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政治・社会
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第三章 ドブネズミたちの反乱

『改訂版 全共闘以後』
[著]外山恒一 [発行]イースト・プレス


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1.日本の89年革命


“1989年”が世界史レベルで重要な年であること自体に異を唱える者はまずあるまい。


 第二次大戦後まもなく完成した冷戦構造は、ほとんど永遠に続くものと思われた。東西両陣営はそれぞれ数万発の核兵器を保持して相手側を牽制し合い、ただ対峙して睨み合う完全な(こう)(ちゃく)状態に陥ったまま長い年月が流れていた。


 その終わるはずのない冷戦が突然あっけなく終わってしまったのが“1989年”という年である。


 85年3月にゴルバチョフが最高指導者の地位に就いたことに始まるソ連の「ペレストロイカ(立て直し)」政策が一連の“革命”の引き金となる。88年から89年にかけて東欧諸国の共産党独裁政権が次々と倒れる民主化運動の連鎖(東欧革命)が起き、その過程で未来永劫そこに聳え立っているかに思われたベルリンの壁さえ消滅して、ついには91年、ソ連そのものが世界地図から消えてしまう。


 民主化運動は同じ“東側”の中国にまで飛び火し、89年春、約2ヶ月間にわたり天安門広場が何十万人もの人々によって占拠される事態となるが、これは同6月4日、軍に鎮圧される(天安門事件)

80年代後半”と少し幅を広げれば、民主化運動の高揚の連鎖は“南側”諸国すなわち後進国、第三世界の国々にも見られた。とくに東アジアでは(中国も“東”であると同時に当時は“南”を代表する国でもあったが)86年のフィリピン、87年の韓国、88年のビルマ(ミャンマー)で民主化運動が高揚し、フィリピンと韓国では勝利した(ビルマでは四半世紀以上を経た16年にようやく“事実上のスー・チー政権”が成立した)。台湾の民主化が急速に進んだのも80年代後半のことだ。さらに南アフリカで90年に勝利する反アパルトヘイト闘争や、パレスチナで87年に始まった投石など粗末な武器による対イスラエルの民衆蜂起(インティファーダ)をここに併記しておいてもよかろう。それまでどんなに極悪非道な独裁政権であろうがそれが“親米反共”政権である限りは許容し支援さえしてきたアメリカが、86年のフィリピン革命のあたりを境に掌を返して各国の親米独裁政権を見放し始めた背景にも、ゴルバチョフ登場による冷戦の緩和があるかもしれない。


 80年代後半に“東”と“南”で生じたこれらの事態を“89年革命”と見るのは、別に本書独自の視点ではなくほぼ常識的なものである。しかし問題は、では当時の“西側”はどうだったのかということだ。


 90年に刊行された『ユートピアの冒険』で、笠井潔は次のように述べる。



 フランス五月革命を頂点とした一九六八年の世界的な大衆蜂起──それは一八四八年の世界革命に匹敵する、世紀を隔てたもうひとつの世界革命であったと、いまなら躊躇なく語ることができる──が、二十年後の一九八九年に、中国から東欧にいたる大衆蜂起としてみごとに再現されたとしても、しかし、両者の関係は依然として単純ではない。一九六八年を前後する世界革命は、舞台をヨーロッパに限定した一八四八年の世界革命にたいして、「南」、「東」、「西」という三つの世界を横断する全体性を確保していた。


 だが、一九八九年に革命的激動にみまわれたのは「南」と「東」の諸国のみであり、それどころか「西」の諸国は、いまや冷戦の勝利とか「歴史の終焉」とか浮かれている有様なんだ。



 当時盛んに喧伝された“歴史の終焉”論89年夏にアメリカの政治学者フランシス・フクヤマが発表して世界的センセーションを巻き起こした論文「歴史の終わり?」で提示された議論で、『ユートピアの冒険』での要約によれば、「西側の歴史的勝利により、抽象理念や体制選択の是非をめぐって情熱が(とう)(じん)されるような『歴史時代』は終焉した。政治は理念や哲学から解放され、利害の相対的な均衡をめぐる技術的問題に解消されることになるだろう。民族問題や宗教問題、あるいは消費者保護など『歴史時代』から残された課題はあるにしても、それが事態を根本的に変えるというわけではない。崇高であるにせよ愚劣であるにせよ、偉大であるにせよ悲惨であるにせよ、人間の情熱を悪魔的に高揚させるような価値をめぐる闘争の時代は去り、いまや世界は、凡庸で退屈な利害の計量的処理の時代に入ろうとしている……」というもの)の当否はさておき、“89年革命”は東側と南側に激動をもたらしたが西側では同時期そのような現象は見られなかった、という認識はこれまたごく一般的なものだろう。


 だが本書は、そのような認識を覆そうとしている。



 なぜ多くの者は気づかないのか?


