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中国古典の人生学
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ルポ・エッセイ
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第三章 殷鑑遠からず

『中国古典の人生学』
[著]守屋洋 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間7分
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和気致祥(わきちしよう) ―― 幸せを呼びこめる人とは


 わが家の遅咲きの梅も、どうやら満開になったようだ。季節は一進一退を繰り返しながら、春に向かっている。

 三月の初め、山形へ行ってきた。松戸の家を出たときはめっきりと春めいた陽気だったのに、山形へはいると、さすが雪国というべきか、横なぐりに雪が吹きつけて、一面の銀世界である。私は根が北国の生まれなので、雪を見ただけで血が騒ぐ。車窓から一時間ばかり、あかずに雪景色を堪能してきた。

 だが、よく見ると、降りつもる雪のなかでも、小川はさらさらと流れているではないか。雪の下の水たまりも、凍ってはいない。雪国にも、春はもうすぐそこまで来ているようだ。

 春の喜びというのは、北国で育った人間でないと、もうひとつピンとこないかもしれない。凍りついていた大地が、春の足音とともに、じんわりとゆるんでくる。それとともに、今まで縮こまっていた体や心まで伸びやかになっていく。あの感じは、体験した者でないとわからない。

 その春がもうすぐやってくる。北国の皆さん、春は近いですよ。

 というわけで、ここでは春にちなんでおめでたいことばをとりあげてみた。

 このことばは、『漢書(かんじよ)』という古典に、「和気致祥、乖気(かいき)致異」とあるのが出典である。漢文で読めば、
「和気は祥を致し、乖気は異を致す」

 となる。

 むかし中国では、自然界であろうと人間界であろうと、陰と陽のバランスの上になりたっていると考えた。両者のバランスがうまくとれた状態が「和気」、バランスの崩れた状態が「乖気」である。「祥」は幸せ、「異」は天変地異といった意味であろう。
「和気」とは、バランスのとれた状態であるから、なごやかとおだやか、あるいは、ぽかぽかした暖かさといったイメージに結びつく。それが「祥を致す」、つまり、幸せを呼びこんでくるというのは、なんとなくわかるような気がするではないか。

 これは、自然界だけではなく、人間界に対しても、たぶんそのまま当てはまるであろう。
『菜根譚』に、こんなことばがある。
「疾風怒雨には、禽鳥(きんちよう)戚戚(せきせき)たり。霽日(せいじつ)光風には、草木も欣欣(きんきん)たり。見るべし、天地は一日も和気なかるべからず、人心は一日も喜神(きしん)なかるべからず」

 訳せば、つぎのようになる。
「激しい雨や風に襲われれば、鳥までふるえあがる。これに対し、晴れたおだやかな日和(ひより)に恵まれれば、草木まで喜びにあふれる。これで明らかなように、天地には一日として和気が欠かせず、人の心にも一日として喜びが欠かせないのである」

 また、『小学』という古典には、
「和気ある者は必ず愉色(ゆしよく)あり。愉色ある者は必ず婉容(えんよう)あり」

 とある。
「愉色」とは、よろこばしそうな顔色。「婉容」とは、おだやかな態度である。

 そして、もうひとつ『菜根譚』のことばを引けば、こうである。
「心和し気平らかなる者は、百福(おのず)から集まる」
「和気」のある人間というのは、それがおのずからおだやかな感じとなって顔や態度ににじみ出てくる。そういうおだやかさが、まわりの人々の心をひきつけ、百福を招き寄せるということであろうか。

 してみると、この「和気」というのも、社会人にとっては大事な条件になるのかもしれない。

 それは、逆のケースを考えてみると、よくわかる。心の冷たい人は、その冷たさがおのずから顔や態度に現れてくる。そうなると、まわりに人も集まってこないし、したがって、なまの情報もはいってこない。これではやはり社会人として具合がわるいだろう。

 また、陰気な顔や暗い表情をしている人をよく見かける。これもまた心のバランスが崩れているのであろうが、暗い顔ばかりしていると、せっかくの福まで逃げ出していってしまう。福をつかむためにも、「和気」がほしいところである。

