▼楽観主義者と悲観主義者の解釈の違い
次の例は『なぜこの人は、自分のことしか考えないのか(註17)』で書いた例であるが、楽観主義者と悲観主義者を考えるのに良い例なので、この本から引用する。
ある年の新入社員の話である。その人は広告代理店に入社した。彼は入社一日目から広告を取りに出されたという。もちろん広告は取れなかった。学生時代に部活動をして何かのパンフレットを作り、そこに大学の近所のお店の広告を取りに回ったという学生時代を過ごした人もいるだろうが、多くの人にとっては広告を取るという仕事は学生時代に経験していない。だからうまくいかなくて当たり前なのである。
彼は自分が広告を取れなかったということをどう解釈し始めたか。次のように解釈した。自分は見知らぬ人と話すのが苦手である、自分は無口な方だ、だから自分はこの会社には向いていないのではないか、会社に向いていない自分の人生はおしまいだ、そう解釈して彼は出社二日目にして山手線に飛び込んでしまった。
この自殺の原因を広告が取れなかったというところに求めるのはどうだろうか。というのはその年のその広告代理店の新入社員は九人であった。そして全員初日には広告が取れなかった。しかし皆はそうした行為に出なかった。つまり自殺の原因は失敗という事実よりも失敗に対する解釈である。
同じ失敗をしても、その解釈は楽観的な人と悲観的な人とでは違う。楽観的態度を測定するもっとも良い方法の一つに、心理学で「解釈のしかた(註18)」と呼ばれるものがある。
クリストファー・ピーターソン博士とリーザ・M・ボッシオが「健康的な態度(註19)」という論文を『心と体の医学(註20)』という本に書いているが、それを基に健康的な態度について少し考えたい。
楽観的か楽観的でないかは、次の三つの基準によって判断される。
内的か外的か
第一の基準は、失敗の原因を自分の内的なことに求めるか、自分の外に求めるかである。この新入社員は広告が取れないという原因を自分の内に求めた。つまり内的解釈(註21)である。
例えば「私は口下手だから」と解釈したかもしれない。あるいは「私は気が弱いから、断られるとそれ以上言えないから」と解釈したかもしれない。
どう解釈したかは別として、望ましくないことが起きたときに、それを自分が思っている自分の弱点と結びつけて解釈する。
この解釈の仕方は、うつ病患者に特徴的な解釈の仕方である。
広告を取れなかった人の中には、自分が広告が取れなかったということを「こんな厳しい経済状況で企業が広告費を削るのは当たり前だよ、取れるわけないよ」と解釈した人もいるだろう。
そのときの経済状況という外的なことに原因を求めた解釈である。つまり解釈の第一の基準は、内的か外的かである。
失敗の原因を自分の内的なことに求める人は「将来同じ失敗を繰り返させるような根本的な欠陥が自分にあると考え(註22)」がちである。しかし実際にはそんなことはない。
部下に人気のないビジネスマンの中には、それを自分の性格のせいだと解釈する人がいる。そして、人望がないのは自分の性格でどうしようもないと考える。だから自分は、会社で人望を得て出世することなどできない人間だと落ち込んでいく。そう考えるのが悲観的な人である。
しかしビジネスマンの中には、人望がないのは自分の性格のせいではなく、たまたま自分の課には自分と肌の合わない人が集まったからだと、自分の外に原因を求める人もいるだろう。
そのうちに自分と肌の合う部下が集まるときもあるだろうと考えるビジネスマンもいる。部下からの人望がないときに、運や巡り合わせのような外的(註23)な要因のせいだと思う人もいる。
さらに内的解釈をする人は、自己執着が強いから自分のことばかり考えている。
先の広告代理店の新入社員も、おそらく相手を見ていない。どんな人が買ってくれるのかを考えていないし、相手を見ないでやたらに頼み込んでも効果はない。
恋愛も同じ。声をかければ来るだろうというように、相手を皆同じ人間と思っている。
それぞれ違う人間で違う感じ方をしている。この悲観主義の人には、自分とは合わない相手もいるという発想がない。
したがって、ものを売るときにも工夫をしない。例えば、人は買ってくれるものだという錯覚を持つ。
うつ病患者が逆境を自分の弱点と結びつけて考えるのは、怯えているから。弱点を過剰に意識するのは怯えているから。今まで従順に生きてきた結果である。
自分の弱点を過剰に意識しているからこそ、何か望ましくないことがあると、その逆境を自分の弱点と結びつけて考えてしまうのである。
彼らはさらに、次々に自分の欠点を発見していく。