 欧米先進諸国はともかくとして(欧米先進諸国にそれに対応するものが当時あったのか、本書では触れない。しかし日本で起きたことすら気づかれず、忘れ去られ、まるでそんなものはなかったかのようだ。まして外国で起きたことなど単に日本には何も伝わっていない可能性も高い。実際は“何か”起きていたらしいことを示す傍証はいろいろあるが、紙幅の余裕がなく省略する)、日本に限っても80年代後半には“民主化運動”が大いに高揚し、まさに他ならぬ89年、それは誰の目にも明らかな形で勝利さえしたではないか。“山は動いた”ではないか!


 そう、89年夏の参院選での土井社会党の勝利である。この選挙で社会党は躍進、自民党は惨敗して、参院で与野党の逆転が起きた。そこに至る数年間、土井たか子は「山は動く」と支援者を鼓舞し続け、ついに勝利して「山は動いた」と言った。敗北の責任をとって宇野(そう)(すけ)内閣は成立からわずか2ヶ月あまりで総辞職し、衆参両院で改めて首班指名選挙がおこなわれたが、参議院では土井が首班指名された。


 もちろん衆議院での票決が優先されるので“土井首相”の誕生には至らなかったが、それはこの時の選挙がたまたま参院選だったからで、もしこれが“たまたま”衆院選だったら、それでも土井社会党が空前の大勝利を収めただろうことは間違いないし、つまり89年夏の時点で土井政権が誕生し、55年体制の成立から数えても(それ以前も実質的に自民党政権みたいなものだが)30年以上に及ぶ、“西側先進国”にあるまじき自民党の超長期政権は終わっていた可能性もあるのだ。しかもこの敗北によって動揺した自民党に本格的な内紛が生じて、今に至るも終わりの見えない“政界再編”の試行錯誤が始まり、その過程で早くも93年には非自民連立の細川(もり)(ひろ)内閣が誕生して国内版の冷戦構造たる55年体制が終焉するのだから、“日本の89年革命”はほとんど勝利したようなものである。


 むろん、たかだか1度の選挙での“風が吹いた”結果としての勝利を“革命”などと大袈裟に評価するのはいかがなものか、という疑問は当然だ。


 しかしまず、東欧“革命”がもたらしたものは冷戦構造の崩壊であり、“土井革命”がもたらしたものも国内版の冷戦構造たる55年体制の崩壊であって、同質である。


 また一連の“89年革命”について当時、「東欧で『民主化』が達成されても、われわれのなかに沸き立つような何もない。別に新たな原理が提出されたわけではないからだ。アジアにおいても同じことだ。フィリピンにおける民主化、さらに中国の(挫折した)民主化においても、われわれは声援を送るとしても興奮は感じないのである。(引用者註.“68年”の中国の)『文化革命』には何やら未知なものがあったが、現在進行している事態には、その当事者以外には、なんら情熱をかき立てる理念はない。それはすでにあったもの以上を実現しないことははっきりしているから」(「歴史の終焉について」90年/『終焉をめぐって』90年)と柄谷行人が言ったことは、そのまま“土井社会党の勝利”にも当てはまる。共産圏や第三世界の人々が求めた言論の自由や“豊かな生活”は、普通の先進国ではとうの昔に実現しているもので、何も目新しくなどない。人権や言論の自由など存在しないニセ先進国の日本で、人々が土井社会党に託した希望も同じようなものだろう。


 そもそも“89年革命”は、1848年や1968年の革命がそうであるような“世界革命”ではない。絓秀実が言うように(もともとはアメリカの社会学者イマニュエル・ウォーラーステインが言っているそうだが)「資本主義の社会主義に対する『勝利』を決定的に印象づけたのが八九年/九一年(引用者註.91年はソ連邦消滅の年)の冷戦体制の崩壊だとして、しかし、それが一九五六年のスターリン批判にはじまり六八年学生(世界)革命においてピークに達するムーヴメントの帰結であったことは、今や見やすい事実」(「資本主義と『自由の幻想』」01年/『JUNK(ジャンク)の逆襲』04年)であり、「八九年/九一年の『大いなるリハーサル』(ウォーラーステイン)としての六八年」(「今日の『全体主義』」00年/同)と見ることも可能なのであって、つまり“68年革命”を56年から89年までのワンサイクルと捉えれば、68年のピークに至る過程で先取り的に予見されていたことが89年に現実化したにすぎず、したがってそれが「何も目新しくなどない」のは当然なのだ。

68年”が予見したものを現実化するに際しては、ただちょっと“もう一押し”的に盛り上がればよかっただけで、そこに思想的な深みのようなものは不要だった。“東”や“南”の諸運動が凡庸な民主主義あるいは自由主義の理念に依拠していたにすぎないように、“土井社会党ブーム”を支えた人々の“思想”も単なる社民主義(資本主義・民主主義の枠内で社会主義的=福祉国家的な改良を目指す立場)であって、いずれも“68年”にはラジカルに否定されてさえいたものだ。


