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鬼の帝 聖武天皇の謎
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歴史
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第四章 鉄の女 光明皇后の本心

『鬼の帝 聖武天皇の謎』
[著]関裕二 [発行]PHP研究所


読了目安時間:45分
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光明皇后という問題


 権力と闘った帝。しかし、このような聖武天皇の素顔が知られることがなかったのは、ひとつに光明皇后という大きな存在があったからである。

 藤原不比等と県犬養三千代の間に生まれたこの女人は、藤原の子であることを宿命づけられた生涯を送り、聖武を凌ぐ発言力を持っていたと考えられている。

 したがって、聖武が反藤原的な動きをしたとしても、それは藤原氏衰弱とともに台頭してきた橘諸兄や吉備真備、玄らの仕掛けた権力闘争に振り回されたにすぎないというのである。

 尻に敷かれた哀れな帝 ――『続日本紀』も、これを否定しようとはしない。
『続日本紀』天平宝字四年(七六〇)六月七日の条には、光明子の死亡記事につづいて、その生涯と人となりを長々と記している。

 要約すると、次のようになる。

 光明皇太后の姓は藤原で、近江朝の内大臣中臣鎌足の孫、平城朝の太政大臣藤原不比等の娘である。母は県犬養三千代。皇太后は幼いころから聡明のほまれ高く、聖武の皇太子時代(きさき)となった。時に年は十六、多くの人々に接し、喜びを尽くし、あつく仏道に帰依しはげんだ。聖武天皇即位で大夫人となり、孝謙天皇と基皇太子を生んだが、皇太子は数え二歳で夭逝(ようせい)。のちに皇后となった。太后の人となりは、いつくしみ深く、よくめぐみ、人々を救うことを志した。東大寺と国分寺を創建したのは、そもそも太后が聖武天皇にすすめたものであった。また、悲田(ひでん)施薬(せやく)の両院を設立し、飢えた人、病んだ人々を救った。娘の孝謙天皇が即位すると、皇后宮職を紫微中台と改め、勲賢(くんけん)(実力者たち)を選び出し、官人として列した。享年(きようねん)六十 ――



 これに対して、聖武天皇の死亡記事は、あまりに簡潔である。


 ()()太上天皇(だいじやうてんわう)寝殿(しむでん)(かむあが)りましぬ。遺詔(ゐせう)して、中務卿(ちうむきやう)従四位上道祖王(ふなどのおほきみ)皇太子(ひつぎのみこ)としたまふ。


 とあるのみで、即位前記にも、文武天皇の皇子であり、母は不比等の娘藤原宮子で、和銅七年(七一四)六月に立太子とあり、さらに立太子記事を探ってゆくと、「皇太子、元服(げんぷく)を加ふ」と記され、正確な立太子記事さえ見当らない。その誕生も、「是の年、夫人藤原氏に、皇子誕す」と、大切な“藤原の子”であるにもかかわらず、あつかいはきわめて冷淡と言えよう。ましてや、聖武天皇最大の事業と思われてきた大仏建立でさえ、光明子の発案であったと断言されては、聖武天皇も立つ瀬がない。

 聖武は孝謙に譲位するに際し、その理由を、私は政治にほとほと疲れ果てたので、娘に皇位を譲るのだと、じつに弱々しい言葉を吐いている。

 有名な『楽毅論(がつきろん)』に残された光明子の男まさりの力強い書体からして、また、唐の則天武后の影響を受けたとも言われるこの女人が、元来病弱であった聖武天皇を思いのままコントロールできたと考えるのは、ごく自然の成り行きであった。

 聖武天皇が即位してのち、これを待っていたかのように光明子が権力の中心に座ったことも、これらの推理を裏付けているかのようである。
『奈良朝政治史の研究』(高科書店)の中川収氏は、“「橘諸兄首班体制」の形成で藤原氏の勢力挽回を望む光明皇后の希望と、政界進出を志向する仲麻呂の意向が(中略)合致、ここに光明と仲麻呂の結合関係が成立”したと推理している。

 このような一般的な解釈には、反論がいくつもあるが、それはまたのちに述べることとして、光明子をめぐるもうひとつの説を見ておこう。

光明子は聖武を裏切った?


