トップが部下を使いこなし、思いどおりに組織を動かすには、どうすればよいか。べつにむずかしいことではない。まず、二つの柄(ハンドル)をしっかりとわが手に握って放さないことだと『韓非子』は言う。二つの柄とは、賞と罰の権限である。これさえ握っていれば、トップとしての地位はゆるがない。
この章では、「二柄」

からリーダー学の要諦を、そして「外

説」

からさまざまなエピソードを通してトップの具体的なあり方をさぐってみた。
〔ことば〕
■明主の導ってその臣を制する所のものは、二柄のみ。
■賢に任ずれば、則ち臣は将に賢に乗じて以ってその君を劫かさんとす。妄りに挙ぐ
れば、則ち事沮まれて勝えず。
■術ありてこれを御せば、身は
堂の上に坐し、処女子の色ありて、治に害なし。
■善く吏たる者は徳を樹え、吏たる能わざる者は怨みを樹う。
■明主は、その我に
かざるを恃まず、吾が
くべからざるを恃むなり。
■与に居る所に在らず、与に謀る所に在り。
■左右社鼠となり、事を用うる者猛狗となれば、則ち術行なわれず。
■人を恃むは自ら恃むに如かず。
■聖人は細民に親しまず、明主は小事を躬せず。
■術の以ってこれを御するなくんば、身労すと雖も、猶お乱を免れず。
1 臣下を使いこなすコツ
賞罰の権限を手放すな
すぐれた君主は、二つの柄を握っているだけで、臣下を使いこなす。二つの柄とは、刑と徳である。では、刑徳とは、何か。刑とは罰を加えること、徳とは賞を与えることだ。
臣下というのは罰を恐れ賞を喜ぶのが常である。だから君主が罰と賞の二つの権限を握っていれば、ふるえあがらせたり、てなずけたりして、思いのままにあやつることができる。
腹黒い臣下は、そこにつけこんでくる。気に入らない相手は、君主になりかわって自分が罰し、気に入った相手には、やはり君主になりかわって賞を与える。
もし君主が賞罰の権限を自分で行使せず、臣下にまかせてしまったら、どうなるか。国中の者がその臣下を恐れて君主を軽視し、はては、臣下になびいて君主を見限るであろう。賞罰の権限を手放せば、こういう結果にならざるをえないのだ。
虎が犬を負かすのは、爪や牙をもっているからである。その爪や牙を虎からとりあげて犬に与えたら、どうなるか。逆に虎のほうが犬に負かされてしまう。
君主は、刑と徳の二つをもって臣下を統制している。その刑と徳を手放して臣下に与えたらどうなるか。逆に君主のほうが部下に統制されてしまう。
斉の国の田常という大臣は、君主の簡公をまるめこんで、自分の気に入った臣下にだけ爵位を与え、人民に穀物を貸しつけるときにも、大きな枡目ではかってやった。簡公はみずから賞を与える権限を手ばなし、臣下の田常が代わってそれを行使したのである。その結果、やがて簡公は田常によって殺されてしまった。
宋の国の子罕という重臣が、王に願い出た。
「賞賜のたぐいは、みんなに喜ばれるもの、これはご自分でおやりください。刑罰は、みんなに怨まれるもの、こちらのほうは私におまかせください」
こうして宋の王は、罰を加える権限を手ばなし、臣下の子罕が代わってそれを行使した。その結果、宋の王は君主の座から追われてしまったのである。
田常が使ったのは、賞と罰のうちの、賞の権限だけである。それでも簡公は殺されてしまった。また、子罕が使ったのは、罰の権限だけであるが、それでも宋の王は追放されてしまった。
今の臣下は、賞と罰の権限を二つとも行使している。してみると、君主の座の危ういことは、簡公や宋の王の比ではない。
殺されたり、実権を失ったりした君主は、賞罰の権限を二つとも臣下に奪われていた。こんな状態で身を滅ぼさなかった君主は、昔から、一人もいたためしはないのである。
■ここで言う君主というのは、むろん、広くリーダーと理解してよい。リーダーがリーダーとしての地位を維持する鍵は、温情でもない、思いやりでもない、賞罰の権限を手放さないことだという。『韓非子』は上辺の虚飾をはぎとって、ズバリ本質に迫ろうとするが、ここにも権力の本質を見すえる覚めた眼がある。むかしから、リーダー論は多くの論客によってさまざまな角度からとりあげられてきたが、これほど明解な論は他にあまり例を見ない。「却殺擁
の主は、兼ねて刑徳を失いて臣をしてこれを用いしむ。而して危亡せざる者は、未だ嘗てあらざるなり」と断言するあたり、むしろ小気味よい感すらする。こういう明解さは、ズバリ本質に迫っているところから生まれてくるのだ。
明主の導ってその臣を制する所のものは、二柄のみ。二柄とは、刑徳なり。何をか刑徳と謂う。曰く、殺戮これを刑と謂い、慶賞これを徳と謂う。人臣たる者は、誅罰を畏れて慶賞を利とす。故に人主、自らその刑徳を用うれば、則ち群臣その威を畏れてその利に帰す。故に世の姦臣は則ち然らず。悪む所は則ち能くこれをその主に得てこれを罪し、愛する所は則ち能くこれをその主に得てこれを賞す。
