――「仏下駄主義」で生きる ――
◆「信仰」は掛け持ち可能
「信仰」と「信心」は違う。
もっとも、日本語において、この二つのことばがそうはっきりと区別されているわけではない。たとえば、『大辞林』(三省堂)は、
「しんこう〔信仰〕……〔古くは「しんごう」とも〕

神仏などを信じ
崇めること。経験や知識を超えた存在を信頼し、自己をゆだねる自覚的な態度をいう。

人を信じうやまうこと」
「しんじん〔信心〕……神仏を信ずること。神仏を信ずる心」
と解説している。これでは二つの語の違いが明瞭にならない。それはつまり、世間一般では“信仰”と“信心”をほとんど同じ意味のことばに使っているわけだ。
したがって、“信仰”と“信心”を区別しようとするのは、これはわたしの考え方である。わたしはこの二つのことばを、明確に区別して使いたいのである。
では、どう区別するか……?
「信仰」というものは、こういうものだと思う。たとえば、病気になる。病気になった人が、その病気を治してくださいと神仏に祈る。そして、病気が治ったので、ますますその神仏を信ずるのが信仰である。
でも、病気が治らなければどうなるか……? たぶんその人は、別の神仏を信じはじめるだろう。自分の病気を治してくれる神仏がきっとあるにちがいないと信じて、あちこちの教団の門を叩く。それが信仰である。
お気づきのように、この種の信者はご利益を求めているのである。
したがって、「信仰」というものは、まあだいたいにおいて、
――ご利益信仰――
だと思えばよろしい。わたしは、信仰をそのようなものだと定義したいのである。
もちろん、ご利益は病気が治ることだけではない。金儲けのご利益もあるし、大学受験に合格するといったご利益もある。ある新興宗教に入信すれば、人間関係のトラブル(主として嫁と姑の対立)が解消されるというのも、人々を惹き付けるご利益である。
現在、日本では、文化庁が信者人口の統計をとっている。各教団が報告してくる信者数を、少し修正して集計している。それによると、日本の宗教教団の信者総数は軽く二億人を超えるのである。
日本の人口は一億二千万人だ。宗教の信者ということになれば、信者になれる人口は一億人くらいであろう。そうすると、二倍の信者数である。
ということは、一人の人間が二つも三つもの神仏を信じていることになる。無宗教の人もいるから(多いから)、この掛け持ち率はますます高くなる。
これは、信者と呼ばれる人が、だいたいにおいて信仰――ご利益信仰――しか持っていないからこうなるのである。つまり、信仰というものは、掛け持ちできるものである。