 もちろん本章の主題は“土井社会党ブーム”ではなく、そこに巻き込まれるところから出発したさらに若い世代の諸運動である。それらも少なくとも当時の時点ではせいぜい“社民・最左派”の域を出るものではない。とはいえそれらが以後、10年代初頭まで約四半世紀の“若者によるラジカルな社会運動”の源流となる。




 誰もが忘れてしまっているが、80年代後半の日本社会には社民的ムードが充満していた。


 80年代前半、左派はむしろ怒り狂っていたと言ってよい。なにしろ世界的に“レーガン・サッチャー・中曽根”の時代である。今から思えば(日本では01年の小泉純一郎首相の登場まで中断したが)“新自由主義”が世界を席巻する始まりで、“小さな政府”を目指し、福祉予算などを削る一方で軍事予算だけはなぜか極端に増やすという、まるで左派を怒らせてその運動を盛り上げる後押しをするかのような、まさしく“悪の枢軸”だ。


 そこへ85年、まずはゴルバチョフの登場である。反核運動の“高揚”をもたらした“新冷戦”の時代を終わらせてくれそうな改革派の指導者の登場に、頑固なマルクス・レーニン主義者以外の左派・リベラル派は歓喜した。


 翌86年、日本には土井たか子が颯爽と登場する。同年夏の衆参同日選で自民党が歴史的な圧勝を収めて、野党第1党の社会党・石橋(まさ)()委員長が引責辞任、代わって委員長に就任するのが土井たか子である。土井は28年生まれでこの時、57歳。もともと憲法学者だったが、69年に初当選して以来、衆院議員を長く務めてきた。83年には社会党副委員長となるが、一般的にはそれほど知られた存在ではなかったようだ。



 マスコミ評が先行した。「庶民派で性格はネアカ、カラオケがうまくてヤキイモが好き、パチンコも負け知らず。声も体も大きくて、元気印」というような週刊誌の前評判が、たとえば『土井たか子社会党委員長候補ってどんな人?』というような記事で、たてつづけに組まれていった。


 社会党内部とマスコミで、まるで既定方針のように「土井たか子新委員長」が語られていたが、本人はまるで困惑していたという。土井さん自身の意志表示はいっさいないままに、「日本初の女性委員長誕生か」という話題の方がひとり歩きしていった。


 委員長選出劇がにわかに本格化するのは、上田(てつ)衆議院議員が「委員長公選論」を掲げて立候補を宣言した八月の半ば頃からだった。上田氏の行動に刺激されて、社会党内部の土井コールは急加速していった。


 社会党幹部による土井たか子説得が続けられ、八月二十三日に、ついに土井さんは出馬を決意した。「やるっきゃない」が流行語になったあの一幕であった。土井候補は上田候補とともに、社会党新委員長の席を公選で競った。立ち合い演説会をやったり、各地で選挙演説をしたり……。ドン底の社会党が生まれ変わろうとしている──各マスコミは、この委員長選出劇を大きくとりあげていった。皮肉なことに、最悪の事態になって初めて社会党がニュースの素材に大きくとりあげられるようになった。

(保坂展人『あたたかい人間のことばで伝えたい 3メートルの距離から見た土井たか子』90年)



 これまた今から思えば“劇場型政治”の最初だったかもしれない。マスコミはこぞって“土井劇場”を演出し、委員長就任以降も土井の一挙手一投足を嬉々として世間に伝え続けた。

“劇場型政治”が成立するには、それに先行して“報道のバラエティ化”が起きていなければならない。そしてそれはやはり80年代後半に入ってすぐ起きていた。8510月、テレビ朝日系列の「ニュース・ステーション」(字数を食うので以下、NS)の放送開始である。


 NSはまさに“革命的”な報道番組だった。キャスターが“自分の意見”を語り始めたのだ。この番組の成功に刺激されて、やがてNHKさえ含む各局が同様の路線で追従し、それからすでに30年以上を経た現在の感覚からは信じがたいかもしれないが、現在のNHKのキャスターですらNS以前の民放キャスターと比較しても“喋りすぎ”だ。

「当時のテレビニュースは(略)生の映像や音、インタビューなど、テレビ本来の機能を生かしたニュースにはなっておらず」、「取材記者が新聞を意識した美文調の原稿を書き、アナウンサーが一字一句間違えないように、正確な日本語で読むことが最高とされ」る時代が続いていた(しま)信彦『ニュースキャスターたちの24時間』99年)


 しかしNSの久米宏は“自分の意見”をニュースに付け加え始めた。それも、久米のような知性(あるいはせめて話芸)のない凡庸なキャスターたちが現在でもよくやっている、“いたましい事件ですね”的などうでもいい“一言”ではなく、明確にリベラルなスタンスでの政府批判を連発したのである。