 だからといって、心が冷たかったり暗かったりしているのに、「和気」だけを出そうとしても無理がある。かりに出したところで、長続きはしない。そんなものには福の神だってだまされはしないだろう。

 ところで、自然界の「和気」は陰陽のバランスがよろしきをうるところから生まれるといった。では、人間の「和気」はどういうところから生まれてくるのだろうか。

 まず考えられるのは、人柄とか性格、あるいは育ちのよさである。そういう条件に恵まれて、見るからにおっとりとしている人がいる。こういうタイプが身につけている雰囲気も、一種の「和気」にはちがいない。だが、これは「和気」は「和気」でも、まだレベルの低い「和気」である。意地のわるい言い方をすれば、ただのお人よしと紙一重と言えないこともない。

 人間にはまた陽性のタイプというのがある。

 私ども文筆稼業には、どちらかというと、陰性なタイプが多い。こんな原稿をうんうん言いながら書かされていると、どうしてもそうならざるをえない面がある。

 ところが、そんな世界に住んでいて、たまにトップレベルの経営者に会ったりすると、これがまた陽性なタイプが多いのに驚かされる。組織の責任者というのは陽性なタイプでないと、つとまらないのかもしれない。

 この陽性なタイプというのは、陰性の人間よりも明らかに「和気」に近い。だが、陽性がすなわち「和気」なのかといえば、これがまたちがうように思われる。

 私のイメージにある「和気」というのは、こういうタイプの人間である。

 おだやかな風貌をしているが、話を聞いてみると、けっこう人生の辛酸をなめてきている。だが、苦労のあとをどこにもとどめていない。けっして暗くはないのだが、かといって、ことさら陽気にはしゃぐわけでもない。自分の人生をぐちることもないし、自慢することもない。格別肩肘張っているわけではないが、といって卑屈になっているわけでもない。たんたんと社会人としての責任を果たしている。こういう人たちのかもし出している雰囲気が、ほんものの「和気」に近いのではないか。できたら、私もそんな人間になりたい。

 同じように辛酸をなめてきた人でも、いかにも私は苦労してきましたと、苦労のあとを顔に刻みこんでいる人がいる。そういう人は、おのずから表情も暗い。とくにそういうお年寄りを見ていると、明日のわが身を思って、見ているこちらまで辛くなってくる。きびしい言い方をすればそういう人は苦労に負けているのである。

 その点、苦労を「和気」のなかに包みこんでいる人は、自分に「祥」を呼びこんでくるばかりか、まわりの人の心までなごませてくれる。それだけでも存在する意味があろうというものだ。

 むろん、「和気」がほしいといっても、ニコニコ笑っていればそれでよいというものでもない。そのなかに包みこまれているものが大切なのである。


物極則反(ぶつきよくそくはん) ―― 「頂点」のもつ二つの意味


 いま、日本が面白い、という人がいる。苦労されている方から見ると、いささか不謹慎(ふきんしん)のそしりを免れないが、たしかにそんな面がないでもない。

 現に「円高だ、大変だ」といわれながら、この国の経済はどっこい土俵際にふみとどまっている。業界によっては、思わぬ好調に笑いのとまらないところもあるのだという。

 その活力たるや、並々のものではない。

 いったいこの国は、このままゆるやかな上昇を続けながら、二十一世紀を迎えることができるのだろうか。それとも、このあたりがピークで、あとはずるずると後退していくのであろうか。あるいはまた、思わぬ陥穽(かんせい)にはまりこんで、がくっと失速するような事態がありうるのだろうか。

 歴史という大きな流れのなかでそんなことを考えてみると、たしかに興味津津(しんしん)たるものがある。

 だが、それを言うなら、面白いのはなにも日本だけではない。いま、世界が面白いのである。

 たとえば、アメリカである。二十世紀をリードしてきたアメリカが、このままずるずると沈んでいくのか。二十一世紀を迎えても、なお横綱相撲をとり続けることができるのか。

 あるいは、ソ連である。ゴルバチョフのペレストロイカなる体制内改革がはたして成功するのか。もし失敗したらどうなるのか。経済面を沈滞させたまま、どこまで軍事大国の道を走り続けることができるのか。