 梅原猛氏は、聖武天皇譲位後の光明子の尊称“皇太后朝(オオミオヤノミカド)”は天皇と同等の重みを持っていたと指摘し、その理由を、光明子が“紫微中台”という実質的な女帝として君臨していたからだとする。そして、聖武天皇の譲位は、聖武の模索した“皇親政治復興のプログラム”を崩壊させるための、光明子らの手による“政治的クーデター”であったのである。

 では、なぜ光明子は夫聖武天皇を裏切るかのような行動に出たのであろうか。梅原氏は聖武帝が彼女にとって決して恋人ではあり得ず、彼女は恋人を聖武帝以外に求めねばならなかったという。なぜなら、光明子は“正統”な藤原の子であり、一方の聖武は藤原に支配される天皇だから、というのである(すでに触れたように、梅原氏は聖武帝を海人の子とし、この血の低さも関係あるとする)。そして“藤原”を強烈に意識し誇りに思っていた光明子が、聖武帝ではあきたらずに求めた男が玄であり、仲麻呂であったとする。

 その証拠として、梅原氏は光明皇后の醜聞の例をいくつもかかげている。

 まず、『今昔物語』には、


 天皇ノ后、光明(クワウミヤウ)皇后、此ノ玄ヲ貴ミ帰依(キエ)(タマヒ)ケル程ニ、(シタシ)ク参リ(ツカマツ)リテ、后、此ヲ寵愛シ(タマヒ)ケレバ、世ノ人不吉(ヨカラ)(ヨウ)ニ申シ(アツカヒ)ケリ(中略)

 天皇ノ后、僧玄ヲ寵愛シ給フ事、(モハラ)ニ世ノ(ソシリ)ト有リ


 といった文面が見え、また『源平盛衰記』にも同様の記事があって、光明子の玄に対する寵愛は男と女の関係にまで発展していたとするのである。それは、『続日本紀』の玄の卒伝に、玄が“沙門の行に(そむ)”く振る舞いがあったからと記され、玄が女色を犯したに違いないと推理するのである。

 もし、光明子の行動が、梅原氏の推理や通説どおりであるならば、藤原氏が衰弱した当時でさえ、聖武はほとんど無視されていたことになりかねず、“藤原に反発した帝”という図式は崩れ去ってしまうのである。

正倉院に秘められた謎


 このような梅原説に対する反論はのちに触れることとして、ここでは、まったく別の形で光明子の野望を推理した由水常雄(よしみずつねお)氏の説を紹介しておきたい。由水氏は、東大寺正倉院に光明子の正体が隠されているとする。

 正倉院宝物は、聖武天皇の遺愛の品々を光明皇后が大仏に奉献し、夫の極楽往生を祈願したものと一般に信じられてきた。

 ところが、この宝物奉献には、裏があったというのである。それは、藤原仲麻呂が光明皇太后をテコにして実行した藤原氏起死回生のクーデターを示す以外の何ものでもなく、正倉院は“藤原仲麻呂と光明皇太后の無血革命を大成功させた一大モニュメント”(『正倉院の謎』中公文庫)であったというのである。

 では、なぜ由水氏は、このような結論を導き出したのであろうか。

 由水氏が注目したのは、天平勝宝八年(七五六)六月二十一日の聖武天皇の七七忌に際し東大寺に奉納された品々を記した『東大寺献物帳(けんもつちよう)』なのである。ここには、通説では解くことのできぬ三つの謎が隠されているという。それを要約すると次のようになる。

この『献物帳』には、天皇御璽が全面にわたって押印されているが(四八九顆)、そもそもこの印は、太政官が政務に際し使用するもので、勅書でもない『献物帳』には不似合いである。
他の寺院に比べ、聖武帝遺愛の品々の奉納が東大寺に集中しているのはなぜか。もし聖武ゆかりの寺としても、なぜ七七忌を東大寺で営み、同時に宝物を納入しなかったのか。
巻末に名を連ねている人々の多くが、紫微中台の官人であるのはなぜか。


 そして由水氏は、最大の謎を、 の天皇御璽に求めたのである。東大寺への大量の宝物奉納の真の目的は、この天皇御璽の強奪にあったのではないか、というのである。

 由水氏は『献物帳』の発行された十日程前、六月十二日付の勅書に注目した。孝謙天皇が東大寺に官宅田園などを施入したことを記すもので、署名者が『献物帳』と同一の五人であったこと、正真正銘の勅書でありながら、こちらの方は『献物帳』とは反対に、天皇御璽がどこにも押されていなかったからである。

 理由ははっきりしている。天皇御璽を管理していた太政官が、この“勅書”を認めなかったとしか考えられない。

 思い出していただきたい。聖武天皇の譲位後、朝廷は橘氏らを中心とする太政官と、藤原仲麻呂、光明子らの紫微中台との二つの勢力に分裂していた。勢いは仲麻呂にあっても、所詮令外(りようげ)の官であり、律令(法律)を厳密に運行しているかぎり、天皇御璽を持っている太政官には太刀打ちできなかったのである。
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