先のことより、今すべきことを考える
今現在「私は失業中です」と悩んでいる若者がいる。
しかし彼に必要なのは悩むことではなく、仕事を探すことである。仕事を探すことが先決である。それなのに「私は失業している」と悩んでいる。
必死で仕事を探していけば、その過程で自分の生き方が分かってくる。
その人は、自分は今失業しているということを自覚していない。つまり自分の位置が分かっていない。背中で薪が燃えているのである。
失業の中に意味がある。
仕事を探さないで、ただ悩んでいても「私には仕事を探すエネルギーがない」と自覚すれば、今までの自分の生き方が基本的に間違っていたということに気がつく。
その間違いを認めざるを得ない。そこで自分の位置が見えてくる。本気で今までの自分を分析する。
ところが「失業で悩んでいます」と言ってしまうと、今までの生き方の問題がどこかに消えていってしまう。
今、自分の抱えている問題の本質が何であるか分からなくなってしまう。
パイロットになりたいので必死になったけれどパイロットになれなかった。そうなればパイロットの能力がないという自分を自覚する。
あるいはパイロットになりたいのにそのための行動をしていない。そのためのエネルギーがない。
そうであれば「自分はパイロットになりたいのになぜそのための行動をしていないのか」ということを考えて自分の位置が見えてくる。
今を解決する方法を考えて必死で生きていけば、自分が見えてくる。
悩んでいる人は、「誰かに会って夢を持てるようなことを言ってもらいたい」と言う。
そういう人は「私はどういう生き方をしたいか」が分かっていない。自分にははっきりとした目的がないということが分かっていない。
「今」を考えていない。今を飛び越えて先を考えている。
悩んでいる人の共通性。それは「今」がない。
「本当の自分」で今を生きていない。今がウソ。
今が充実している人は、自分に納得している。
自分にははっきりとした目的がないということに直面することから、自分が見えてくる。それなのに、悩んでいる人は、今の自分に直面しないで、願望だけに固執する。
それと「私は、自分の将来についてこれだけ考えました。今までこれだけ行動しました」がない。
実は、仕事を探しているのではなく、自分の神経症的自尊心を満足させることを考えている。
普通相談というのは具体的なことである。しかし悩んでいる人はそうなっていない。
悩んでいる人はコミュニケーションが分かっていない。友達がいない。これも共通性。
現実と接して生きれば道は拓ける
自分の位置が分かるから、何をしていても「この私がこんなことをしているなんて、素晴らしい」と思える。自分の長所も分かる。「運が良かったな」と感じる。
「この私がこんなことをできる、ありがたい」と感謝をする。
自分の位置を知るということは「現実の自分」を認識するということである。現実の中で生き始めるということである。
「私はリンカーンではない」と理解することができる。「リンカーンだったらなー」と思うのは、現実の自分の位置をまったく見ていない。
現実とはまったく接していない想像の世界だけで生きている。
自分の位置が分からないとどうしても悲観主義に陥る。同じ体験をしても「運が良かったな」と感じるのではなく「運が悪かった」と感じてしまう。
自分の持っていないことにばかり気がいってしまう。どうしても弱点のほうに気がとられる。
同じ体験をしても「この私がこんなことをできる、ありがたい」と感謝するのではなく、逆に「あの人があんないい思いをしているのに、何で私がこんな辛い思いをするのだ」と世の中を恨むようになる。
被害者意識に立ってものを言う人は、生涯「愛の欠如の影響」から逃れることはできない。つまり死ぬまで辛い人生である。
自分の位置が分かれば、誰を大切にすればいいのか、どう行動すればいいのかも自然と分かってくる。人間関係の距離感も出てくる。
外化をして現実が見えなくなると、誰にでもいい顔をし始める。
誰にでもいい顔をする親は、自分の子どもに犠牲を強いて、自分自身を裏切ってまで、たまたま会った人にいい顔をする。
自分の願望や欲求を外化して、それが現実だと錯覚すると、自分が誰との関係で今ここにいられるのかが分からなくなる。
したがって「誠実に生きよ」と言われても誰に対して誠実になればいいのかも分からない。そういう人はずるい人に対して誠意を尽くして軽く見られる。
母親から愛されて、母親と自分との距離が近いことを体感できた人は、遠い人が分かる。大人になって人間関係の距離感が分かる。
母親から愛されることがなく成長した人は、近さを体験していないから詐欺師も誠実な人も見分けがつかない。この世の中で自分のいる位置が分からない。
外化という心理過程の恐ろしさである。自分の願望を現実と錯覚するから、現実と接していない。
そしてこの現実と接していないということが、生きていることの不確実感に結びついている。あるいは漠然とした不安感に結びついている。
自分の位置が分からなくなるのは、外化をするからである。そうして欲求だけの想像の世界になる。恐ろしいのは、そういう人は自分が現実と接していないということに気がついていないということである。
現実の他者と接していないから、生命力の低下した人も生命力の豊かな人も見分けがつかない。だからおかしな人達とつきあう。変な人達とつきあう。
人を見て、「なんか分からないけど、この人おかしい」と分からない。最後はカルト集団に入っていってしまう。
現実と接していれば、自分は今社会の中でどの位置にあり、人から見ると自分はどういう人間であるかが分かってくる。
だからこの世の中でどう生きればいいのかも見えてくる。
自分の位置を間違えているということは、簡単に言うと自分を勘違いしているということである。
ある学習塾での話。同じ部屋に来て勉強している子がいる。別に授業料を払っているわけではないが、先生が好意で特に許可をしていた。
正規のクラスの子が「部屋で騒いだ」と、単に来ていいということで来た子が文句を言う。
そして食事の時間も同じ態度。二杯目のスープを他の子のように遠慮しない。他の子と違って荷物を部屋に置いていく。
そういう子は愛想がいい。「ごめんなさい」を連発する。一見すると悪い子とは思わない。
小さい頃から「得しよう」という搾取タイプの子である。
大学でも同じこと。「三分早めに講義が終わった」と教授に文句を言うのは盗聴している学生。
正規の学生は「ちょうどきりのいいところで終わってすっきりとした」と思っている。
文句を言う学生は自分の位置が分かっていない。自分の位置が違っている。はじめから「これだけ得しよう」と思って来ている。
得することに気を奪われて、自分の置かれている位置を忘れてしまう。
不幸になる典型的な例とは
イソップ物語に次のような話がある。
ワシが高い岩の上から飛んできて、ヒツジをさらう。それを見ていたカササギが羨ましくなって、真似をしようと思う。
そこで、羽をバタバタして、牡ヒツジに飛びかかったが、ツメがヒツジの毛にひっかかって、飛び上がることができなくなった。バタバタしているうちに、ヒツジ飼いが来てカササギを捕まえてしまった。
そして、カササギの羽の先を切ってから子ども達のところへ持って帰った。
子ども達が、「これは何の鳥ですか」と聞くと、ヒツジ飼いは次のように答えた。