先憂後楽 ―― 日本に繁栄をもたらした精神
「先憂後楽」という四字句を時おり新聞や雑誌などで見かけるが、このことばには、もともと二つの意味がある。
まず、第一の意味。『大戴礼』という古典に、こうある。
「先ず事を憂うる者は後事を楽しみ、先ず事を楽しむ者は後事を憂う」
また、『説苑』という古典には、
「先ず事を憂うる者は
後楽しみ、先ず事を

しむ者は後憂う」
とある。
字句に若干のちがいはあるが、言わんとしていることは同じである。要するに、まず汗を流し、あとでゆっくり楽しめ、ということであるにちがいない。
私は、そちこちの企業の管理職研修に招かれていく。ひととおり話しおえて懇談となるのであるが、出席者の皆さんと話していると、その会社の社風といったものが感じとられて、かえって教えられることが多い。
たとえば、日立製作所である。さすがに伝統のある企業だけに人材の層が厚そうな印象であるが、この会社には先輩たちからの言いつたえとして、この「先憂後楽」ということばが今言ったような意味で語りつがれているのだという。
日立だけではない。私どもの先輩たちは、おおむねこのような気持ちで営々と努力を積みかさねてきた。その結果として、今日の繁栄があることを忘れてはならない。
今はどうか。それ遊べ、やれ楽しめと、やたら遊びや楽しむことだけが奨励されている。たしかに、遊ぶことや楽しむことも必要である。楽しみなくて、なんの人生ぞや、だ。遊ぶときには、大いに遊んだらよい。
とくに私ども日本人は働きすぎだという。余計なお節介だという気がしないでもないが、しかし、そんな傾向のあったことは認めざるをえないだろう。失われたバランスを回復するためにも、遊びや楽しみの効用がもっと見なおされてよいのかもしれない。これは、外国の連中に批判されたからそうするということではなく、私ども自身の問題である。
しかし、遊べ、楽しめとそっちのほうばかり強調されるようになると、こんどはまた別の心配が生じてくる。遊ぶためには、一応、生活や経営の基盤がしっかりしていなければならない。そういう条件を無視して遊びや楽しみのほうにばかり気をとられていたのでは、たちまち破綻を生ずるであろう。一億遊びボケになったのでは、遅かれ早かれ、国の経済も失速を免れない。
いつか結婚したての若い女性が新聞にこんな投書をしていた。
「お年寄りはレストランでおいしいものを食べたり、外国旅行に行ったりしている。私たちも大いに生活をエンジョイしたいのだが、お金がなくてそれができない。私たちにだって、人生を楽しむ権利がある。今の世の中、どこかおかしいのではないかしら」
なるほど、今の日本で、一応経済的な余裕があって人生を楽しんでいるのは、お年寄りの人たちかもしれない。だが、そういう皆さんにしても、「先憂」があったからこそ、現在の「後楽」があるはずである。若い人たちが、その「先憂」の部分に目をつぶって「後楽」だけ欲しがるのは、これはもはや、甘ったれとしか言いようがない。
さて、「先憂後楽」の二番目の意味は、「後楽園球場」とも関係してくるのであるが、こちらのほうは、つぎのことばが出典になっている。
「天下の憂えに先んじて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ」
これは、宋代の范仲淹という政治家がものした『岳陽楼の記』という文章に出てくるのである。岳陽楼というのは、洞庭湖を臨む名勝の地に建っている楼で、今でも残っている。
かつて范仲淹はここに遊んだとき、みずからの心境と抱負を一篇の文章にまとめた。それが『岳陽楼の記』である。
この場合の「先憂後楽」は、言うまでもなく、天下の問題で、心を痛めることはまっ先に心を痛め、楽しみごとは一般の人よりもおくれて楽しむという意味である。為政者というかエリートというか、上に立つ者の心構えについて語ったことばにほかならない。
范仲淹という政治家は、それを口で語るだけでなく、みずから実践した人物として知られている。
東京の小石川後楽園にしても、岡山の後楽園にしても、江戸時代に造成されたものであるが、その命名は范仲淹のこのことばから借りたものであることは言うまでもない。当時の日本の為政者たちも、范仲淹の志に見習おうとしたものであろう。
その点、現代の政治家はどうなのか。
