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誰も書かなかった 日韓併合の真実
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歴史
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第1章 日本の植民地支配の目的は何か?

『誰も書かなかった 日韓併合の真実』
[著]豊田隆雄 [発行]彩図社


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1・各国の植民地事情





 ●併合なのか植民地なのか?


 植民地と聞いて何を連想するだろうか? スペインやポルトガルの中南米侵略か。はたまた、帝国主義における欧米列強諸国によるアジア・アフリカ侵略か。


 そうした西洋諸国の植民地では、先住民を無視した非合法な搾取が横行し、過酷な支配が行われていた。帝国主義の時代において、ヨーロッパでは「文明化の使命論」が唱えられ、「劣等なあるいは退化した人種の向上をはかることは、人類にとって神の摂理にかなった事業である」とされた。こうして侵略が肯定されたのである。


 では、日本による植民地支配はどうだったのだろう? 韓国の民族主義者からすれば、「日本による支配は欧米列強のそれ以上に過酷で、類を見ない残忍なものだった」ということになるのだろう。


 確かに、日韓併合の過程で朝鮮人の抵抗があったのは事実だし、併合後も規模の大小こそあれ独立運動を志向する動きはあった。しかし、統治全般を見渡せば、列強のような非合法な支配体制ではなかったことや、国際社会から逸脱したものではなかったことがわかってくる。


 欧米列強にとって、植民地とはどのようなものだったのか? まずはフランスを例に考えてみよう。



 ●フランスによるアジア統治


 アジアで絶大なる力を誇り、巨大帝国を形成していた清。朝鮮をはじめ、ベトナム、タイ、ミャンマーなどを属国とする(さく)(ほう)体制を築いていたが、アヘン戦争敗北以降、ヨーロッパ勢には負け続けで、まったく歯が立たない状態であった。


 この清国からベトナムを奪ったのが、フランスだ。1885年、清仏戦争に敗れた清はベトナムから撤退し、勝利したフランスはベトナムを保護国とする。これをきっかけに、フランスはインドシナ東部(ベトナム・カンボジア・ラオス)の支配を確立し、フランス領インドシナ連邦を形成していった。




 フランスの統治は、清のように貢物を届ければ安泰という生易しいものではなかった。人頭税をはじめ、土地税、結婚税、葬式税など、さまざまな税による支配を実施。塩、アルコール、アヘンなどにも税をかけ、鉄道などのインフラ整備にあてていた。フランス企業が資本を投下する基盤をつくるためであった。


 教育制度に関しても、フランスはまったくといっていいほど関心を持たなかった。植民地の人間は、従順な農民や労働者であったほうが都合がいい。それがフランスの本音だった。ベトナムが長年使用してきた漢字と科挙を廃止したのも、そうした思惑に基づいている。


 フランス領カンボジアでも、教育制度はあまり普及しなかった。総合大学は一校もなく、終戦間際の1944年でさえ、学齢に達していた男児の5分の1以下しか学校に行けなかった。


 カンボジア以上に悲惨だったのはラオスだ。1917年に小学校、1921年に中学校がつくられたが、高等中学校がラオスにつくられたのは、戦後の1947年だった。


 このような状態だったから、植民地支配が終わった頃、フランス領インドシナ全体で読み書きができたのは、わずか10パーセントだったという。



 ●アメリカのフィリピン統治


 フランスとは対象的に、植民地の教育に力を入れたのがアメリカだ。しかし国民のためではなく、あくまでもアメリカのためだった。


 アメリカは、米西戦争の勝利によって、スペインの植民地だったフィリピンの領有権を獲得した。しかし、それに反発するフィリピンとの間で戦争が起きる。米比戦争である。


 この戦争によって、フィリピンは大きな傷を負った。アメリカ軍によるフィリピン人虐殺事件が各地で発生し、犠牲者は20万人(全人口の3%)にも及んだと推定されている。また、水牛の90パーセントが失われて農耕に影響を及ぼし、米の収穫量が四分の一にまで激減したという。




 ここまでやられてフィリピンの革命軍が黙っているわけもなく、アメリカは予想以上に抵抗に苦しんだ。そこで考えられたのが、教育の普及だった。早くも米比戦争中の1901年には無償の初等教育が、翌年には中等教育制度が成立。1908年には国立フィリピン大学が設立されたが、その目的は、フィリピン人エリート層を懐柔して植民地支配に協力させること、英語を浸透させて行政事務を円滑にすすめることだった。特に、当時のエリート層はスペイン語使用者だったため、その言語を英語に代えるために教育の普及は急務だった。


 学校ではアメリカ人用の教科書が使用され、授業は英語で実施された。担当したのは、退役軍人やアメリカから派遣された教師たち。その結果、監視の目が行き届くようになり、フィリピンに暮らす人々は、教育を通してアメリカによる植民地化の正当性を植えつけられるようになっていった。



 ●イギリスによるエジプトの保護国化


 次に、イギリスによるエジプトの保護国化のケースを見ていこう。


 ヨーロッパに近いエジプトは、オスマン帝国の属領時代から欧米の侵略に危機感を抱いており、19世紀初頭から近代化に着手して成果を挙げていた。


 しかし、支配者が贅沢三昧な暮らしを続けたことで国家財政は疲弊。そこで採られたのが、スエズ運河株の売却だ。エジプトは、17万6600株をイギリスに売却したのだが、これが破滅の一歩となる。大株主となったイギリスは、筆頭株主のフランスとともに主要債権国としてエジプトの財政を管理下に置いたのだ。


 1881年、エジプトの陸軍将校ウラービー・パシャは「エジプト人のエジプト」を掲げて政権を掌握するが、イギリスは軍隊を送ってウラービー軍を壊滅させ、カイロを占領。エジプトはイギリスの保護国となった。


 当然、エジプトからは反発の声が挙がったが、イギリスはあくまで「スエズ運河の安全と自国の債権者の利益を守るためエジプトが安定すれば撤退する」と主張。

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