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歌藝の天地
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ルポ・エッセイ
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第二章 歌は民族の音色

『歌藝の天地』
[著]三波春夫 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間29分
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われ浪花節の正体見たり

 

 

 
名人、梅中軒鶯童

 藝の世界では歌舞伎の大名題を「旦那」と呼ぶが、大正の終わりころ、大阪の浪曲家たちから、ただ一人だけ「旦那」と尊称されていた人物がいた。

 二代目、広沢虎吉(ひろさわとらきち)である。

 引退して後に井上晴夢と名乗ったこの人は、大阪の浪曲界では名人中の名人と謳われていた。巨匠、桃中軒雲右衛門(とうちゆうけんくもえもん)が、九州に落ちてゆくときに、お浜とともに虎吉を訪ねて教えを乞うたこともあった。

 さて、この井上旦那は、浪曲家の後進育成に意を注ぎ、浪曲専門の定席(じようせき)を、当時、大阪一の盛り場である松島に作った。「広沢館」である。東京の寄席もそうだが、そこでは前座から大家に至るまで、浪曲家が毎日、真剣に舞台を務めた。この井上旦那の企画と熱意は、みごとに実を結び、次々と各所に計四軒の広沢館を作ることになった。このため、大阪の浪花節は更に隆盛を極めたのである。

 この松島の広沢館に、同じころ二人の浪曲家がいた。後年になって「東西の名人」と讚えられた広沢虎造と梅中軒鶯童(ばいちゆうけんおうどう)である。二人は大の仲良しであった。二代目広沢虎造については、『次郎長伝』で馴染みも深く、東京で活躍したために広く全国に、その名も知れ渡っている。

 一方の梅中軒鶯童だが、京都生まれの関西の浪曲家。虎造に比べると知名度は少し劣るが、『紀伊国屋文左衛門』を始めとして『吉原百人斬り』『吃又大津絵道中』など、虎造に優るとも劣らない大名人なのである(この鶯童を題材にして、私は『浪曲一代男』という芝居を昭和四十三年に演ったことがある)。

 そしてこの鶯童の舞台は、私も十回ほど実際に拝聴したことがあるが、節の妙味、会話の面白さ、節運びの完璧さ……、どれをとっても素晴らしいの一語に尽きる藝である。

 こんな話があった――。

 師が「東西名人大会」に出演されると、その舞台の間、楽屋は空っぽになってしまうのである。出演の大家も、前座も、三味線弾きも、みんな一斉に楽屋を飛び出してしまうのである。この師の浪花節を、聴くために……。それほどの藝であった。そして、それほど得難い藝術家と言える。

 この鶯童師は、独学独歩の修業をされたのである。師匠もいない、独力で築いた藝なのであった。

 師の自伝には、その間の泥沼を這い回るような苦しみの連続の様子が書かれている。いかに強い意志と精進であったかが理解できるのである。あるときは奇人、変人と陰口をたたかれたが、結局その陰口を言っている人も、鶯童師に心酔するあまりに、一つの藝談として語っていることに気付いて、うれしくなったものである。

 
浪花節学者の本

 さて、生来の読書好きであった鶯童は、浪花節の起源についてもその自伝『浪曲旅芸人』(青蛙房刊)で触れている。この本は、まさに浪花節学者の本なのである。

 それによると、『浪曲元祖、京山恭安斉(きようやまきようあんさい)』という人がいた。もう既に故人となられたが、昭和三十年度の郷土文化功労者として、地元の和歌山県から表彰されているのである。

 この恭安斉の碑が、紀州の名所として知られる和歌浦に近い、三井寺の石段を上りつめること百数十段、展望する山と海、夢心地にもひたれるような場所に建っている。
「明治二十二年五月、京山一門建立」と、碑の裏面に刻まれているが、鶯童師は、この京山派の始祖に対しても、桃中軒雲右衛門の業績に対しても、信仰心に近いものを持って記しておられる。さすが、師匠を持たず、独学で浪曲を研鑽してきた一途(ひたむき)な精神が生み出した思想であろう。

 さて、恭安斉の生年が不明であるが、和歌山の有田郡広村の医師、板原恭安(彦十郎)の妾腹の子として生まれた。幼名を孫太郎、後に京山(きようざん)と名乗った。しかし、放蕩児であったがために勘当されてしまい、一時は高野山禅知院に出家したが、後に還俗して京に出た。

