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逆境こそチャンスなり! 心を強くする名指導者の言葉
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ルポ・エッセイ
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1章 成功と失敗

『逆境こそチャンスなり! 心を強くする名指導者の言葉』
[編著]ビジネス哲学研究会 [発行]PHP研究所


読了目安時間:42分
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可能な手段だけでなく、また安易な手段や誰もが考えつく手段だけでなく、困難な手段、不可能と思われるような手段まで考えておくことだ

チャーチル
(1874〜1965)
イギリスの政治家、首相


 一八七四年、チャーチルは公爵の一族に生まれた。父は保守党の政治家で、母はアメリカの実業家の娘だった。父のすすめで陸軍士官学校に入学し、名門の第四軽騎兵(けいきへい)連隊に入隊した。

 彼は士官としてインド駐在中に、歴史を中心とする読書に打ち込んだ。これが、後年の歴史観の形成に大きく貢献した。また、すでにこの頃、新聞と特派員契約を結んで、前線からの生々しいレポートを発表し、高く評価されていた。

 一九〇〇年に保守党から下院議員に初当選。やがて自由党に移り、商務相・海相などの閣僚を歴任する。二三年に落選し、翌二四年に保守党に復帰して蔵相になるが、二九年以降は閣外に去り、ナチス・ドイツの脅威を力説した。第二次世界大戦の直前には海相となり、四一年、ついに首相に就任したのだった。

 彼は国民の士気を鼓舞(こぶ)しつつ、大戦を「ファシズムに対する自由の戦い」と位置づけた。戦時中は、官庁街の地下に設けられた戦時内閣執務室から指揮をとった。ソ連のスターリンとの提携も辞さず、アメリカのルーズベルトとともに連合国側の指導にあたり、勝利に導いたのである。

 戦勝後のポツダム会談中の総選挙に大敗すると下野(げや)したが、戦後の東西対立を見抜き、「鉄のカーテン」という新語を作って、反ソ政策とヨーロッパの統合を唱えた。五一年に政権に復帰した後、老齢を理由に引退した。

 インドでの植民地戦争、南アフリカ戦争などで発表した従軍記や伝記などで文名も高く、五三年には『第二次大戦回顧録』でノーベル文学賞を受賞した。

 いつの時代にも、リーダーには、思考の速さ、(なめ)らかさが求められる。チャーチルにはこれがあった。だからこそ、第二次大戦という重大局面において、類型的判断にとらわれず、新しい発想で難局を乗り切れたのではないだろうか。

世の中でいちばん(さび)しいことは、する仕事のないことです

福澤諭吉(ふくざわゆきち)
(1834〜1901)
慶應義塾大学創設者


 福澤諭吉は、大坂堂島浜(どうじまはま)(現在の大阪府大阪市福島区)にあった豊前(ぶぜん)中津藩の蔵屋敷で生まれた。父は下級藩士の福澤百助(ひやくすけ)で、諭吉は末っ子だった。一歳で父を失ったため、福澤家は中津へ戻り、貧しい生活を送った。

 福澤は幼い頃から勉強嫌いで有名だったが、十四、五歳になると「兄弟の中で一人だけ勉強しないというのも世間体が悪い」と急に思い立ち、漢書を読み始めた。そして、みるみる才能をあらわし、やがて長崎で蘭学(らんがく)を学び始めた。一八五八年には藩命により江戸で蘭学塾を開き、その数年後には幕府使節として三度にわたり渡米・渡欧するというとんとん拍子だった。

 福澤はこのときの体験から『西洋事情』を刊行。この本は幕末から明治にかけてのベストセラーとなり、文明開化を迎えた日本人に衝撃を与えたのである。

 西欧諸国の文化・政治を目の当たりにした福澤自身も、大きな影響を受けた。当時の幕府に幻滅すると、御暇願(おいとまねがい)を出して幕府から離れたのである。藩命で開いた蘭学塾を英学塾に改めて(しば)に移転し、慶應義塾と命名して私塾を始めた。

 明治新政府になってからも彼の政治不信は続き、仕官の依頼にも応じなかった。そして『学問のすゝめ』を刊行。個人の独立・自由・平等が国民国家を形成すると説いたこの書は、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」という言葉でも有名だ。