 とくに土井たか子がセンセーショナルに登場して以降のNSの土井社会党との“癒着”ぶりは、のちにいわゆる“ネット右翼”が例えば筑紫哲也の「ニュース238908年)や古伊知郎の「報道ステーション」(NSの後継番組。古舘時代は0416年)をそう批判する以上の“偏向報道”と言ってよい水準で、「ニュース23」やまして「報道ステーション」など当時(およそ80年代いっぱい)のNSと比較すればオハナシにもならない臆病な日和見放送でしかない。NSには連日のように録画インタビューや生出演で土井が登場して“中曽根政治”の横暴を糾弾し、また久米自身も自民党の大物議員をスタジオに招いては“追及”モードのインタビューを繰り返した。


 世間は“自民党政治”にいい加減ウンザリし、土井社会党への期待を高めていたし、NSに喝采を送った。もちろんこの期に及んで自民党寄りの保守的な少数派も存在し、彼らはNSそして久米を目の敵にした。


 それまであり得ないと思われていた民放の報道番組の高視聴率化に各局は衝撃を受け、ゴールデン・タイムやプライム・タイムに大型報道番組をぶつけ合う“ニュース戦争”が勃発し、それらのキャスターたちも久米を真似て“ニュースの後にとりあえずなんか言う”作法を、それをやってよいだけの知性も話芸もないくせに(とう)(しゅう)する。


 NSに続いて決定的な役割を果たすのが、同じくテレビ朝日系列で87年4月に始まった月イチ深夜の長時間討論番組「朝まで生テレビ」である。


 今世紀に入ってからの朝ナマの出演者は学者や政治家、官僚がメインだが00年代末の“ロスジェネ論壇”の成立以降は少し変わってきた)、その少し前の90年代には宮台真司や小林よしのりといった“評論家”的な色彩の強い文化人が目立ち、そして問題の80年代後半となると“活動家”や元“活動家”たちが朝ナマの常連だった。


 90年代以降のクールな朝ナマとは違い、80年代の朝ナマではまさに“激論”がおこなわれていた。もちろん司会の()(はら)総一朗の強引な采配によってテレビ的に加工されエンタテインメント化された、しょせん見世物的な“激論”にすぎないのだが、生放送だし、出演者の多くは本気でイデオロギッシュな人々なのだから、往々にして予定調和をはみ出したりもする。視聴者は、右・左、保守・革新と見事に分かれ向かい合っての“激論”を、たいていはどちらかの陣営に肩入れしながら手に汗にぎって朝まで観戦し(現在は3時間番組だが、当時は約5時間)、やはりたいていは、結局のところテレビ的な議論の不毛さに時間を無駄にしたことを悔いながら眠りについたものだ。

“朝ナマ”もNSと並ぶテレビ朝日の看板番組となる。“政治”や“社会”を熱く語るのが“ダサい”ことだった時代は過去のものとなり、80年代後半はそういった議論が一種のエンタテインメントとして消費さえされ始めた時代なのである。



 土井社会党時代の自民党は失点続きだ。


 86年夏の総選挙で衆院3百議席の大勝利を収めた中曽根自民党の最初のつまずきは、翌87年の“売上税”問題である。選挙戦に際しては絶対にやらないと公言していた“大型間接税”つまりのちの消費税の原型となる(ただし導入は断念された)“売上税”をやっぱり導入すると言い出して世論の猛反発に遭い、それまで自民党を支持してきたような諸団体までが“売上税反対”のデモを繰り返し始めた。


 任期切れで退陣した中曽根を継いで8711月に誕生した竹下登内閣は、まず88年1月末からの、本章で後述する反原発運動の突然の高揚に見舞われるが、決定打となるのは同年7月に発覚する“リクルート疑惑”である。リクルート社から、中曽根を含む中曽根政権時代の自民党大物議員のほぼすべて、トップ官僚、主要マスコミ幹部、そして社会党をも含む(要は“共産党を除く”全)野党の有力議員たちにさえ、事実上の賄賂がまんべんなくバラまかれていたという疑惑だ。さらに年末に消費税導入を強行採決したことがダメ押しとなる。


 リクルート疑惑で閣僚が次々と辞任を余儀なくされ竹下自身にも疑惑が波及した89年4月には、内閣支持率はなんと8%にまで落ちに落ちた(4月1日スタートの消費税も効いているだろう)。しかも後継を探そうにも有力な候補にはことごとく疑惑が持ち上がっている始末である。紆余曲折の末に宇野宗佑が後継首相に選ばれ、竹下内閣は6月に退陣した。くだんの“山が動いた”参院選はその宇野内閣のもとでおこなわれる。


 自民党の人気(ちょう)(らく)と対照的に土井社会党の人気はうなぎ上りだ。もちろん単に“批判の受け皿”となった側面もあるが、決してそれだけではない。中曽根は自民党の支持基盤を地方の“有力者”たちからそれこそリクルート社など都市部の新興企業群に移行させつつ快進撃を続けたが、土井はそれに対抗するように、社会党を従来の労組依存体質から脱皮させ、都市型の新しいさまざまな市民運動に依拠する政党として再編しようとした。そしてそのことによって、それまで社会党とは“お付き合い”程度の友好関係を保っていたにすぎない(かつ新左翼出自だから共産党とは絶対に手を組まない)無党派市民運動の担い手たちからも土井は熱狂的に支持されたのである。なにせ辻元清美・大久保青志・保坂展人という80年代前半の“若者の新しい社会運動”のリーダーたちさえ急速に“土井チルドレン”化していくのだ。