 そのころ、京・大阪はもとより、九州も関東も、「祭文語(さいもんかた)り」に大層人気があった。

 前記の井上晴夢が発起人になって、大正十年ごろ建てられた浪曲の記念碑には、その祭文語りの始まりについて、こう記されている。
「藤原時代、少納言・澄恵卿(ちようけいきよう)が朝廷の意を享けて、庶民善導の目的を持ち、神道の祝詞(のりと)のような調子で平易な歌をいくつもつなぎ合わせ、一般の人に分かりやすく、辻説法の要領で諸国に広めた。これ即ち、大道祭文の始まりである。故に、浪花節の先祖は、少納言・澄恵卿なり……」

 という意味のことを刻んであったという。しかし、この碑は戦災で破砕されてしまい、現存していない。

 その跡に、新しく「浪曲塔」を鶯童の主唱で建立し、碑文の筆は、長谷川伸先生にお願いしたそうである。

 また、この祭文の起源には説も種々あって、正岡容氏の「雲右衛門前後」という稿には、
「説経、祭文。はじめは人の死を弔う経文の一種であった。鈴を打ちふるいつつ唄う原型は、但馬、出雲地方に民謡として残っている。(中略)

 藤原澄恵が南都興福寺管長であった叔父の許に戦を逃れ(平治の乱)、出家して源坊と改め、今様(八百年前に流行した歌)に説経の節をまじえて弔詞をつくり弔詞節と名付けた」

 と、あることを記しておきたいと思う。

 京山が京へ出て耳にした歌祭文は、当時素晴らしい活気があり、面白かった。語り出しにおいてはうやうやしく、祝詞を奏するような調子で――、
高天(たかま)(はら)に在わします、
八百万(やおよろず)の神々へ
かしこみかしこみ申しあぐ
年の始めのうれしさや
松の飾りの有難さ(尊さよ)
松の緑は千代八千代
神の御来迎(おなり)(これ)に松(待つ)
さあて一座の(おん)客様
弁じあげますお話は
岩見重太郎武勇伝……

 という調子で歌いあげた。

 語る藝題と、前段の祝詞は無関係だが、そもそも祭文(祝詞)という出発点こそ大切なものであった。というのは、さすらい歩く旅藝人にとって、自らが演じる藝に、銭を戴くだけの価値がどのくらいあるのかは、大問題であった。

 時代が移れば、もちろん祭文の先祖様と大道藝人の祭文とは、似て非なるものとなってきたのは、致し方がない。

 例えば、「上州貝祭文」は、ホラ貝を吹き、錫杖(しやくじよう)を打ち鳴らして「デロレンデロレン……」と、(あい)の手を歌った。しかし、民衆の価値判断は、面白いなかにも、ためになるものがあるかどうかであった。そこに祭文語りの苦心もあった。
「語る物語に、いかなる真実があるのか? そしてそれは楽しいものか?」が、重要であった。

 

 当時、都三光(みやこさんこう)という人が抜きんでていた。京山は、この祭文語りを追いかけて聴いた。都三光も、和歌山県の出身であるところから、親しく目をかけられるようになり、遂に一座に加わる。そして、都京山を名乗るようになったのである。

 あるとき偶然に、浪花伊助の祭文を聴いた京山は、そのまったく新しい形に驚いた。これまでの祭文は、祝詞調で、詩文を綴り合わせたものだから、「台詞や説明」はなく、節も繰り返しのものであった。

 しかし、浪花伊助のものは、「説明や台詞」も入って、物語もしっかりと出来上がっているのである。

 この斬新な祭文は大評判となり、大阪・日本橋あたりでは、よしず張りの興行が行われていた。この「露天演藝場」は、毎日、押すな押すなの盛況で、客が集まった。

 しかし当時はまだ、もちろん浮連節(うかれぶし)とか、チョンガレとか称しての大道藝であった。時代は違うが、東京には、カッポレで有名な豊年斉梅坊主がいるが、この人は阿呆陀羅経(あほだらきよう)であった。

 この阿呆陀羅経は、レコードに残っているように、例えば『ないない尽くし』など、滑稽ものだけかと思ったら、あれは前段、すなわち『枕』で、それが終わってから、
「ここに伺う一席は……」

