人間はとても淋しがり屋で、人から離れて一人ぼっちで生活することができない反面、人とのつき合いでずい分苦労もしています。人間関係という言葉は、もう聞いただけで煩わしいもの、面倒なものというひびきがあります。新しい職場に入っても人間関係がうまくいっているとか、別に何も支障はないと聞くと、珍しいことだと言い合うほどに、人間関係というものは難しいのが通り相場になっているようです。そうかといって無視できないもので、面倒だ、いやだと言い言い、その中で生活しているのです。
今日、技術革新の世にあって改良につぐ改良、発明につぐ発明が数多くの分野で行なわれています。もしかすると、今日いちばん立ちおくれている分野は人間関係についてのものかも知れません。たしかに講習会が各所に開かれ、研修会に参加する人も多くなっています。しかしそれにもかかわらず、人間関係がいつも難しいもの、面倒なものとして残るのはいったいなぜでしょうか。かつてノーベル賞を受けたアレキシス・カレル博士が、近代文明の発達とともに、人間はだんだん不幸になっているのではないだろうか。もしそうだとすればそれは近代文明が、人間の不幸を見極めることなく、好奇心のおもむくままに、無軌道に発達した結果である。今後行なわれるすべての発明、発見は、それが人類の繁栄と幸福に役立つものでなければならないし、それにつけても、もっとよく人間というもの、その幸福をもたらすものを研究する必要がある。現在人間にとって、いちばん知られていないものは、実は人間そのものではないだろうか、ということを『人間 この未知なるもの』という本に書いていますが、ほんとうにそうなのかも知れません。
たしかに医学的、心理学的、社会学的、文化人類学的人間の研究等の結果、数多くの発見がなされ、定説もうち出されています。しかしながら、今日人間にとって必要な知識は、これら諸科学が提供する人間についての知識ではなくて、もっと血のかよった、あたたかい人間理解であるように思います。それは「人間というものは……」といった知識でなくて、今、ここにいる人間、この世の中にたった一人しかいない独自な存在としての人間についてのかかわり合いであるように思うのです。
一口に人間関係と言っても、それはいろいろな異なった文化の中に、異なった発達をとげて来ましたし、同じ日本文化の中でも、時代の変遷とともに変わって来ています。加藤秀俊教授は、お互いが血のつながり、土地のつながりを持つ、農村に根強いいわゆる血縁、地縁の人間関係から、社会がとりもつ縁としての社縁に移行しつつあることを指摘しています。それは、宿命的な縁から偶然的な縁への変化であり、一次的なものから二次的なものへの変化といってもいいでしょう。ドイツの社会学者テニエスの言葉を使えば、ゲマインシャフト(共同社会)から、ゲゼルシャフト(利益社会)への変貌ともいえます。たとえば、岡山の県庁、市役所に勤めている方は、まだほとんどが土地の方のようですが、多分、東京都庁とか、大阪府庁に勤めている方は日本の各地から来て就職していらっしゃる方が多いのではないでしょうか。