 土井ブームは90年2月の衆院選まで続く。社会党の独り勝ちを警戒した他の野党との連携がうまくいかなかったこともあって与野党逆転にまでは持ち込めなかったが、それでも土井社会党は議席6割増という大戦果を収めた。まもなく自民党から離反者が相次ぎ保守系の“新党”が次々と誕生する展開になると、自民党への批判票が分散して社会党の急速な凋落を招き、今や社会党(社会民主党)は消滅寸前の(ほう)(まつ)政党と成り果てている。


 おそらく1つには、“労働組合政党から都市型市民運動の政党へ”という転身のタイミングが遅すぎた。70年代後半のうちに転身を図っていれば西欧各国の“緑の党”程度の存在としては踏みとどまりえたかもしれない。さらに言えば、保坂と辻元は土井の若いブレーンとして社会党にその後ますます接近し、96年には揃って社民党の衆院議員に転身、完全に議会政治の“中の人”と化すわけだが、同じ“土井チルドレン”の1人とはいえ単に優等生的なフェミニズム系弁護士にすぎない福島瑞穂ではなく、大衆的な運動の実践経験が豊富な“現場活動家”上がりの保坂か辻元のいずれかが土井を継いでいれば、まだしも社会党の凋落はここまで悲惨なものとはならなかっただろう。


2.ブルーハーツとタイマーズ



 若者向けのサブカルチャーの世界でも、むしろ“社会派”的なものが支持を集め始める。その先駆的な例として音楽シーンにおける尾崎豊の登場がある。


 65年生まれの尾崎は青山学院高等部に在学中(まもなく中退)83年にデビュー、当初パッとしなかったが、翌84年のACF出演で一気に“若者たちのカリスマ”と化す経緯は前章で述べた。


 デビュー当時の尾崎は明らかに時代とズレていた。なにしろ“80年”の若者たちのカリスマだったYMOが、尾崎がデビューした83年の“12月1日”時点ではまだ“いる”。“散開”と称するYMOの解散は同22日で、つまり尾崎とYMOはほんの3週間ほど日本のメジャー音楽シーンに“同居”していたことになる。もちろんYMOの解散は人気絶頂期でのことだ。“軽薄短小”で“クール”なことがカッコよかった当時、“愛と自由を叫ぶ高校中退の若き反逆のロッカー”など時代錯誤もはなはだしい不粋きわまる存在であったに決まっている。


 ところが時代は変わりつつあった。尾崎は、売れてしまう。


 尾崎には文学的素養も正統的な洋楽ロック体験もなく、その詞も曲も素人芸の域を出るものではないが、そのぎこちなさの中にむしろ当時の抑圧された若者たちの鬱屈が表現されてもいた。要するに保坂展人や辻元清美が知性もセンスも欠いていたがゆえに、知的にもセンス的にも洗練されきって却って閉塞状況に陥っていた日本の“80年”から離脱しえたのと同じことが、尾崎の場合にも言える。正統的な文化教養と無縁の場所から出てきたからこそ尾崎は突破口を開きえたのだ。尾崎は、政治領域の保坂や辻元にちょうど対応する、“85年の断絶”をまたいで次代へとムーブメントを橋渡ししたミュージシャンと位置づけられよう。


 尾崎の“メッセージ・ソング”は決して明るくも前向きでもなく、むしろ悲痛な(痛々しい)ものだったが、それはすぐさま“がんばれロック”とやがて揶揄的に総称される明るく前向きな青春応援歌ロックの洪水として回収される(その代表格は66年生まれで85年デビューの渡辺美里だろう。ちなみに知性とセンスに欠ける保坂は当時、尾崎と渡辺を並べて絶賛するエッセイを書いている)


 尾崎は10代最後の日に発売されたサード・アルバム『壊れた扉から』8511月)の後まもなく失速し、8712月に覚醒剤で逮捕されたりもする。翌88年2月に執行猶予つきの判決を受けて釈放、同6月に音楽活動に復帰するが(何事につけても不寛容な現在では考えられないスピード復帰だが、当時はこの程度が普通だ)、セールス的に安定するとはいえ、同時期の保坂や辻元が“革命家”としては終わりつつあったように、尾崎も旬をとうに過ぎた感は否めなかった。92年4月に26歳でおそらく薬物死した時、尾崎はすでに“過去の人”であり、むしろ突然の(よう)(せい)によってその存在が改めて想起され、“伝説”が強化されたのである。


