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歌藝の天地
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ルポ・エッセイ
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第一章 歌の道は志(こころ)の道――わが青春の足跡

『歌藝の天地』
[著]三波春夫 [発行]PHP研究所


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戦火を越えて
「グワン! ズズン!」

 土煙りと鉄塊と土砂が舞い上がり、バラバラと頭上に降ってくる。一人の戦友が悲鳴を上げた時、「恐怖」――で、私の魂は凍りつくようであった。

 敵影は、まったく見えず、ただ爆弾の炸裂する音と、砲弾が風をきって落下する音だけが、私の周囲を襲っていたのである。それは、戦う兵士にとって、泣き叫びたいほどの口惜しい出来事である。

 中国・東北地区富錦であった。昭和二十年八月十日、私はその時、陸軍兵長。本部伝令兵として、部隊長の陣取る戦闘指揮所・中央トーチカのすぐそばにいた。ギリギリと歯をかみながら、砲弾の炸裂とともに、トーチカの上に偽装のために建ててあった木製の小屋が次々と粉砕されていくのを見ていた。

 コンクリートのトーチカが銃口眼を剥き出しにして、丘の上にその姿を現していく。その時まで、空が青かったのに、突然、雨が降り始めた。音もなく……。北満の戦場に降る雨は、すでに秋雨。軍服を濡らし、骨の髄まで凍みる雨だった。

 ソ連軍の猛攻撃の真只中にいる私は、身動き出来ぬままに、散兵壕(さんぺいごう)の壁に背中を押しつけながら、その時初めて、自分の死を覚悟した。

 その時である。

 そんな、死に直面した瞬間になって、私の胸には一つのシーンが唐突に蘇ってきた。それは、懐かしく、そして楽しい思い出であった。その思い出が、まるで映画のように、色鮮やかに浮かんできたのである。

 子供の頃――。私の日々の生活のなかで、それは一番楽しい思い出である。八幡様の祭り、目の前に燈籠の屋台が通っていく。そして、囃子(はやし)の音までもが、耳に鮮やかに聞こえてくる。

 祭りの雑踏に重なって、私には母との別れの夜が見えた。母の死因はチフス。弟を生んで二か月だった。私が、七歳のことであった。伯父が私を抱いて、母に最後の対面をさせてくれた。

 母は仰向けに寝て、白衣を着せてもらっているところだった。祖母が、たしか母の回りを動いている。湯灌(ゆかん)の儀式なのだろうか?

 しかし、私には母が本当に死んでいるものとは、思えなかった。いつもの母ではないことは分るのだが、死んでいるとはどうしても思えなかったのである。
「チーン、チーン」

 姉が打つのか、誰が打つのか、鐘の音だけが聞こえていた……。

 人は、死に直面したときに、誰しもがこんな思いにとらわれるのだろうか?
「母」そして、「母の死」のことを、あの時あのような状況で思い出すのは、一体何故なのだろうか? それは、私にとって一番大切な、恋しい人であったからか、ともあれ、私は、私自身の人生を振り返る時、この日、この時、死に直面した自分の胸に鮮烈に蘇った「母の死」から、人生が始まったと思っている。

 昭和五年九月九日。家族全員がチフスにかかっていたけれども、母が一人犠牲になって、私も、父も、姉も、そして兄も健康を回復したのである。母、美代、三十六歳の若さであった。その母の死後、父と三人の子供は位牌に手を合わせ、読経を済まして夕食をとった後には、毎晩のように、父から民謡を習うことになった。

 父にとっては、せめて民謡を唄うことで、母の死の悲しみを一時忘れることが出来たのだろう。父は、専門家に教わり、村一番の声自慢であった。母もまた、盆踊りには音頭とりをしたという。

 私の胸の奥底には、夕方、炊事をしながら母が口ずさむ『佐渡おけさ』の旋律が、かすかにではあるけれども、耳に残っている。父と三人の子供たちだけの民謡教室で、私が習ったのは、『正調江差追分』『米山甚句』『安来節』『三階節』であった。

 やがて十歳のころになると、レコードや放送で覚えた東海林太郎の『旅笠道中』を歌っていた。こちらは、当時の流行歌ではあったが……。

 そして十一歳の時には、父の友人の唸る浪曲『米若節』、天野屋利兵衛の一席は、たちまちにして、その小父さんと合唱するほどになっていた。
どんな責苦に会おうとも
決して白状致しませぬ
天野屋利兵衛は男でござる

 根っから歌うことの好きだった私は、民謡や歌謡曲、浪花節と、どんどん覚えていった。親戚の田植え時などは、手伝いに行かされたのだが、私一人は田の畦を舞台にして、歌を歌ったり、浪花節をやったりして、喜ばれたものである。
「文ちゃんが来てくれると、忙しい田植えも楽しいのお」

 と、大人たちはニコニコしてくれた。少年三波春夫は、その頃から、働く人々に奉仕していたのかも知れない。いや、むしろ、そうして歌うように、私は運命付けられていたと言ったほうがいいかも知れない。

 人の生活に役立つ歌や浪花節を()るものとして……。

 そして、それは、母の死が、私の運命を定めたのではないだろうか?

 
浪曲師の卵、南篠文若の誕生

 昭和十一年の秋に、私たち一家は東京に出た。誰にでも夢を与える「花の都」に、我が一家は、夜逃げ同然に、出たのであった。
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