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精神科医とは何者であるか
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ルポ・エッセイ
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第三章 精神科医も医者である

『精神科医とは何者であるか』
[著]頼藤和寛 [発行]PHP研究所


読了目安時間:38分
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 医者にとっての「いのちの初夜」


 医学生が医者の世界に入るための最初の関門が解剖実習である。これは、もうほとんど洗礼のようなものである。文化人類学で言うイニシエーション、通過儀礼である。

 毎年各大学百人前後の医学生のうち、一人か二人は解剖室の前で吐き気をこらえている。稀に解剖を苦にして転部や退学をする者もいるらしい。逆に、勇躍、武者震いして解剖室へ飛び込んでいく医学生もいる。実は筆者は後者だった。中学・高校の頃から人体解剖にあこがれていたぐらいのヘンタイ少年だったのである。

 たしかに半年ほどの解剖実習が済むと医学生はどことなく医者の卵らしくなる。なにしろ人体の秘密を知り尽くしたはずであり、天子様から奴隷まで、およそ貴賤貧富、老若男女あらゆる人間の中身を見極めてしまったのである。なにを恐れる必要があろう。相手が人間であるかぎり内臓を筋骨で支え皮膚で覆った存在でしかないことを、身をもって学んだのである。

 医者でもあったチェホフの短編に、若い女性の後ろ姿を見て、あああれがヒラメ筋、アキレス腱と解剖学を復習する医学生の話があった。たしかに、そうした見方が身についてしまう。このことは、人間を神の似姿、万物の霊長と信じたい人々にとって不愉快であるとともに一種の脅威でもあろう。いまわしい現実を体得した者は、それを直視したくない一般人にとってなんとなく忌避すべき人種という刻印を押される。

 このためか、古来、医者は独特な差別を受けてきた。たとえば昔のモンゴル帝国では医者をさげすみ獣医より下位に位置づけ、治療に失敗すると殺したりもした。別の国では特別扱いして身分の階層から外すこともあった。これを「方外の者」と言う。わが国でも医者に名字帯刀を許したが、さりとて貴族でもなく武士でもなかった(司馬太郎)。坊主と医者を特別扱いしたのは、ともに死や病というケガレ(井沢元彦)に接する職分だからで、これも一種の被差別階級だったのである。

 ただし、その代償として免税されたりもした。この特別扱いの名残りは現代の宗教法人や医師の優遇税制にも残っている。ことわるまでもないが、筆者は死や病をケガレとは感じないし、まして皮革や獣肉もケガレとは感じない。畜や解体を特殊視していた社会なら、解剖や手術も特殊視したはずであることを指摘しているのである。

 井沢氏の『穢れと茶碗』『逆説の日本史』などによると、死や流血や闘争などは古来より日本人が(けが)れと感じてきたもので、それに携わる職分(刑吏・獣類解体者・武士・軍人など)を差別し続けたのもこれに拠る、という。それなら、医者や坊主だって病いや死の穢れに関わるのだから、差別されてこなければおかしい。医者などは、その上、カワウソや後には刑死者の腑分けまでしたのだから、最高に穢れているはずである。しかるに医者に対してゲットーへ押し込めるような露骨な差別をしなかったのは、いざという時には脈をとってもらい腹をなでまわしてもらわなければならないからであったろう。かくして差別は厚遇というオブラートで包まれることになった。

 いずれにしても、医者は敬して遠ざけるべき身分なのだ。筆者だって自分が医者でなければ、一生医者とは無縁でいたい。

 この身分に達するために解剖実習は不可避である。医者同士が妙な連帯感をもつのは、なかば解剖実習を済ませたという同族意識に端を発するのではなかろうか。ちょうど「同じ釜のメシを食った」とか「同期の桜」とか戦友とかの感覚に近い。最近でこそ英語がハバをきかすようになったが、医者仲間だけで通じる隠語はドイツ語で、「いや昨日、カルチのクランケがステルベンしてね。ま、(やく)落としに今晩エッセンしないか。え? ああ、うちのフラウはシュヴァンゲってるから家で留守番させときゃいい」などとドイツ人もびっくりの会話が成立していた(ガンの患者が死亡したので、精進落としにメシでも食おう、妻は妊娠しているから同席無用である、といった意味)。長幼の序と無関係に、互いを「センセイ」と呼ぶのも強い連帯感の現れである。この端緒が、ともにホトケをさばいてきた仲間であるという実感なのだ。

 これこそ医者にとっての「いのちの初夜」である。ちなみに「いのちの初夜」とは、戦前にハンセン氏病を病んだ北条民雄の作品に川端康成がつけた題名である。医者にとって「いのちの世界」に乗り出す初夜が、死体相手の格闘であるのは皮肉と言うしかない。

 いずれにしても、人体をこまかく腑分けする作業を通過することによって医学生としての一歩を踏み出すわけである。


 「生命尊重」に縛られる医者


 解剖実習だけが酸鼻な修行なのではない。その後の二年間、生理学・生化学・薬理学・細菌学その他を通じて人体の仕組みと急所を知る。病理学や法医学などを修めて人体の悲惨をほじくりかえす。さらに三年目以降は病院で白衣をはおり、本物の人間相手に診察や施術の見習いも始める。各科を順にめぐってグループに分かれて実習するので、たとえば産婦人科の内診実習では若い患者に当たるかお婆さんに当たるかがグループの明暗を分ける(!?)。たしか筆者のグループは相当トウの立った婦人に当たったように記憶する。もちろん相手の上半身はカーテンに遮られていて見えなかったのだが。

 こんなことを何年も続けていると、人を人とも思わなくなって不思議ではない。まかりまちがうと途轍(とてつ)もなく冷酷非情なバイオ技術者を作り出してしまいかねない。その上、毒物の知識や殺生の工夫をいくらでも身につけることができる。看護学校を中退しただけの女性でも大量毒殺といった犯罪が可能なのだから、医者がその気になれば小さな町そっくり絶滅させることもまったく不可能というわけではない。

 つまり、医者というのはわれわれの肉体の中身まで知悉(ちしつ)していることで気味の悪い存在であり、生老病死を直接扱うだけに前述のようにケガレを帯びた存在であるばかりか、悪気でも起こされた日にはずいぶん物騒な存在にも成り得る技術者なのである。兵士は単に危険なだけだが、医者は不気味な上に危険なのだ。

 世人は医者に対してアンビバレントであり続ける。アンビバレントとは愛憎のように矛盾する感情を同時に抱くことである。いざという時には「命の恩人」になってもらわなければならないのだが、そのためには「死の専門家」でもあらねばならない。医者は医者以外の人々にとってヒーロー(英雄)であると同時にヒール(悪役)でもある。T・ハリス『羊たちの沈黙』の映画化でA・ホプキンスが凄演した精神科医「人食いレクター」を思い浮かべられるとよい。

 こんな履歴をもった危険な人種に対し、社会や文化がなんらかの制約を課そうとするのは不思議でもなんでもない。なんといっても大多数の人々は、患者や患者の身内になることはあっても、医者の側に回ることはない。
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