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歴史人物・意外な「その後」
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歴史
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第三章 明治・大正の「その後」

『歴史人物・意外な「その後」』
[著]泉秀樹 [発行]PHP研究所


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「趣味三昧」で過ごした後半生
徳川慶喜 とくがわ よしのぶ(一八三七〜一九一三)


水戸・徳川斉昭(なりあき)の七男として生まれた徳川慶喜は十一歳で
一橋家を継ぎ、将軍後見職(しようぐんこうけんしよく)禁裏御守衛総督(きんりごしゆえいそうとく)などを歴任。
三十歳で徳川第十五代将軍となり「最後の将軍」として
大政奉還を断行した。明治維新後は駿府で隠居生活に入り
もっぱら狩猟、謡曲、囲碁など趣味の日々を送った。

三十二歳で隠居生活に入る


 徳川慶喜は天保(てんぽう)八年(一八三七)水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれ十一歳で一橋家を継いだ。ペリー来航と同時期に起こった将軍継嗣(けいし)問題では摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)、福井藩主・松平春嶽(まつだいらしゆんがく)ら一橋派におされたが井伊直弼(いいなおすけ)ら南紀派に敗北して安政の大獄では隠居・謹慎を命じられた。

 文久(ぶんきゆう)二年(一八六二)島津久光(しまづひさみつ)の上洛、江戸下向によって慶喜は将軍後見職となり、元治(げんじ)元年(一八六四)三月には禁裏御守衛総督に任じられて京都に赴き京都守護職である会津の松平容保(まつだいらかたもり)京都所司代(きようとしよしだい)である桑名の松平定敬(さだあき)の補佐を得て政治的な力をたくわえた。

 春嶽は慶喜を「ネジアゲの酒飲み」と評したがこれは「イヤ、もう結構」と盃を高くあげるが結局は「では」と酒を受けて飲み干すことである。慶喜は再三にわたって将軍就任を断り続けてみずからの値段を高くして「では」と十五代将軍になった。慶喜三十歳、慶応(けいおう)二年(一八六六)七月二十七日のことで、間もなく幕軍の装備兵(そうびへい)制をフランス式に刷新しようとしたが、体制が整う前に大政奉還を行なわなければならなかった。

 土重来(けんどちようらい)を期したものの慶応三年(一八六七)十二月九日には王政復古(おうせいふつこ)のクーデター。これはただちに鳥羽・伏見の戦いになった。慶喜はいったん大坂城に入ったがすぐ脱出し天保山(てんぽうざん)沖に投錨(とうびよう)していた榎本武揚(えのもとたけあき)がひきいる軍艦に乗って江戸へ逃げ帰った。総大将の敵前逃亡である。

 新選組の隊士・結城無二三(ゆうきむにぞう)は「あの時もし慶喜公が(中略)鳥羽・伏見であんな見苦しい振舞いをすることがなかったならば日本はもっと昔にもっとよい政治を布き、もっとよい文化を得ることができただろう」と証言している。幕末維新史のなかで慶喜に人気がないのは賊軍にならないため将兵を見捨てて敵前逃亡したためだろう。のちに評価が変わったけれども。

 かくして慶喜は慶応四年(一八六八)二月十二日に江戸城から上野・寛永寺の塔頭(たつちゆう)大慈院(だいじいん)に入って謹慎し、四月十一日の江戸開城の日に大慈院を出て水戸の実家へ帰って謹慎、七月二十三日には駿府(静岡県静岡市)に移った。

 この年の九月八日、慶応は明治と改元され慶喜は十月五日に静岡・紺屋町(こうやまち)の元代官屋敷に入った。徳川幕府最後の将軍は三十二歳で隠居生活に入ったのである。

側室たちと暮らし多趣昧に興じる


 三十二歳から六十一歳になって東京へ移るまで慶喜は政治とは縁を切り公的な動きは一切しないですべての時間を私的な趣味の時間に充てた。慶喜はもともと多趣味で馬術、打毬(だきゆう)投網(とあみ)、写真、弓、楊弓(ようきゆう)、能、碁、将棋、油絵、小鼓、刺、狩猟などを楽しんだ。

 慶喜は鷹狩りや隼狩りを楽しみ、日没まで帰宅しなかった。やがてみずから鉄砲で狩りをするようになり明治九年(一八七六)ごろからは(うたい)の稽古をはじめ、富士山を油絵に描いた。人力車で清水港まで行ってよく投網も打った。どれにも凝りに凝って素人離れした腕前だった。

 明治二十四年(一八九一)五月十九日、正室・美賀子(みかこ)が引っ越して三年目の静岡・西草深町(にしくさぶかちよう)二百二十七番地の屋敷で乳癌の手術を受けた。執刀医は旧幕臣で箱館戦争のとき敵味方なく負傷兵の手当をしたことで有名な高松凌雲(たかまつりよううん)である。



 手術後、美賀子は上京して千駄ヶ谷の徳川家達(いえさと)邸に入ったものの七月九日に肺炎で死んでしまった。この七月九日、すでに美賀子が助からないことを知っていたにもかかわらず、慶喜は朝早くから家令を連れて焼津へ写真撮影に出かけていた。イギリス・マンチェスター社製のカメラのファインダーをのぞいていたのだ。

 人生の土壇場になると大坂城から敵前逃亡したように逃げてしまう性格であったのか、それとも慶喜との間に美賀子は四人の子女をもうけたものの全員が早世したことに関係があったか?

