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(2021/11/26 追記)

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葉隠の人生訓
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歴史
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第六章 武士の意地

『葉隠の人生訓』
[著]童門冬二 [発行]PHP研究所


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不遇のとき


 あるとき、田代陣基がちょっと聞き辛そうな風情を示しながら、しかし勇を鼓してこう聞いた。
「先生に、こんなことを伺うのは非常に自分をさらけ出すようで恥ずかしいのですが、よろしいでしょうか?」
「あなたとは、はじめて会って以来、心を開き合った仲です。もう何の遠慮もいらないでしょう。どうぞお訊きください」
「ずばり伺います。不遇のときには、どのような気構えを持つべきでしょうか」
「…………」

 常朝は微笑んだ。しかし眼の底をキラリと光らせながら、頷いた。
「わたくしの祖父神右衛門の時代のことです。元旦に、ちょうど隣家の御主人が亡くなられました。すると祖父は、家人にこう申しました。

 隣家では不幸があって、人の出入りが多い。そうなると、家の人びともその振る舞いの支度が十分にできまい。幸いに、わが家はつつがなく家族が新年を迎えて、これから祝いの食膳を楽しもうとしているところだ。しかし、隣家に不幸があったのにそんなことをすることはできない。この食膳の御馳走をすべて隣家に届けなさい、と。

 もちろん、家人や家来たちは、そんな縁起の悪いことをしない方がよろしいでしょうと申しました。ところが祖父は厳しく叱りつけて、侍は人が難儀しているときにこそ心を配るのが義理だ。こちらは、遅くなってもいつでも祝える。料理などまた取ればよい。さっさと持っていけ、と怒鳴りました。

 簡単にいえば、不遇なときには、より不遇な人に目を向けるべきだということでしょうか」
「よくわかります。そのとき、山本先生のお宅も不遇だったのですか」
「うちはずっと不遇つづきです。なにしろ変わり者ばかりですからね」

 常朝はそういって笑った。そして、表情を改めると、
「もう少し真面目な話をしましょうね」

 といった。
「わたしがまだお城に勤めているころ、宿直(とのい)という制度がありました。武士が交替でお城に詰めるのです。そのとき宿直の束ねをする上司が、寝酒を振る舞ってくださることがございます。わたしが宿直のときの上司は生野織部殿と申しました。その生野織部殿が、寝酒を飲ませてくださりながらこんなことをお話になりました」

 そういって常朝は、生野織部が話したことを告げた。
「おぬしの一族の中野将監殿とは心安い仲だ。先日、奉公の心構えを聞きたいとおっしゃったので、わたしはこうお答えした。つまらぬ役を仰せつけられたときこそ、真剣にその仕事に取り組むべきだと。

 得てして、順調なときは、つまらぬ役を仰せつけられると不満に思ったり、あるいは投げやりになって仕事に身を入れなくなる。これが一番危険なのだ。不遇なときこそ、目の前の仕事を精一杯やり抜くことが、一番大切だ」

 生野織部は中野将監にそういったという。

 しかし佐賀藩の武士たちは、どちらかといえばみんな、
「極力自分を押さえて、他人を立てる」

 という傾向が強い。現に、田代陣基の前にいる山本常朝がいつもその手法を使う。つまり常朝は、
「何々殿がこうおっしゃった」

 ということが多い。しかし田代の感じでは、
(いまのお言葉は、けっして他人がおっしゃったものではない。山本先生がおっしゃっているのだ)

 と感ずる。今日の話は、回りくどい。つまり、中野将監が生野織部から聞いたことを、また山本常朝が宿直のときに聞いて田代に話しているという回路をとおっている。しかしそんな回りくどい回路をとおりながらも常朝はつづけた。
「生野殿がおっしゃるのは、結構なお役を頂戴したときに、たとえば上役から水を汲め、飯を炊けといわれても、嬉々としてその仕事をするべきだとおっしゃるのです。

 自分はいま大切なお仕事を命ぜられているので、とてもそんな雑用はできませんなどといえば、その人間は思い上がっていると受け止められます。したがって、一転して結構なお役をクビになり、つまらぬお役を命ぜられがちになるのです。そして、その思い上がった人間が不遇になったとしても、誰も寄りつかないでしょう。同情もしてくれません。

 いってみれば、不遇なときの心構えというのは、結構なお役を頂戴しているときの心構えにつながります。そのときに、つまらぬ仕事も嫌がらずに、人びとのお役に立っていれば、不遇ということはないと生野殿はおっしゃるのです」

 聞いた田代は大きく頷いた。身に憶えがあるからだ。いま振り返ってみれば、
(殿の御祐筆を命ぜられていたときに自分は思い上がっていた)

 と思う。そういう悔恨の事例が、つぎつぎと頭のなかに思い浮かぶ。まるでトラの威を借るキツネのように、殿様に用のある武士たちの前に立ちはだかり、
「ご用件の内容を、まずわたしが伺います」

 などと遮った。そして内容によっては、
「殿にそんなことを申し上げることはできません。お引き取りください」

 と断ったこともある。相手が重役の場合は怒る。目を剥いて、
「なにをいうか、おまえは祐筆で、殿のおっしゃることをただ書き留めればよいお役だ。にもかかわらず、わしのような重役の面会申し込みを妨げるとは不届き千万である」

 と息巻いた。

 が、あのころの田代陣基はたじろがなかった。いい返した。
「たしかに、祐筆というのは殿のおっしゃったことを書き留めればよいというお役であります。しかしわたくしは違った考え方を持っております。殿のおっしゃるお言葉のなかに、誤ったことがあればその場で筆を止め、そのことはお達しにならないほうがよろしいのではないかとご意見申し上げます。わたくしが正しければ、殿は聞き届けてくださいます。
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