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戦国武将名言録
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ルポ・エッセイ
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第六章 学問、趣味、身だしなみ

『戦国武将名言録』
[著]楠戸義昭 [発行]PHP研究所


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少しでも暇があらば、物の本を見、文字のある物を懐に入れて、常に人目を忍んで見るようにせよ。
北条早雲(『早雲寺殿廿一箇条』)

 
『早雲寺殿廿一箇条』は北条早雲が晩年に、北条氏に奉公する家臣の心掛けを、家訓として残したものである。その文章は平明で、具体的である。

 朝は早く起き、(かわや)から馬屋、庭、門の外まで見回り、掃除するべきところを、きちんと家人に命じてから、洗面をしなさい。夕方は六ツ時(午後六時)にきちんと門を閉め、その後の出入りは、そのつど門を開け閉めさせなさい。また夜には台所など火の気のあるところは自分で見回るように。女性だけに頼るのはよくなく、召し使っている家人まかせもよくない。火の用心は主人が先頭に立って行いなさいと命じている。

 北条早雲といえば、応仁・文明の大乱で中世的秩序が崩壊し、下剋上となるなか、一介の素浪人の身分で伊豆の地を乗っ取り、やがて小田原城を奪って、関東に名を轟かせた。何しろ腕力で国を奪った武将として、いかつく、血も涙もない男と思われがちだが、実際は神経がこまやかで、農民を慈しんで、領民に慕われた。早雲は人の情や知に精通した戦国武将だった。

 しかも国盗りに着手したのが六十歳と高齢になってからだ。人間は年を取ると億劫になりがちで、保守的になるものだ。だが、早雲は白髪だったが、目も耳もしっかりして、歯も抜けておらず、心身ともに健康で、溌剌としていた。

 六十四歳で小田原城を手に入れ、相模一国を掌中にしたのは、八十五歳だった。死ぬ八十八歳まで現役だった。早雲は現代の高齢化社会にあって、模範たる先人といえる。

 その早雲は読書の必要性を説いた。それは教養を積むためであるとともに、文字は寝ても覚めても使い馴れないと忘れてしまう。その予防策でもあるとし、手紙を書くことも促している。

 また碁、将棋、笛、尺八といったものが好きな友だちとは、付き合ってはいけない。良い友だちを選ぶには、手習い・学問を(たしな)む人がよいといっている。

 さらに、歌道がわからない人は、心の貧しい人である。だから歌道をきちんと学ぶべきだとも忠告している。

学問に精を入れよ。兵書を読み、忠孝の心掛けをもっぱらにせよ。詩を作り、歌を詠んではならぬ。心に華の風流があっては、気弱になり、いかにも女のようになってしまう。武士の家に生まれたからには、太刀(たち)をとって死ぬことこそ本意である。普段から武士道についてよく熟慮していなければ、いさぎよく死ぬことが出来ぬから、心に武を刻んでおくことが肝要である。
加藤清正(きよまさ)(『加藤清正掟書(おきてがき)』)

 

 加藤清正は家臣たちに学問をすることを求めた。それは武士道の何たるかをよく吟味するためというのだ。太刀をとって、ただ死ねばいいというのではない。武士はいかに生き、いかに死ぬか、一人ひとりが、書物にあたってそれを知り、いつでも死ねる研ぎ澄まされた心を持てという。そのためにとくに兵法を勉強し、戦術・用兵など戦いの全般を把握する大切さを指摘する。武士道に励み、主君への忠孝こそが、家臣としての最大の務めであるとする。

 朝鮮出兵では獰猛(どうもう)な虎と対決してこれを倒すなど、清正は勇猛果敢な武将の代表格である。その男ぎった性格は女々しさを嫌った。娘の嫁入り道具に、朝鮮で退治した虎の頭蓋骨を入れた。いかにも清正らしい。そんな清正だから、戦国を生きる武士に詩歌は不要、武士道の邪魔になるとして切り捨てたのである。

 しかし、清正も戦国の世が終わって、徳川の天下となると、逆に太刀を振るって死ぬことばかりを考える時代は終わったと、肌身で感じるようになる。
『名将言行録』にこんな逸話が出ている。伊達政宗(だてまさむね)が上方から、団助という遊女を呼び寄せて、歌舞伎を興行した。それは徳川家康の心にかなったことだったと、清正の耳にほのかに聞こえてきた。

 それはなぜかといえば、家康は石田三成(みつなり)らの乱を無事に平定し、日本六十余州を(たなごころ)のうちに入れた。そこで政宗といった国持ち大名たちが、太刀を必要としない太平と思って、歌舞伎興行に明け暮れてくれれば、徳川家に謀反をたくらむ者もいなくなって、家康の心配はなくなるからだ。

 清正は、こうした深慮から政宗が歌舞伎興行をやったのだと称賛し、やがて清正自身も歌舞伎を催したとある。

 武士から見て軟弱な行為が保身につながり、家を守るためには重要になる。気持ちを逆転させる器用さが、時代の転換期には必要だということである。

学文(がくもん)の道において油断してはならない。『論語』にいう。学んでも考えなければ深まらない。考えても学ばなければ、独断におちいって危険である。
武田信繁(のぶしげ)(『武田信繁異見九十九ヶ条』)

 
『異見九十九ヶ条』の第十一条に記される言葉である。永禄元年(一五五八)四月に、嫡男の信豊(のぶとよ)に与えたものだが、のちに「信繁家訓」として、武田家臣団に対する家法となった。そして『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』には、五十七カ条からなる「甲州法度(はつと)」を補う役割をもって記される。

 正室大井(おおい)夫人は、信虎(のぶとら)との間に、才能豊かな三兄弟を産んだ。戦国の雄・信玄(しんげん)、戦国の賢人とされる信繁、父と母を描いた肖像画が現在ともに国の重要文化財に指定される武人画家の信廉(のぶかど)である。

 父信虎は信繁の器量を愛して、信玄を嫌ったといわれる。その父を追放して信玄は武田家の総領となった。本来なら信繁も信玄によって追放されるか、または殺されても仕方ない存在だった。しかし逆に信繁は軍略・見識ともに優れた名将として、信玄を心底支えて武田家の真の副大将として尊敬された。信繁は弟としての分をわきまえて一歩引き、嫡子たる信玄を主君としてあがめ、自分を家臣と位置づけて生きた。

 源義経を弟としての身内ではなく、家臣である御家人(ごけにん)として扱おうとした兄頼朝(よりとも)の心を、義経は読めずに滅亡した。さらに母を同じくしながら、兄の織田信長に反抗して殺された信勝(のぶかつ)(また信行(のぶゆき)とも)がいる。
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