 と、物語に入るのであったが、明治から大正にかけて、西洋の機械や文明が入るにつれて、世の中も忙しくなり、また生活のテンポも早くなって、のんびりと大道で一席語ることもなくなった。そこで、娘手踊りや曲藝などを加えた一座を組織して、両国界隈の広場で露天興行をやっていたのである。このカッポレの豊年斉梅坊主というひとは、そんな阿呆陀羅経の大師匠であった。この浪花伊助の藝名の「浪花」が、その後、東京で警視庁に登録されるときに「浪花節」という藝の種目となったのである。伊助の出身地も和歌山と、鶯童は書いているが徳島県の説もある。

 
浮連節(うかれぶし)完成へ

 京山は、来る日も来る日も、この伊助の祭文を聴いているうちに、大きく思い至るものがあった。日本の三味線音楽は、四百年以前から盛んになってきたが、元祿時代、大阪で竹本義太夫が三味線を伴奏として、素晴らしい「語りもの」を完成していることは、読者もご承知の通り。

 大道藝の祭文の伴奏が、いつまでも錫杖と貝だけというのは、放蕩児・京山にとっては陳腐なものに思えた。なぜなら、三味線を茶屋遊びで十分に身につけていたからである。京山は医者の子であり、出家もしている。学問もあった。

 伊助の語る話の底の浅いのがよく分かる。近松門左衛門の名作も知っている。あれこれと、自分で作品の構成をやった。さあ、そうなれば藝の欲が出る。台本を前にして、節付けにかかり、弾き出しは「大摩」がよかろうか? ここらあたりは「早節」か? あるいはここで「愁い節」でいこうかと、一つ一つ積み重ねていく。長唄や清元の弾奏も取り入れたであろう(「大摩」=摩琵琶の勇ましい弾奏を指す。「早節」=テンポの早い節〈リズム〉を指す。「愁い節」=哀愁を込めてメロディックにたっぷり唄う)。

 そして出来上がったこの新しい祭文を、京山は「浮連節(うかれぶし)」と名付けたのである。そして、名も京山恭安斉と改めた。

 この放蕩の児が、藝の創作に苦心するうちに、人生について大きく目を開いていったのを物語るのは、妾腹の子として、あるときは恨み、あるときは反撥した父の名を、そのまま自らの名としたことである。すなわち「恭安(、、)斉」と。

 やがて、その大きな努力は、その幾百倍もの拍手となって、民衆に迎えられた。たちまちにして、京、大阪は、浮連節に浮かれまくったのである。聴衆は、(浄瑠璃)義太夫の太棹の鋭く鳴る音〆とは反対に、浮連節の太夫の声調の裏にひそむが如く、水調子を響かせて弾奏される三味線の綾なす音色に引きずり込まれた。

 私には分かる。語り手の節や台詞に、えも言われぬ曲師の腹藝がみごとに加わったときの快感を。後ろから押すように、また前に回って弾くように、あるときは付かず離れず遊ぶように……。

 その人の声の調子によって、調子(キー)が違うのは当然だが、関東調のそれとは違う味わい深い水調子である(「水調子」=低い調子のこと。水は低いところに流れるの意)。

 こうして、京山恭安斉の浮連節は、津波のごとく広がり、チョボクレ、阿呆陀羅経、チョンガレ、祭文といった、語りものの大道藝は、すべて浮連節に包含されてしまったのである(「チョボクレ」「阿呆陀羅経」=この二つは地方によって呼称が違うが、同じ語り物。滑稽物が特徴。「チョンガレ」=弔歌連、長歌連とも書く、歌う語り物のこと)。

 恭安斉の門を叩く者数知れず、新内(しんない)からも、講釈師も、江州音頭の歌い手も、われもわれもと、集まってきたのである。このときに、さまざまな藝を学んだ人々が、浮連節に入ってきたために、後の浪花節には、実にさまざまな節の味が出てくるのである。そして、これがまた、後年、更に広範囲に全国的になっていく原因にもなっている。

 
伊助、都落ち

 さて、その後の浪花伊助は、彼自身も錫杖とホラ貝を捨てて、三味線弾きを抱えて祭文を、いや浮連節を語ったが、残念ながら、恭安斉のように、節の妙味が薄い。

 読物も段違いとなると、自然、都落ちをしなくてはならない。無念の涙をのんだことだろうが、足は東へ、大道をさすらいながら、名古屋を中心にした中京地方へ流れていったのである。

 ここで、伊助は素晴らしい才能を持つ弟子を育て上げた。すなわち後年の関東浪花節界の先駆者、浪花亭駒吉(なにわていこまきち)である。写真で見ると意志の固い、ゴツイ感じだが、この駒吉という人は、記録にもあるが、人柄の良さ、研究熱心さにおいては、右に出る者がいないほどであった。

