一八四四〜九七
陸奥宗光は紀州藩の寺社・勘定奉行の子として生まれ幼名を牛麿、のちに陽之助と称した。父・宗広は八百石取りの重役で経済官僚として紀州藩の財政立て直しに大きな役割を果した。宗光はこの後妻の子で家庭的にはめぐまれない幼少時代を過し十四歳の春に家出して江戸に出て儒者・安井息軒の門人になった。このころはまだ体が丈夫でなかったため武術よりも学問を選んだのだ。宗光は門人中最年少だったが議論、討論となると鋭く論断を下して負けることがなかったという。
十六歳くらいから女遊びをおぼえて家庭教師、筆耕などで稼いだ金はすべて吉原につぎこんだ。