歴史上の第一級の政治家たちに比べて、今の政治家はダメだ、などとこきおろすつもりは毛頭ない。だが、今の政治家たち、総じて物欲しげな顔ばかり目立つのは、どうしたことであろうか。
近ごろ評判になっている阿川弘之さんの『国を思うて何が悪い』(光文社)を読んでいたら、つぎのような一節にぶつかった。
「とにかく、自民党に投票しているくせに、自民党出の歴代首相の風貌姿勢、総じて気に入らない。『廟堂ノ高キニ居リテハ則チソノ民ヲ憂エ』と言うが、国の将来を憂い、国事に奔命するんだという強い責任感、そこから滲み出てくる気品のようなものが感じられないからいやなんです」
阿川さんの尻馬に乗るわけではないが、たしかにそんな気がしてならない。
ちなみに、ここで引かれているカタカナのことばは、さきほど紹介した范仲淹の『岳陽楼の記』に出てくるのである。このなかでかれは、すぐれた先輩政治家たちの心事を思いやって、こう記している。
「廟堂の高きに居りては則ちその民を憂え、江湖の遠きに処りては則ちその君を憂う。これ進むもまた憂え、退くもまた憂うるなり。然らば則ち何れの時にか楽しまんや。それ必ず天下の憂えに先んじて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむと曰わんか」
すぐれた先輩たちはみな「先憂後楽」の志をいだいて政治にあたった。及ばずながら私もまたそれを見習いたいと、范仲淹はこの文章のなかで、みずからの決意を表明しているのである。
「合従連衡」もいい、「権謀術数」もわるくはない。それらに熟達することも、政治家としての大事な条件であろう。また、百歩譲って、政治がらみの資産形成も、度を越さない程度なら、よしとしよう。
だが、肝心の志だけは失ってほしくないものだ。志とは「先憂後楽」である。これが、いつの時代であろうと、政治家の原点になるのではないか。
政治家だけではない。各界のリーダーすべてについて、これが望まれるのである。そうでないと、リーダーとしての説得力が出てこない。
合従連衡 ―― 厳しい環境の中で生き残る知恵
政局の動向とからんで、「合従連衡」の四字句がしきりに新聞の紙面をにぎわしている。おかげでこの耳なれないことばも、一応は理解が得られるようになったのではないか。
だが、少なくとも数年まえまでは、けっしてそうではなかった。
十年ほどまえのことだが、新しく書いた本に、「合従連衡の人間学」というタイトルをつけようと考えた。年配の編集者はそれで納得してくれたのだが、社へ帰って、編集部内の若手の意見を求めたところ、一人としてこの四字句を知っている者がいないという。それで肝心の編集部がブルってしまい、やむなく私もこのタイトルを断念したことがあった。それほど当時は、まだ耳なれないことばだったのである。
しかし、耳なれてきたといっても、このことばの意味を正確に把握している人は、まだ少ないかもしれない。このことばはもともと、今から二千数百年まえ、中国の戦国時代に行われた外交合戦を指しているのであるが、それをもう少しくわしく理解するためには、当時の時代背景を頭に入れておく必要がある。
中国の戦国時代というのは、秦の始皇帝が天下を統一するまえの、およそ百八十年間をいう。七つの強国による生き残りの競争が熾烈に展開された時代であった。生き残るためには、当然、国力を充実し軍事力を強化しなければならない。こうして、一進一退の攻防が繰り返されたのであるが、戦国時代も後半にはいるころから、ようやく情勢に変化が見えてくる。すなわち、七つの強国のなかで、秦という国がじわじわと力をつけて台頭してきたのである。
秦は、今の西安のあたりにあった国で、いわば中国の西のはずれのほうに位置しており、戦国時代の初めには、典型的な後進国だった。そんな国がどうして台頭してきたのか。
一つには、「商君の変法」と呼ばれる体制内改革を行って、強力な中央集権体制を布くことに成功したからである。これで、富国強兵の実をあげ、めきめきと国力を増大させることができた。もう一つは、西のはずれにあった国だから、国民は文明の毒に汚染されていなかった。もともと質朴剛健の気風が強く、したがって兵も強かった。「商君の変法」によって、その潜在力が一気に花開いたのである。