 この浪花亭駒吉と浪花伊助の間には、浪花家辰丸、浪花家辰之助といった師匠(ひと)がいたから、正確には「曾孫弟子」ということになるのだが、ともかく伊助の血とでも言うべき、浪花節に対する「愛情」が流れていたと言えるだろう。

 駒吉は弘化二年三月二十三日、愛知県津島市今市場で生まれ、名古屋に出て、辰之助の弟子となった。しかし、間もなく悪声のため将来に見込みなしとして、師匠のもとを出された(破門ではない)。

 しかたなく、駒吉は東京に出て修業しようと発奮、大名行列の供人足に加わったり、祭文語りとして、栃木、群馬、埼玉の各県を回った。三味線がなければ、錫杖に頼るしかない、浮連節の旅藝人であった。ところが、そこで戸川てるという名曲師と出会う。

 浪曲研究家の芝清之氏は『浪曲人物史』という労作のなかで、かなり詳しくエピソードを拾って、大勢の物故した浪曲家を書いておられるが、駒吉が旅の途中、説経浄瑠璃の日暮竜卜と知り合ったあたりの記述がある。

 竜卜がそのとき、駒吉に、
「お前の祭文に三味線を用いよ」

 と勧め、自分の妻女に弾かせて指導してくれたと書いている。

 このとき、駒吉は、それまでの低調子(水調子)を捨てて、「関東の高調子」と言われる型をつくり出したのである。ここで初めて、京山恭安斉の関西調の低調子、そこから派生した「中京ぶし」(中間調子)に、新たに関東の「高調子」が加わり、浪花節の「型」が発展、完成を遂げたことになる。

 やがて、ここでいう中間調子(一口に「合の子」とも言われた)が、近代浪曲の節の主流となっていくのだが、もう少し駒吉・てるの話を続けよう。

 
駒吉の苦心

 この明治初めの時代、大道藝の浪花節が、東京の寄席に上がったのである。それは明治七年のことだと記録にある。駒吉・てるは、その時代に遭遇したのであった。

 この戸川てるの弟子に、戸川花助(浪花はな)という曲師がいた。この女性もまた大変な名人と言われ、昭和十一年に没しているが、シャンシャンシャンシャンと三味線の弾出しを始めると、客が総立ちになって喝采したといわれている。当時、曲師は語り手と並んで舞台上で演奏していたのである。

 ここらあたりの話は嬉しい。どんなに力強く、華麗な音〆(ねじめ)であったことだろう。お客様にしてみれば、待ちに待った演者があらわれ、三味線が鳴りだし、期待感が、音の響きに揺さぶられ、嵐のような拍手が湧く。
「歌藝は客が育てる――」

 という言葉が、しみじみ理解できる。

 こうした客の喝采を浴びる曲師は、てるを始めとして、「ひさご」「花助」「お浜」といった名が残っている。

 私の知っている時代だが、節の地味な大家は弟子たちを客席に廻らせて、大切な「当て節」になると、まっさきに手を叩かせた。そうすれば、お客もつられて叩くことになる。これを「呼び手」と呼んだ。こういう話は、まるで民衆の熱気も演者の心意気も感じない昭和も戦後のことである。

 さて、戸川てるは、悪声の駒吉に何を感じたのであろうか? 想いを艶やかにしてみれば、男女のドラマか、藝の出逢いか?

 しかし、ここでは駒吉の藝を追ってみよう。かつて恭安斉が、自ら弾いて型を作った苦心とは違って、そこに名曲師がいた。現在にまで伝わる関東節の「約節(または役ぶし)」をたくさん作り上げた。おそらく浪花節の「約束ごとの節」の意味の「約節」であろう。このほか、「受け節」「きっかけ」「当て節」「大ぜめ」「中ぜめ」「のりぜめ」「言葉ぜめ」……。

 この「せめ」とは「迫め」と書くが、「馬をせめる」に起因した言葉であろう。激しいドラマの展開を語り手と曲師とが、まさに人馬一体(失礼!)となって演じ込む。

 そして、「四つま」「観音」「かん違い」「早節」「たたみ込み」「切り節」などなどである(この「約節」のメロディについては、申し訳ありませんが、活字では説明が出来ませんのでお許しを……)。
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