 理由はわからない。それが慶喜という人物の個性、人間性であった。

 この正室・美賀子のほかに慶喜には(こう)(のぶ)という二人の側室がいた。幸は旗本・中根芳三郎の女で色浅黒く大柄で気さくな女性で目に可愛げがあった。信は新村(しんむら)信。色白せ形の美人であった。信の養家・新村猛雄(たけお)家をついで京都帝大の教授をつとめて『広辞苑』を編纂したのが新村(いずる)である。

 明治十五、六年(一八八二、八三)ごろまで慶喜と信と幸は一つの部屋にYの字型に寝ていた。頭を寄せ合ってか足を向け合ってかはわからないが暗殺者が侵入したらただちに気づくからで慶喜は厚さ一尺(約三十センチ)もある藁布団の上に真綿入りの羽二重布団を二枚敷いて(かいまき)をかけ必ず利き腕の右を下にして寝ていた。

 慶喜は静岡へ隠居したあと流産まで入れると幸と信に十二人ずつの子を産ませた。ただし二人が乳房にまで鉛入りの白粉を塗っていたことと、子供を産んで育てた経験のない女たちが「オ大切ニ、オ大切ニ」と過保護にしたため半分も育たなかった。

 やがて果樹園農家や石屋や質屋や煮豆屋に里子に出すようになり、それらの子供だけが健康に育ち、家に戻った子供の一人が「チャン(父ちゃんの下町言葉)」と呼んだが慶喜は意味がわからなかったという。キョトンとしている慶喜を想像するとおもしろい。

 幸と信は大変仲よしでまわりの者は子供たちの誰がどちらの子かを意識したことがなかったという。

 身の回りの世話は顔にアバタのある老女(女中頭(じよちゆうがしら)一色須賀(いつしきすが)が行なっていた。五百石取りの旗本・一色貞之助(ていのすけ)の長女でオキヨ(処女)であった。裁縫がうまい須賀はいつも「一位さま(慶喜)の御一生(ごいつしよう)は、お(かいこ)ぐるみにおさせ申し上げる」といっていた。慶喜は下着も(ふんどし)もすべて絹と真綿でできているものを使っていた。

時が流れ、公爵の位があたえられる


 明治三十年(一八九七)十一月十九日、慶喜は東京府北多摩郡巣鴨一丁目(豊島区巣鴨一丁目二十七から二十九番地)の中山道(なかせんどう)(国道十七号線)に面した新屋敷に移転した。

 黒板塀に囲まれた屋敷の周囲はまだ見渡す限り麦畑で邸内には五十本近い梅の木が植えられ、近所の人は「ケイキさまのお屋敷」とか「梅屋敷(うめやしき)」と呼んだ。

 門を入ると請願巡査(せいがんじゆんさ)(警護)の詰所があり、右側には門番が住んでいた。敷地のなかには二頭仕立ての(ほろ)馬車と箱馬車とセメ馬車をおさめた車庫があり、馭者(ぎよしや)二人と別当(べつとう)一人、三頭の馬が飼われていた。矢場も設けられていて慶喜は家職(かしよく)(執事)中川友太郎(なかがわともたろう)と一緒に毎日弓をひいた。運動のためで弓は七十七歳までひいた。

 中川友太郎は慶喜を「お上」と呼び慶喜は友太郎を「友よ」と呼び、友太郎が沸かした湯茶以外の水分は()らず、好きな鳥撃ちに出るときは医師が検査した水と茶器とアルコールランプを持った友太郎が随従した。

 千葉県松戸へ鳥撃ちに行ったとき、当地の村長宅で休息することになり客間に通されて豪華な料理を供されたが慶喜は一切(はし)をつけず、茶を飲むこともしなかった。毒殺と伝染病をおそれていたからだ。

 また、三河島(東京都荒川区)は当時の「三河島菜(みかわじまな)」(漬菜)という漬物にする葉の長い野菜の名産地だったが慶喜はその畑を走りまわって鉄砲を撃った。百姓は怒った。当然である。慶喜は友太郎に「百姓が何か申しているようだが、何と言っているのか」と尋ねた。



 「ハ、お上が葉っぱを踏んでお歩きになられるのに抗議しているのでございます」とこたえると「アさようか。では全部買い取ってやったらよかろう」とこたえたという。

 山手線が開通して電車が屋敷の敷地の西側境界に沿って走ることになったためその騒音を嫌った慶喜は明治三十四年(一九〇一)十二月二十四日、小石川第六天町五十四番地に新築した小日向(こびなた)邸に移った。新しい屋敷は巣鴨の屋敷より広くて一町四方もありすぐ下を江戸川が流れていた。
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