 そもそも88年にはすでにブルーハーツが、状況に不満や苛立ちを持つ“平均的な少数派”の若者たちを熱狂させていた。


 本章タイトルにある“ドブネズミ”の語もブルーハーツの代表曲「リンダ リンダ」の歌詞に由来する。次節後半から詳述する80年代末の諸闘争の担い手たちについて、外山恒一が08年の著作『青いムーブメント』で“ブルーハーツ世代”と呼んだ(また“80年代末の諸闘争”を「青」生舎と「ブルー」ハーツにカケて“青いムーブメント”とも呼んだ)のを、絓秀実が12年の『反原発の思想史』で“「ドブネズミ」たち”と言い換え、さらにそれを野間(やす)(みち)16年に笠井潔との往復書簡本『3・11後の叛乱』で踏襲して、この約30年間の若者たちの運動史を語る文脈で徐々に定着しつつある術語である。



 尾崎とブルーハーツとでは一聴まったく違うが、中間にエコーズを置いてみると系譜がすっきりつながる。のちの芥川賞作家・辻仁成が率いたバンドで、デビューは85年4月だ。


 エコーズの楽曲も尾崎と同様、“熱いメッセージ・ソング”だが、尾崎の詞の主人公が“盗んだバイクで走りだ”したり(「15の夜」)“夜の校舎 窓ガラス 壊して回った”り(「卒業」)、“ツッパリ”ふうの若者であるのに対して、エコーズのそれはおとなしく内向的な若者である。辻は59年生まれで尾崎よりずっと年上だが、同時期の学校状況に対しては逆に尾崎が“校内暴力”的に、辻が“反管理教育運動”的に立ち向かおうとしているとも言える。


 尾崎の詞が“素人のポエム”の域を出ないのに対してブルーハーツの詞は完璧だが、この点でもエコーズは中間にある。ボキャブラリーはむろん辻が最も豊富だが、“壁をクラッシュ!”だの“テレビのプラグを引っこ抜いてベイビー”だの、まさか数年後に芥川賞を獲るとは思えない絶妙に恥ずかしいフレーズのオンパレードで、とうてい洗練とはほど遠い。


 また、尾崎は周囲の“大人たち”に反発しているだけで、社会全体に視野が及んでいるという意味での“社会派”性は希薄だが、ACFのスタッフでさえあった辻の詞にはさすがに一定の社会派っぽさは感じられる。むろんブルーハーツになるとこの側面も全開になる。辻の詞の主人公の少年たちは、閉塞感に押し潰されず決起して反撃に出なければと思いつつ実際にはただ鬱屈しているのに対して、ブルーハーツの詞の主人公の少年たちは、すでに決起している。


 80年代末の諸闘争を担う若者たちの音楽的背景はまず何よりブルーハーツで、付随してエコーズだった。率先して闘うブルーハーツ派の若者たちの周囲にエコーズ派の若者たちも群れ集っていた。


 ブルーハーツは実質的にはボーカルの甲本ヒロトとギターの真島昌利のバンドだ。63年生まれの甲本と62年生まれの真島が85年2月に結成した。翌86年半ば頃から急速に人気が高まり、87年5月、シングル「リンダ リンダ」とアルバム『ザ・ブルー・ハーツ』でメジャーデビューするに至る。同11月には早くもセカンド・アルバム『ヤング・アンド・プリティ』が発売されたが、80年代末の“平均的な少数派”の若者たちを熱狂させた楽曲のほとんどはこの初期2枚のアルバムに収録されている。

“ポスト保坂”の反管理教育運動の主要な担い手の1人となる70年生まれの外山恒一は、自身も初期ブルーハーツの熱狂的な支持者であり、“89年”当時の同志たち数名を招集してそれぞれの“ブルーハーツ体験”を語り合う座談会を96年9月頃に試みている(外山編『ヒット曲を聴いてみた』98年)


 その中で、ファースト・アルバム収録の「街」の「いつか会えるよ/同じ気持ちで爆発しそうな仲間と」という歌詞について外山は、自身が反管理教育運動を本格的に開始した88年頃の「これから仲間を増やすぞ、全国的なネットワークを作っていくぞ、とか考えたり、ごく少人数で話したりして、すごくワクワクして盛り上がってた、そのころの高揚感を思い出す」と言い、やはり次節以降の主要登場人物の1人となる67年生まれの鹿島拾市(加藤直樹)も、反原発運動などで「八七、八年くらいに、それまで知らなかった人たちと出会ったりして、そういう過程でブルーハーツの存在も知ったし、そういう時の感じとぼくの中でもつながってる」と同調しているが、他方で外山は、それはこの8788年に特有の雰囲気であって、それ以前や以後の「実際に仲間がどんどん現れるかもしれないと妄想できる現実的な基盤がない」時代にはリアリティを持ちえない歌詞だろうと言い、鹿島は「この曲は──例えば渡辺美里がだよ、『君の仲間が必ずいるさ』とか……(略)そんなこと言ったらさ、『いねえよバカ』(笑)とか思うわけじゃん。『いねえよバカ』ってことを一度も思わなかった人が聴く詞ではないよ、これは。そう簡単に見つからないってことを抱えつつ、なおかつどこかにいるはずだっていう」と付け加える。


