舌先三寸
「合従連衡」ということばも、政局の流動化とともに、すっかりお馴染みになった感がある。もともとは、中国の戦国時代に展開された外交戦略から生まれたことばである。
中国の戦国時代は、前二二一年、秦の始皇帝による全土の統一によって終止符が打たれるのであるが、それまでの百八十年間、秦をはじめとする七つの雄国が生き残りの競争に鎬を削った。
そういうなかから生まれてきたのが、「合従連衡」という戦略である。
「合従」とは、他の六カ国あるいは複数の国が連合して秦に対抗する戦略。いわば大企業に対する中小企業連合と言ってよい。これに対し「連衡」とは、他の六カ国がそれぞれに秦と手を結んで生き残りをはかる策である。
戦国時代も後半にはいると、政治、軍事の面で秦の優位が際立ってくる。そんななかでこの二つの策が火花を散らし、殺伐たる戦国時代をはなやかに彩った。
このような策を引っさげて各国のあいだを往来し、周旋の労をとったのが、「説客」または「遊説の士」と呼ばれた人々である。
ここに紹介する蘇秦もそんな「説客」の一人で、しかも「合従」策の大立者であった。
「説客」のほとんどが下層の出身であった。今までの厳しい身分制度のもとで、社会の下積みとしてくすぶっていた連中である。それが人材流動化の時代を迎えるとともに、大挙して社会の表面におどり出てきて、政治への参加を求めはじめたのである。その数は少なくとも万をもって数えたかもしれない。