『誰も書かなかった 日韓併合の真実』
[著]豊田隆雄
[発行]彩図社
20・オリンピック参加とメディア統制
●植民地とスポーツ
良くも悪くも、スポーツはナショナリズムを鼓舞させるものだ。各国の代表として国際大会に臨む選手たちは、いやでも自国を意識する。選手が輝かしい功績を残せば、同じ国の人間として素直にうれしくなるものだが、それが国の誇りとして置き換えられることもある。それがときには民族意識を刺激する。
1936年に起きた日章旗抹消事件も、そのような民族意識に関係する事件だった。オリンピックという大舞台において、朝鮮出身の2人のマラソン選手が金メダルと銅メダルを獲得するという快挙を成し遂げるのだが、これが本人たちが思ってもみなかった騒動のきっかけとなる。いったい何が起きたのだろうか?
●ベルリンオリンピック開催
1936年は、冬(ガルミッシュパルテンキルヒェン)夏(ベルリン)ともに同一国でオリンピックが開かれた唯一の年だ。ナチス党総統アドルフ・ヒトラーは、「アーリア民族の優秀性と自分自身の権力を世界に見せつける絶好の機会」ととらえ、総力体制でオリンピックの成功を目指した。
参加国は、前大会のロサンゼルスオリンピックを上回る49カ国で、参加人数は計3980人。史上最大規模で、ベルリンオリンピックは開幕を迎えた。
ちなみに、オリンピック発祥の地ギリシアのオリンピアで採火した聖火をトーチリレーで運ぶ聖火リレーが始まったのは、このベルリンオリンピックから。地中海の英軍基地を空から偵察するという軍事目的があったからとも言われている。
さて、この大会には日本人選手も数多く参加していたが、そのなかには朝鮮人も含まれていた。当時の朝鮮はマラソンのレベルが高い選手が多く、4年前のロサンゼルスオリンピックでは、金思培が6位、権泰夏が9位に入っていた。こうした朝鮮出身者の活躍は、少なからず朝鮮に勇気や希望を与えていたようだ。
ベルリンオリンピックに参加していたマラソン選手は、孫基禎と南昇龍である。マラソンは、オリンピックで1番の花形と言われた人気競技。そのマラソンにおいて、朝鮮出身の二人は見事、金メダルと銅メダルに輝いた。孫が2時間29分19秒で優勝して金を、南が2時間31分42秒で銅を獲得した。マラソンでアジア人が優勝したのは初めてのことだった。
もともと二人は、その世界では有名なトップ選手だった。平安北道生まれの孫基禎は、1935年に行われた第8回明治神宮体育大会で2時間26分42秒をたたき出し、当時の世界新記録を樹立した。世界新記録者のオリンピック金メダルは、今のところ孫選手のみである。
一方、銅メダルを獲得した南昇龍は、全羅南道出身。陸上強豪校の養正高等普通学校で高記録を出すも、成績不振で進級できず退学。しかし、東京の目白商業高校に編入して結果を出したことで、明治大学からスカウトされて箱根駅伝に参加している。
これを見てわかるのは、スポーツに関しては、植民地の人であっても実力があれば評価してもらえるということと、朝鮮名で参加できたことだ。メダル獲得によって朝鮮人としての自信や誇りが芽生え、大きくなっていったとしても、不思議ではない。
ただ、日本当局者からすれば、孫選手や南選手の功績は、「日本」という国籍でオリンピックに参加できたからこそ得ることができた、とも言える。その後に起きた日章旗抹消事件のことを考えると、そんな気がしてならない。
●東亜日報の報道と規制の強化
2人がメダルを獲得した日から16日後、東亜日報はその快挙を報道した。同じく朝鮮中央日報も、このニュースを報道している。しかし、両紙に掲載された写真が当局者に問題視されることになる。表彰式に立つ孫基禎選手の胸の日の丸が、削除された状態で掲載されていたのである。
新聞は検閲の対象になっていたが、東亜日報は検閲通過後に写真に手を加えて日章旗を削除した。間接的に朝鮮の勝利を示すためで、民族感情の高ぶりや日本に対する不満があったことが窺える。
報道に気づいた当局は、すぐさま行動に移した。記事を掲載した記者は逮捕され、東亜日報は無期(実際には半年間)の発行停止処分を受けることとなる。朝鮮中央日報は自首し、夕刊を刊行したのち廃刊となった。
ちょうど日本では、信濃毎日新聞で「関東防空大演習を嗤う」を書いた桐生悠々が新聞社を追われ、東大教授の河合栄三郎は、「ファシズム批判」を含む4冊が発禁処分となって職を失うなど、政府批判につながる言動が厳しく制限されていた時期だ。総督府も規制の強化に乗り出すことになる。
1940年8月、朝鮮人が経営する東亜日報と朝鮮日報は、反日的な論調が目立つということで、廃刊処分が下された。朝鮮人が経営する雑誌なども廃止され、総督府の御用新聞である毎日新報だけが朝鮮語の新聞を発行し続けたが、日本に都合のいい内容ばかりになったのは、言うまでもない。