 ブルーハーツの“メッセージ・ソング”は、素朴な社民的ムードに包まれた“日本の89年革命”の高揚局面という特異な時代状況と無関係には成立しえなかった。前章で触れたように8586年頃の最盛期の青生舎には甲本と真島も少なからず顔を出すことがあり、ブルーハーツは事実として“日本の89年革命”を彩る諸運動の近傍に身を置いていた。


 しかし88年に入ると、そのブルーハーツは早くも失速する。


 反原発運動の高揚の渦中で幾組・幾人かのメジャー・ミュージシャンが“反原発ソング”を次々と発表しもするが、ブルーハーツも88年7月、シングル「チェルノブイリ」を出す。“チェルノブイリには行きたくない”というメイン・フレーズを、“3・11以降”の現在、例えば“フクシマには行きたくない”とでも置き換えてみれば、その“反原発ソング”としての無内容さについてもはや多言を要すまい。


 ブルーハーツは当時、“社会派”と見なされるのが普通だったが、甲本や真島はそうした“レッテル貼り”に戸惑っていた気配が濃厚である。やがて彼らはそのような存在であることを自らはっきり否定し90年9月発表の4枚目のアルバムの1曲目「イメージ」)、無害なポップ・バンドへと転向していくのだが、「チェルノブイリ」発表時はまだそこに至る痛々しい迷走のうちにある。“社会派”たることを否定しようとしたり、逆に過度に期待に応えようとしたりという迷走であり、「チェルノブイリ」は後者の最も見やすい例だ。


 8811月のサード・アルバム『トレイン・トレイン』にはそれでも、シングル・カットされた3曲をはじめ、まぎれもない傑作が何曲か収められてはいる。とくに「青空」は、とりわけ水準の低い日本ロック史上おそらく唯一の、(例えばジョン・レノンの「イマジン」に匹敵する)普遍性を持った“ちゃんとした”政治ソングでありさえする。しかしアルバム全体としては、前掲の“ブルーハーツ体験”座談会で鹿島が言うように「ファーストは全部好きだった。だけどセカンドで何曲か『なんだこりゃ』ってのもあったの。サードはもう、『なんだこりゃ』ばっかりに(笑)」と感じるのが常識的なセンスというものだ。


 89年6月にシングル「青空」のカップリング曲として発表された、当時のブルーハーツが抱え込んでしまった苛立ちを、単純かつ単調な典型的ロックンロールに乗せて真島がほとんど破れかぶれに10分近く叫び散らす、ブルーハーツらしからぬネガティブなメッセージ・ソング「平成のブルース」を最後の、そしてもしかすると最高の傑作として、以後のブルーハーツとその後身バンドはほとんど論じるに値しない。



 ブルーハーツの失速と入れ替わるように“日本の89年革命(のBGM)”の前面に躍り出てくるのが(いまわ)()(きよ)()(ろう)である。


 もちろん忌野は88年当時すでに日本ロック界の大御所中の大御所だ。忌野率いるRCサクセションは、70年にフォーク系のバンドとしてデビューし、あまりパッとせず、それが78年にド派手なメイクのロック・バンドへと路線変更するや大ブレイク、“80年”のサブカルチャー・シーンにおいてほとんどYMOと並ぶ存在にまでなった。以後はもうサザンオールスターズとRCとが日本の2大ロック・バンドであると言って間違いはない。


 そのRCサクセションが突如として政治色満載の“社会派”アルバムを発表し(ようとし)たのが88年夏のことだ。それまでのRCあるいは忌野の作品や言動からも強靭な反骨精神は感じられたが、ストレートに“社会問題”などを云々することはなく、したがって“社会派”のイメージも希薄だった。

“騒動”は一片の新聞広告に始まる。「このアルバムは素晴らしすぎて発売できません」。発売間近だったRCの新しいアルバムの発売中止を知らせる、東芝EMIの広告である。6月22日の各紙に出た。


 謎めいた広告だったが、事情はすぐに明らかとなる。発売予定だったアルバム『カバーズ』は、タイトルどおり洋楽有名曲のカバーというか要は日本語詞による“替え歌”集だったが、すべてかなり政治的な詞である上に、とくに「ラブ・ミー・テンダー」と「サマータイム・ブルース」の2曲が“原発反対”の旗幟を鮮明にした内容で、東芝EMIが、親会社で原発メーカーでもある東芝に気兼ねして発売を見合わせたのだ。納得できない忌野に会社側の担当者が口走った「このアルバムは素晴らしすぎて……」の言い草に、忌野が「じゃあそうアナウンスしろ」と応じて、くだんの広告掲載に至った。