 いずれも予断を許さない。

 また、同じような意味で、中国も面白い。「現代化」と呼ばれる開放政策がこれからどんな展開を見せるのか。あの国はどんなかたちで現代化されるのか。これまた目が離せないのである。

 ただ、私は中国の先行きについては、かなり楽観的である。なにしろ、あの国の経済や生活のレベルはまだ低い。登山にたとえれば、二合目あたりをうろうろしている段階である。いまが低いレベルなので、どう転んでもこれ以上悪くなりようがないのだ。かりに、へたな政策運営をしても、曲折はあるかもしれないが、じわじわと国力を伸ばしていくだろう。

 ひところ、いずれまた文化大革命のような政治的変動がおこるのではないか、と心配する人がいた。いまもまだそういう危惧(きぐ)をいだいている人がいるかもしれない。だが、そういう事態は九割方ないだろうと、私は見ている。

 なぜなら、国民の大多数がそういう政治的変動を望んでいないからである。中国の国民がいまいちばん望んでいるのは、生活の向上である。「なんとかもう少しましな生活をしたい」、これが国民の願いであると言ってよい。

 そういう国民の願いに逆行するような政権は、中国といえども、もはや成り立たない。かりにイデオロギーにこり固まった指導者が出てきて、「革命だ」と叫んだところで、国民にそっぽを向かれるのがオチである。だから、どんな政権になっても、政権を維持しようとすれば、いま行っている経済優先の開放政策を進めざるをえないのだ。

 私は、少なくとも毎年一回は中国へ出かけていく。今年も三回ほど予定しているが、行くたびに感じさせられるのは、変化の激しさである。変わっているのは、北京や上海のような大都会だけではない。末端の地方都市まで、どんどん変わっている。前の年行ったときにはホテルもなかったような町に新しいホテルが建っている、メーンストリートも面目を一新している。

 近ごろ、社会主義というと悪口ばかり言われるが、いい面もないではない。たとえば、土地問題である。これがほとんど国有や公有だから、収用に手間ひまがかからない。だから、市街地のまんなかに道を通すにしても、短時間でできるのである。

 とにかく、いま中国は混沌たる熱気と活力に支えられて、急速に変わりつつある。この変化の波は、時に行きつもどりつしながらも、二十世紀をつき抜けて二十一世紀まで持続するであろう。

 この先、あの国はどう変わっていくのか。見物させてもらう立場からいうとまことに面白い。

 その点、「いま、日本が面白い」というのは、明らかに中国とはちがった意味であろう。中国は、二合目あたりをうろうろしていると言ったが、そういう言い方をすると、日本はすでに八合目あたりまで来てしまった感がある。なかには、「いや、すでに頂上まで登りつめてしまった」という人もいないではない。いずれにせよ、くらくら目まいのおこりそうな高さである。

 さて、この先どうなるのか。
「物極則反」という四字句がある。漢文で読み下せば、「物極まれば則ち(かえ)る」である。類似のことばがそちこちに出ているが、ここでは『呻吟語(しんぎんご)』という古典を出典としてあげておく。
『呻吟語』は、つぎのように語っている。
「物極まれば則ち(かえ)り、極まらざれば則ち反らざるなり。故に愚者はただその極まるを楽しみ、智者は先ずその反らんことを(おそ)る。然れば則ち()は極まるに害あらず、(たい)極まるはそれ(おそ)るべきかな」

 わかりやすく訳してみると、つぎのようになる。
「ものごとは極点にまで達すると、必ず反動が起こる。そこまで達しないと、反動は起こらない。愚者は、極点に達したことを喜ぶが、智者はむしろその反動を恐れる。したがって、天下の乱れが極点に達するのは好ましいことである。泰平が極点に達した状態こそ、むしろ恐るべきなのかもしれない」
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