ある人の語ったことばでいちばん感銘が深いのは、その人が元気で活躍していたときでなく死に直面したときに発せられたことばであることが多いようです。死はいわば自分自身をうつしだす鏡のようなものだからでしょう。そのため、死の床にある人のことばは、その人のありのままの姿をあかしていて、元気だったときに書かれた遺言書よりもはるかに真実を伝えた、これこそほんとうの遺言といっていいかもしれません。イエスの場合も同じで、イエスのもっとも感銘深いことばは、カルヴァリオで十字架につけられ、苦悶のうちに今や死のうとしているときに発せられたものです。そしてそれらは、断片的にいろいろな福音書に書かれています。まず最初にイエスは、十字架の周囲にいる人たちに心を配ります。敵にはゆるしを与え、いっしょに十字架につけられていたよい盗賊には天国を約束し、母マリアと弟子には、お互いに母と子であることを望むのです。つづいて、思いは天なる父へと向かう。そのことばは、詩篇、特に苦しむメシアを示す文言からとられたものでした。そして最後に、子として父に霊魂を託し、息絶える。あわせて七つのことば ―― これこそイエスの教えの、ことばとおこないが一体となった集大成と見ることができるでしょう。
64 父よ、彼らをお赦しください。
自分が何をしているのか知らないのです。
(ルカ23・34)
たびたびいうようですが、たしかに人生は誘惑の連続で、私たちはたえず誘惑におちいっています。なすべきでないことをして、なすべきことをしない。自分自身、そして自分の罪深いおこないを反省して、また、いいわけをする誘惑に負けてしまう、「しかたがなかったんだ」と。ほかにやりようがなかったのなら、自分には責任がないのだから、罪にはなりません。少なくとも私たち自身の罪にはなりません。けれども、心の底では、しかたなくはなかったことがよくわかっているのです。思いだしてみると、あるとき二つの道の一方をえらぶことになった。いいほうの道はきびしい。悪いほうの道は楽だ。そこで楽なほうをえらんだ。その結果、悪におち、罪をおかしてしまった。そして、罪に対して、私たちは神からゆるしを得ることが必要で、神さまどうかおあわれみください、おゆるしください、と祈ることになります。
ところで今度は、自分の罪ではなく、人の罪を考えてみましょう。人が私たちに対しておかした罪です。たとえば、信じていた友だちがひどい裏切りをしたというようなこと。困ったときにその友だちが助けてくれると思っていたのに、こっちの頼みを聞いてくれず、ちっともいい友だちではないことがわかった。そっぽを向いて、侮辱し傷つけるようなひどいことも口にする。こういう状況は日本の夫婦の間で、結婚して数年たつと ―― いや、ほんの数週間でも ―― よく見られることのようです。非常に近しい間柄だけに、また相手に多くを期待していただけに、相手の無礼、侮辱はよけいゆるしがたいものになるのでしょう。つまり、私たちは、自分の罪はゆるしてもらいたいのに、人が自分に対しておかした罪はゆるす気にならない。日本語の「ゆるさない」あるいは「ゆるせない」は、しじゅう耳にすることばです。
イエスの最期もまさにそういう状況だったでしょう。十字架に釘づけにされ、その体もろとも柱はずしんと穴につき立てられる。周囲をとりかこむのは冷酷な兵士。イエスの頭にいばらの冠をかぶせ、むちで打ち、刑場まで引き立てて、最後に手足を釘づけにした連中です。