 サンプル版はすでに各メディアに配布されており、とくにラジオでは気骨のあるDJたちが競って“問題の曲”をオンエアする。『カバーズ』はますます話題の的となり、最終的には別のレコード会社(キティ・レコード)から“8月15日”に発売され、RCにとって初めてのオリコン・チャート1位という大ヒット・アルバムとなる。


 騒動はそれで終わらない。


 8月6日、前日から広島で開催されていた“平和コンサート”に、“ザ・タイマーズ”なる覆面姿の4人組が、“まったく無名のバンド”との紹介つきで飛び入り出演する。


 覆面というか、ヘルメットにサングラスにタオルという要は新左翼の過激派スタイルだ。観客は呆気にとられるが、ボーカリストが歌い出すや、どう聴いても忌野清志郎の声である。

“広島平和コンサート”は、86年に凡庸なリベラル派のフォーク系ミュージシャン・山本コウタローの発案で始まった年1回のチャリティ企画で、“平和がいいに決まっている!”なる思考停止スローガンが合い言葉の、要はACFの劣化コピーだ。むろんACFより大規模で、つまり当たり障りがないぶん商業ロックの大物ミュージシャンも多数出演して、尾崎やエコーズやブルーハーツ、あるいはARBやレッド・ウォーリアーズなどACFと共通の出演者もいるが、ストリート・スライダーズ、バービーボーイズ、パーソンズといった当時の大人気バンド、さらには安全地帯だのハウンド・ドッグだの久保田利伸だの佐野元春だの岡村靖幸だの渡辺美里だの白井貴子だの永井真理子だの、ドリカムだのジュンカス(誤記に非ず)だの、メジャーどころがもう目白押しのコンサートだった。


 その広島平和コンサートの第3回・88年のステージが、忌野清志郎に声がそっくりな覆面の男“ゼリー”が率いる謎のバンド“タイマーズ”のデビュー戦となる。


 最初に演奏したのは洋楽ロックの古典的なバンド“モンキーズ”のテーマ曲を替え歌にした「タイマーズのテーマ」。ご丁寧にも冒頭でバンド名の綴りまで説明されたし、“タイマーがほしい、タイマーを持ってる”と歌っているはずだが、心がけの良くない者には違うことを歌っているように聞こえそうだ。前フリ的な「テーマ」が終わり、実質1曲目が「偽善者」。“平和”を希求するチャリティ企画に飛び入り出演しておいて、“偽善者は歌うよ、世界の平和を求め”などと歌う傍若無人ぶりである。続く「偉人のうた」は、“もしもぼくが偉くなったなら、君が歌う歌を止めたりしないさ”と、どうしても記憶に新しい『カバーズ』騒動を連想させる。“コピー”ということか問題の「ラブ・ミー・テンダー」なども歌われて、最後に再び「テーマ」で“タイマーが切れてきた、やってられねえぜ”と捨て台詞のようなことを歌って去っていく。


 これを皮切りにタイマーズは旺盛なライブ活動を展開する。しかも録音自由、むしろ大いに録音して周囲に広めることが推奨されてさえいた。


 音楽誌などにも頻繁に登場するが、その場合も“ゼリー”は常に覆面姿だ。そしてあくまでも“自分はキヨシローではない”と言い張る。“ゼリー”によれば彼らはそもそも土木現場の職人仲間で、だから常にヘルメットなど着用しているらしいのだが、ある日たまたまニュースで『カバーズ』騒動を知って、“他人事ながら許せない”と思い急遽バンドを結成して活動を始めた。しかしRCサクセションの活動と比較されると“あんなチャラチャラした連中と一緒にされては困る”などとも言う。


 さんざん話題になったために、やがて8911月、なんと東芝EMIからアルバム『ザ・タイマーズ』が発売されるが、制作を打診された時に“ゼリー”は、“原発はダメで、どうして大麻ならいいんだ?”と食ってかかったとも伝えられる。


 その他にも、891013日に音楽番組「夜のヒットスタジオ」に生出演して、テロップでタイトルが出た「偽善者」ではなく(『カバーズ』騒動の際、“問題の曲”を“局として”オンエアしない旨を発表した)FM東京を“腐ったラジオ、政治家の手先、オマンコ野郎”と罵倒する曲を演奏したり、九州電力本社ビル内の“電気ホール”でのライブで、“これなら文句はないだろう”と“原発の安全性”を過剰にアピールし観客と“原発賛成!”のコール&レスポンスを延々わざとらしく繰り返す「原発賛成音頭」を披露したり、タイマーズのやることなすことすべてが痛快だった。


“日本の89年革命”と密接に関係する音楽シーンの出来事としてはもう1つ、89年から90年にかけて一世を風靡した異形のバンド“たま”に言及しておかなければならないが、その前提として当時の大人気番組「いかすバンド天国(イカ天)」に言及せざるをえず、さらにその前提として80年代後半の“バンド・ブーム”に言及せざるをえない。

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