―― 常識の虜から脱すること ――
◆「倩女離魂」の公案
禅の話に行ったものだから、もう少し禅の話をつづける。
じつは、わたしの念頭には、わが国曹洞宗の開祖の道元のことばがある。「真実の自己」といったことを書きはじめると、道元の『正法眼蔵』の「現成公案」の巻のことばがすぐに頭に浮かんでくる。
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり」
――仏道の修行というものは、自己を学ぶことだ。自己を学ぶというのは、自己を忘れることだ。自己を忘れるというのは、宇宙の真理と一つになることである――
道元は、自分を発見することは自分を忘れることだ――といったパラドックス(逆説)を語っている。しかし、この道元のことばについては、もう少しあとで考えよう。いきなりここからはじめたのでは、むずかしすぎる。
わたしがここでとりあげたいのは、『無門関』第三十五則にある「倩女離魂」の公案である。『無門関』というのは、中国宋の時代につくられた禅の公案集である。公案というのは、禅の世界における一種の試験問題だと思っていい。その第三十五則は次のような問題である。
「五祖、僧に問うて云く、『倩女離魂、那箇か是れ真底』」
――唐代の禅僧の五祖法演は、僧に問題を出された。「倩女の魂が抜け出てしまった。どちらが本物か?」――
これだけじゃ、いったい何の話か、さっぱりわからない。
じつは、当時(というのは五祖法演の時代であるが)、倩女に関する怪談噺があった。それを五祖法演は使っているのだ。したがって、この怪談噺を知らなければ、この公案はわかりっこないのである。
倩女というのは、張家の一人娘である。いや、彼女には姉がいたが、姉は早くに死んだので、一人娘として大事に育てられた。
この倩女に、王宙といういとこがいた。なかなかの好青年であった。
二人がまだ子どものころ、倩女の父親が戯れに、
「倩女と王宙は似合いのカップルである。二人を結婚させるといい夫婦になるだろう……」
と言った。ま、われわれだって、こういうことはときどき言う。別段、本気ではない。かといって、まるっきりでたらめでもない。二人を結婚させてみようか……といった気もある。