今、人主は賞罰の威利をして己に出でしむるに非ず、その臣に聴きてその賞罰を行なわば、則ち一国の人皆その臣を畏れてその君を易り、その臣に帰してその君を去る。此れ人主、刑徳を失うの患なり。それ虎の能く狗を服する所以は、爪牙なり。虎をしてその爪牙を釈てしめて狗をしてこれを用いしむれば、則ち虎反って狗に服す。人主は刑徳を以って臣を制する者なり。今、人に君たる者、その刑徳を釈てて臣をしてこれを用いしめば、則ち君反って臣に制せらる。
故に田常、上は爵禄を請うてこれを群臣に行ない、下は斗斛を大にして百姓に施せり。此れ簡公、徳を失いて、田常これを用うるなり。故に簡公弑せらる。子罕、宋君に謂いて曰く、「それ慶賞賜予は民の喜ぶ所なり。君自らこれを行なえ。殺戮刑罰は民の悪む所なり。臣請う、これに当たらん」。是に於いて宋君、刑を失いて、子罕これを用う。故に宋君、劫かさる。田常徒に徳を用いて簡公弑せられ、子罕徒に刑を用いて宋君劫かさる。
故に今の世の人臣たる者、刑徳を兼ねてこれを用うれば、則ちこれ世主の危うきこと、簡公宋君よりも甚だし。故に劫殺擁
の主は、兼ねて刑徳を失いて臣をしてこれを用いしむ。而して危亡せざる者は、則ち未だ嘗てあらざるなり。
明主之所導制其臣者、二柄而已矣。二柄者、刑徳也。何謂刑徳。曰、殺戮之謂刑、慶賞之謂徳。為人臣者畏誅罰而利慶賞。故人主自用其刑徳、則群臣畏其威而帰其利矣。故世之姦臣則不然。所悪則能得之其主而罪之、所愛則能得之其主而賞之。
今人主非使賞罰之威利出於己也、聴其臣而行其賞罰、則一国之人皆畏其臣而易其君、帰其臣而去其君矣。此人主失刑徳之患也。夫虎之所以能服狗者、爪牙也。使虎釈其爪牙而使狗用之、則虎反服於狗矣。人主者、以刑徳制臣者也。今君人者、釈其刑徳而使臣用之、則君反制於臣矣。
故田常上請爵禄而行之群臣、下大斗斛而施於百姓。此簡公失徳而田常用之也。故簡公見弑。子罕謂宋君曰、夫慶賞賜予者、民之所喜也、君自行之。殺戮刑罰者、民之所悪也、臣請当之。於是宋君失刑而子罕用之。故宋君見劫。田常徒用徳而簡公弑、子罕徒用刑而宋君劫。
故今世為人臣者兼刑徳而用之、則是世主之危甚於簡公、宋君也。故劫殺擁
之主、兼失刑徳而使臣用之。而不危亡者、則未嘗有也。
(二柄)
申告と実績の一致を求めよ
臣下の悪事を防ごうとするなら、君主は臣下に対して、「刑」と「名」、すなわち申告と実績の一致を求めなければならない。
まず臣下が、これだけのことをやりますと申告する。そこで君主は、その申告にもとづいて仕事を与え、その仕事にふさわしい実績を求める。実績が仕事にふさわしく、それが申告と一致すれば、賞を与える。逆に、実績が仕事にふさわしくなく、申告と一致しなければ、罰を加える。
これだけはやりますと申告しながら、それだけの実績をあげなかった者は、罰する。実績が小さいからではない。申告と一致しないから罰するのだ。
これだけしかやれませんと申告しておきながら、それ以上の実績をあげた者も罰する。なぜか。むろん、実績の大きいことを喜ばないわけではない。だがそれよりも、申告と実績の一致しないことのマイナスのほうが、はるかに大きいからである。
むかし、韓の昭侯が酒に酔ってうたた寝をしたことがある。冠係りの役人がそれを見て、風邪でも引いてはと、衣をかけてやった。眠りからさめた昭侯は、うれしく思って、左右の者にたずねた。
「誰がかけてくれたのか」
「冠係りです」
それを聞いて昭侯は、衣係りと冠係りを二人とも罰した。衣係りを罰したのは、自分の職務を怠ったからである。冠係りを罰したのは、自分の職責外のことにまで手を出したからである。風邪を引いてもよい、というわけではない。越権行為のほうが風邪よりもマイナスが大きいと考えたのである。
すぐれた君主は、臣下に対して、越権行為までして実績をあげることを許さない。また、申告と実績が一致しないことも許さない。越権行為には死罪、申告と実績の不一致にはそれ相応の罰をもって臨むのである。
臣下に職責を守らせ、申告どおりの実績を求めていれば、徒党を組んでかばい合うことはできなくなるはずだ。
■ここで述べられている厳格な勤務評定は、「刑名参同」と呼ばれている。前節で『韓非子』は、賞罰の権限を手放すなと説いた。賞罰の権限を握れということは、言うまでもなく、その裏に信賞必罰の方針が予定されている。だが、『韓非子』の考える信賞必罰は、ただの信賞必罰ではなく、「刑名参同」である。「刑」とはやり遂げた実績、「名」とは本人の申告、「参同」とは両者をつき合わせて評価するという意味だ。申告と実績が一致しない者は処罰する。