 福澤は、国家・国民を統率する力を失い、世界から取り残された徳川幕府に愛想(あいそう)を尽かして野に下った。しかし、そこでただ手をこまぬいているわけではなかった。自分の力でできること――すなわち、教育によって日本を変えようと決心し、慶應義塾をスタートさせたのである。

 仕事が(ひま)になると喜ぶ人がいる。しかし、やることはいくらでもあるはずだ。自分自身のため、会社のため、さらには社会のためになることは山ほどある。暇を喜ぶのではなく、「やることがないことは寂しい」と福澤のように考えるのが、本当のプロフェッショナルではないか。

偶然は、準備のできていない人を助けない

パスツール
(1822〜1895)
フランスの化学者、細菌学者


 パスツールはパリのエコール=ノルマル(高等師範学校)に学び、ディジョンの中学教師を経て、一八四九年にストラスブール大学教授となる。その後、リール大学教授兼学長、パリ大学教授などを歴任。最初は酒石酸(しゆせきさん)の研究から分子内の原子配列の問題におよび、ついで醗酵(はつこう)の研究で乳酸菌や酪酸菌(らくさんきん)を発見、また長く論争が繰り返されていた微生物の「自然発生説」を実験によって否定した。

 リール大学の頃、葡萄酒(ぶどうしゆ)醸造業者に依頼されて葡萄酒の酸による腐敗を防ぐ方法を研究。のちに低温殺菌法を考案し、フランスの葡萄酒製造量は急増した。ついで(かいこ)の伝染病を研究して、フランスの養蚕(ようさん)業の危機を救った。

 さらにコレラの予防で、ワクチン接種による伝染病予防法の一般化に成功。そして、最大の業績は、狂犬病ワクチンの製造と人体への応用の成功である。晩年には、国民からの拠出金によってパスツール研究所が作られ、その所長に()されたのである。

 よく「おまえは運がいい」とか、「自分はついていない」などと、すべての結果を“偶然”に結びつけたがる人がいるものである。しかし、そういう人に限って、普段からの努力を惜しんではいないだろうか。

 たとえば、打ち合わせで相手に聞かれたことが、偶然、前日に読んでいた本の内容とぴったり同じだった。おかげで、自信をもって答えることができ、交渉がうまくいったなどということがある。

 これは単なる偶然が成功させたのではなく、日頃の観察力や読書、これまでに積み重ねてきたものが結果となってあらわれたためだろう。“偶然のチャンス”を受け止める準備が整っていたということである。

 あまり努力もせずに、成功者の姿をうらやんでいるのは、練習もせずに本番で勝とうと考えているのと同じくらい愚かではないだろうか。パスツールの言葉は、日常の絶え間ない努力があればこそ、偶然のチャンスをつかまえることができると教えている。

書物にとらわれず独創的戦術を研究せよ

小沢治三郎(おざわじさぶろう)
(1886〜1966)
海軍中将、連合艦隊司令長官


 一八八六年、小沢治三郎は宮崎県の高鍋(たかなべ)町に生まれた。海軍兵学校を卒業すると、砲戦より雷撃を重視して、水雷(すいらい)畑への道を選ぶ。しかし、水雷学校の教官時代には日本海軍の「決戦主義」に疑問を抱き、生徒に「海戦要務令」を読むなと語っていたのである。

 一九四二年十一月、小沢が空母部隊を引き継いだときには、かつての大航空艦隊の力は失われていた。一九四四年六月のマリアナ沖海戦においては勝利を確信していたが、予想外の惨敗を(きつ)してしまう。その後、小沢は辞表を提出するが、受け入れられずにレイテ沖海戦に出撃する。

 このレイテ沖海戦において与えられた任務は、敵の機動部隊を引きつけ、日本艦隊本隊をレイテ湾に突入させるという(おとり)役だった。彼はこの任務を見事に果たしたが、本隊はレイテ湾に突入せず、作戦は成果をあげずに終わったのである。

 その後、連合艦隊司令長官になったときには、すでに主力艦を失っていた。
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