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ロシアから来たエース
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ルポ・エッセイ
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第六章 迫害の日々

『ロシアから来たエース』
[著]ナターシャ・スタルヒン [発行]PHP研究所


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満州遠征


 素晴らしい成績にMVP、また、最高の花嫁までをも手に入れたスタルヒンにとって、昭和一四年はまさにバラ色の年であった。

 しかしその一方、時代は急速に暗黒の世界へと突入、プロ野球にも暗雲の影が落ち始めていた。

 日華事変が泥沼化している昭和一四年、ノモンハンで日本とソ連が衝突し、秋にはドイツがポーランドに侵攻、英、仏がドイツに宣戦布告して、第二次大戦勃発、日本は一応、欧州の戦争には介入しないという声明を出したものの、陸軍切望の“八紘一宇”が唱えられだしており、やがて日本が巻き込まれていくのは時間の問題のようであった。“国家総動員法”も二年目、物価統制令が実施されたり、“節約の日々”の声が高まるなか、軍需産業部門の大拡張がすすみ、戦力の充実を目標にかかげ、大車輪の活動をつづけた。
“白紙召集”を受けた人々が軍需工場など重要産業に、本人の適性、収入、住居の条件などはまったく顧みられずに、安い賃金で強制的に従事させられるようになってきた。また、九月一日より、毎月一日が、“興亜奉公日”とされ、全国民がその日は一汁一菜、禁酒禁煙で勤労奉仕をし、料理飲食店での飲酒が禁じられ、料理店、喫茶店なども休業になった。

 国民の耐乏生活は、日に日に深刻となっていた。一一月になると政府は、軍用米の確保のため、白米の精米を禁止。七分づき以上の精米が禁止されて、食用米は黒くなり、東京では正月を黒い餅で迎えなければならない状況となっていった。国民にとって戦争は他人事ではすまなくなった。選手たちの中にも、野球に命を賭けているはずなのに、「もう、野球などやっていられないな」と思い始めた者たちもいた。敢闘精神がいくらあろうとも、それだけではどうにもならない事態になりつつあったのだ。

 マニラで昭和一五年の正月を迎えた巨人軍は、夏の後半になると、この年二回目の海外遠征を行なうことになった。それも、全九球団そろっての遠征 ―― 夏期リーグ戦を、そっくり満州へもっていってしまうという、大規模な満州遠征である。このように全球団が外地に遠征して公式戦をやることになったのはプロ野球結成以来、初めてのことであった。

 七月二六日、全球団は神戸埠頭に集合、吉林丸に乗船して大連に向かった。三日間の船旅の末、到着した大連からは、夏の公式戦の火ぶたを切る奉天まで、長時間の列車の旅がつづいた。

 七月三〇日、奉天の満鉄球場を皮切りに、八月二三日までの約一カ月間、選手は強行スケジュールをこなし、奉天、新京、大連、鞍山、吉林、撫順などの各地を転戦、各チームそれぞれ一六ゲームを行なった。

 この満州での夏期戦でも巨人が首位にたち、スタルヒンが優秀投手賞、巨人の吉原正喜捕手が最高守備賞に選ばれた。首位打者はライオンの鬼頭数雄と川上哲治との争いになったが、前年首位打者の川上が、この夏のリーグ戦でもトップに立った。

 満州遠征は大成功をおさめた。各地とも大盛況、選手たちの歓迎も大変なもので、強行軍の辛さも半減されていた。遠征の成功、そして優秀投手賞というタイトル取得の華々しさとは対照的にスタルヒンの心は、どうしようもない寂寥感に支配されていた。

 この満州遠征でも、スタルヒンは無国籍であることで身を切られるような苦しみに耐えなければならなかった。国籍がないということが、どれだけ不利なことかを、彼はいやというほど味わわされた。

 奉天での試合を終えた一行は次の試合地、新京へと向かった。彼らを乗せたアジア特急の中でその事件は起こった。

 選手たちは旅で疲れた体を休める間もなく、試合を続けており、列車の中こそ休憩場とばかりに、ほとんどの選手たちがうつらうつらしていた。窓側に座っていたスタルヒンはボンヤリと外を眺めていた。次から次へと続く変わりばえのしない景色を見ているというよりも、ただなんとなく、他に目をやる場もないので仕方なしにそちら側に目をやっているという程度だった。普段なら、移動のときはふざけあったり、カードをやったり、騒がしい車内も、この日は全員くたびれ果てていたのか、話し声もほとんど聞こえてはこなかった。
「おい、そこの外人」

 ふいに声をかけられ、ハッとして声のほうへ顔を向けると、厳しい顔つきをした憲兵が二人、通路に立っていた。

 スタルヒンはあわてて、自分の持っているナンセン・パス、そして日本出入国に際して必要な警察の証明書を差し出した。

 偉そうなほうの一人がそれらを取ると、注意深く点検しはじめた。

 スタルヒンは、心配気に憲兵の手元を見つめていた。
「書類はこれだけか?」
「ええ、そうです、ほかに何か……」
「次の駅で降りてもらおう。そのまえにちょっとこい」

 というと、もう一人の憲兵に顔で合図をした。その男は、彼よりも大きな男の腕をかかえあげた。

 別の車両に連れていかれるスタルヒンの背中には冷たい銃口が突き付けられていた。

 事態を他の選手から聞きつけた野口務は、青くなってスタルヒンの連れていかれた後を追った。スタルヒンに銃を突き付けて座っている憲兵を見つけると、野口はその理由を聞いた。
「ビザがない。次の駅で強制下車させる」

 冷たい言葉が返ってきた。
『国籍がどうしても欲しい』そんな叫びを繰り返したところで、スタルヒンには所詮、かなえてもらえるものではなかった。
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