さて、秦の台頭は、他の六か国にとって、重大な脅威とならざるをえない。とくに、秦と隣合わせに位置し、直接その重圧を受ける韓、魏、趙の三か国にとっては、国の存亡をかける大問題であった。
なにしろ秦は強大である。単独ではこれに対抗できない。こうして考え出されたのが、「合従」という外交戦略である。合従というのは、劣勢に立たされた燕、韓、魏、趙、斉、楚の六か国が従(縦)に同盟して秦に対抗することをいう。「従」とは、この六か国が北から南へ、ほぼ縦の形に位置していたからである。いわば、「合従」とは、大企業に対抗するために考え出された中小企業連合のようなものだった。
もちろん、そんな動きを、秦も指をくわえて眺めていたわけではない。手をかえ品をかえて合従の切りくずしをはかるとともに、韓なら韓、魏なら魏と、それぞれに同盟を結んでこれに対抗しようとした。この同盟関係を「連衡」という。合従の「従」に対して、連衡とは「衡(横)」に連なることで、たとえて言えば、大企業がその傘の下に中小企業を一つ一つだきこんでいく戦略である。
こうして、戦国時代も後半にはいるころから、秦の優位を背景に、昨日は合従、今日は連衡、そして、その逆もあるといった変転ただならぬ外交的局面が生まれるにいたった。
むろん、戦国時代であるから、武力による生き残りの戦いも激しかった。毎年どこかで、戦いのない日はなかったと言ってよい。
だが中国人はむかしから、「戦わずして勝つ」ことを、もっとも理想的な勝ち方であるとみなしてきた。たとえば『孫子』の兵法である。
「百戦百勝は善の善なるものにあらず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」
武力に訴えれば、どんなにうまく戦っても、損害を免れない。それでは、かりに勝ったとしても、あまり誉められた勝ち方とは言えない。へたをすると、国力を消耗し、国の滅亡さえ招く。これが『孫子』だけではなく、中国人全体の認識であった。
では、「戦わずして勝つ」には、どうすればよいのか。たとえば、外交交渉である。これで相手の意図を封じこめてしまう。これなら、武力に訴えなくても、立派に目的を達することができる。中国人によれば、こういう勝ち方こそ理想の勝ち方なのだという。
この考え方に立てば、当然、外交交渉に力を入れざるをえない。たとえば、『管子』という古典も、つぎのように語っている。
「一面から見ると、国の強弱は、他の国と連合するか孤立するかによって決定される。他の国々と連合すれば強くなり、孤立すれば弱くなる。千里を走る名馬でも、百頭の馬がつぎつぎに対抗してきたら、とてもかなわない。それと同様に、不敗を誇る強国でも、他の国々が一団となってぶつかれば、必ず打ち倒せるのだ。したがって君主は、自国の置かれている情況をよく認識し、それに応じた外交を展開する必要がある」
中国の戦国時代は、激しい武力抗争と同時に、こういう外交交渉が活発に行われた時代でもある。その土壌の上に花開いたのが、「合従連衡」という外交戦略だった。
「合従連衡」とは、もともと、秦という強国を軸として考えだされた外交戦略の総称であったが、一般化して言えば、どこと手を結んでどこと対抗するかという駆け引きにほかならない。したがって、この戦略は、国同士の外交関係ばかりでなく、幾つもの集団が多極構造を形成して対立している局面では、つねに有効である。
むろん、自民党内の派閥の連合についてもあてはまるし、企業の生き残り戦略としても活用することができる。現代のようなきびしい環境のなかを生き残るためには、みずからの体質の強化をはかることはもちろんであるが、それと同時に「合従連衡」の戦略に熱達しておかなければならない。
私ども日本人は、駆け引きなどというと、なにかきたないものを見るような感じで、忌み嫌う傾向がある。たしかに、駆け引きを使いすぎると、ブーメランのようにはね返ってきて、自分を傷つける恐れがないでもない。だが、駆け引きの基本ぐらいマスターしておかないと、きびしい現実を生き残れないことも事実なのである。
「合従連衡」の出典は、『戦国策』という古典である。この本には、中国流交渉術のテクニックが、さまざまな角度から解きあかされている。少なくとも、『戦国策』ぐらいは読んでおく必要があるかもしれない。