく違った意味を持っている。
例えば子どもにまったく無関心な母親に育てられた人の虚無感は、表現しようもないほど深刻なものであろう。さらに孤独への恐怖感も深刻であろう。
こういう人にとって生きるためにまず必要なことは、この虚無感や孤独への恐怖感を埋めることであろう。
理想や正義を叫んで虚無感や恐怖感から目を背けることのほうが、その時その時には楽かもしれない。が、目を背けた代償はあまりにも大きい。
結果は対人恐怖症、依存症、うつ病、自律神経失調症、ノイローゼ、その他さまざまな心の病に苦しむことになる。
この自分に欠けた部分を埋めることが「自分にとって生きることだ」と思わない限り、死ぬまで虚無感や孤独への恐怖感を免れない。
つまり哲学的に「生きるとは」と分からなくても「今、この私にとって」生きるとは、虚無感や恐怖感から目を背けることなく、それと向き合い、それを埋めることだと理解できる。
自分が何を恐れ、何をもっとも求めているかが理解できたら、次に自分の位置を知ることである。
「自分の位置」を知るとは、心理的にも社会的にも自分が今置かれている状況をしっかりと把握することである。
この自分が幸せになるために、それをどのように望ましい方向に変えるかを考えるときに意志が出てくる。正しい状況判断ができなければ正しい意志は出てこない。
自分の位置が分かるということは、別の意味ではアイデンティティーを確立するということでもある。
自分の位置を間違えた意志強固な人は、社会的にも心理的にも破滅する可能性が高い。
自分の位置が分からないということは「現実の自分」を無視しているということである。
例えば「現実の自分」は社会的には大人だけれども、心理的には幼児であるということを正しく意識できれば自分の位置が分かってくる。
どう生きるかも見えてくる。
「現実の自分」を無視して何か非現実的なことをしようとしても、社会的にも心理的にも挫折するだけである。
情緒的に未成熟な人が社会的なリーダーになろうとしても内面はますます破滅されるだけである。
それは政治家として成功してアルコール依存症になるような人達である。社会的にエリート・コースを走りながら家で配偶者を殴っているような人達である。
こういう人達は社会的に成功して自分の原点を忘れた人である。
東西ドイツの統合で東ドイツの従業員の生活レベルは急上昇した。しかし彼らの幸福レベルは落ちた。それは彼らが西ドイツの人と生活レベルを比較し始めたからである(註1)。
東西ドイツの統合どころではない。今は誰もが「グローバル化の時代だ」という。確かに世界中の情報が入ってくる。そうすると自分の位置を忘れて周りの世界に気をとられる。
情報通信ネットワークが普及し日常生活に影響を与える今の時代に、自分の位置を正しく認識することは今までになく必要である。今の時代に幸せになるにはこのことは欠かせない。
それでないと、人の目や情報に自分の人生を振りまわされてしまう。環境など、どんなによくなっても、それだけで人は幸せにはなれない。
東ドイツの従業員が、「東西ドイツの統合は自分にとって幸運であるが、自分の原点は東ドイツである」と分かっていれば、統合前よりも幸せになれた。
一気に東西ドイツは同じにならない。何事にも時間がかかる。
これは宝くじに当たって不幸になる人と同じである。大金が入って自分の原点を忘れる。
アメリカのABC放送が一九九八年一月に、「幸福の神秘」と題する特集番組を放映した。私には大変興味のある特集番組であった。
その中に、宝くじを当てた人をインタビューしている場面が出てくる。ところが皆幸せにはなっていない。だいたいその顔が幸せな顔ではない。一人残らず暗い顔ばかりである。
そしてキャスターが宝くじを当てた人の調査で分かったこととして次のように述べている。
当たってから一年後には当たる前よりも幸せではない。
ある人は、当たったときはしばらく夢のようだったと言う。しかし奥さんと離婚し、次の奥さんとの結婚に大金をかけ、それも五年間続かなかった。
その人はあなたは何着の服を着られるか、いくつの帽子をかぶれるかと言っていた。
ある人は感覚が麻痺したと言う。そしてその人も宝くじが当たってから二年後に離婚している。
人は幸せになるために生きているのではない。自らの運命を成就するために生きているのだ。
これは私が若い頃『ジャン・クリストフ』の中で読んだ言葉である。
繊細な神経を持って生まれた人もいれば、鈍感な神経を持って生まれた人もいる。その自らの運命を成就する以外に生きる道はない。
自分が成長してきた人間環境の悪さから周囲の世界に怯える傾向の強い人がいる。深刻な劣等感に苦しむ人がいる。
しかしそういう人にとって「生きる」とは、そうした宿命的に背負いこんだマイナスを一つずつ解決していくことである。それが自らの運命を成就することである。この自分が生きることである。
怯える傾向の強い人は悩みを顕微鏡で見る。ちょっとしたことですぐにパニックになる。些細なことで大騒ぎする。
自分の心を見つめてマイナス面をとらえる。そしてそうした自分を日々変えていくことが、まさに「この自分が生きること」である。
自分の位置を正しくとらえ、自分の生き方を考えれば、積極的な自己改革のエネルギーは生まれる。
自分を分析しない人は、何歳になっても自分の位置が分からない。
何歳になっても自分の位置が分かっていない人は、多くの場合、自分の意志で自分の人生を選び取ってこなかった人である。さらにそのことに気がついていない人である。
愛の欠如の中で成長した人は、相手に愛されるために相手の期待に添うことをする。あるいは反発する。捻くれる。そこに自分の意志による選択はない。
そこには何かをしているときの過程の喜びはない。結果だけが問題である。
いい大学で学んでも、いい会社に就職しても、振り返ってしみじみとした思い出は何も残らない。そういう人達にとっては、どこの会社に入ってもいい会社であれば同じこと。
だからいい会社に入ってうつ病になる人がいる。逆にいい会社に入れなくて無気力になる人がいる。
しかし自分の位置を理解し、自分の意志で自分のすることを選び取ってきた場合には違う。そういう人は成功しても失敗しても、自分の人生を振り返ってしみじみとした思い出が残る。「私はこれで良かったのだ」と思える。
自分の人生を振り返って「忘れられないこと」というのは、自分の意志で自分のすることを選び取ったときのことである。
ある高齢者に、「あなたの人生で何が一番忘れられないか」を聞いてみた。すると共生関係にあった親の家を出たときであるという。
それ以前のことは忘れている。家を出たのは自分の意志、自分の選択である。
個人の心理的な自立は、国でいえば独立戦争みたいなものである。愛のない家庭から出て、自分で生き始める。それは独立戦争である。
愛の欠如した中で何とかまともに成長した人は、「よく独立戦争を勝利して今まで生き延びた」、そう思って自分に誇りを持っていい。
社会的に立派な人が必ずしも「生きる」ことにおいて立派な人ではない。
社会的に立派でない人でも、「生きる」ことにおいて立派な人はいくらでもいる。
情報通信ネットワークが爆発した今、他人に惑わされずに生きるためには自分の位置を知ることである。それが今までのどの時代よりさらに大切なことである。
この本では、人の目や情報に振りまわされないで生きるにはどうすればいいかを考えた。
社会や経済のグローバル化が進めば進むほど、ますます自分の人生の軸をしっかりと持つことが大切である。
情報量が異常なまでに増加した現代、自分の位置を忘れるとどんなに努力してもますます不幸になる。