読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン

犬耳書店はRenta!へ統合いたします

(2021/11/26 追記)

犬耳書店の作品をRenta!に順次移行します。
詳しくはこちらでご確認いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

0
-2
kiji
0
0
1262023
0
歌藝の天地
2
0
0
0
0
0
0
ルポ・エッセイ
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
第四章 体験的歌藝論

『歌藝の天地』
[著]三波春夫 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間1分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ


歌藝の世界、あれこれ

 

 

 
歌に敬意を

 日本という国は面白い国だと思う。そのわけは、料理と歌の多様さだ。東京にいれば、世界の料理は七十五か国以上もそろっているという。だから、歌のほうも負けじと多様化を極めるのだろうか、実に多国籍的である。

 クラシックはもちろん、シャンソン、ウエスタン、ハワイアン、ポップス演歌などと訳の分かったような分からぬような名称も生まれている。日本調にアチラ調、歌謡曲、民謡、演歌、浪曲調などとあって、またそのそれぞれの「城」を築いて逞しく生きている。

 しかし、真にプロとして活動する者と、セミプロ的な気分の者とでは、まったく違う。たった一曲の大ヒットのために幸せに過ごす人もいれば、かえってそれが重荷の人もいる。

 さて、人の歌を聴いて勉強するのは怠らぬつもりだが、私が現在特に注意していることは、「歌を崩さないこと」である。

 歌い馴れると、自分の一人よがりになってしまう危険がある。リズムをずらして歌うようになった場合は、その歌手の力量が落ちてきたか、もしくは大変驕慢になっているかである。

 その歌が流行ったのは、それが良かったからで、たとえ何万回歌っても、レコード吹き込みをしたときと同じ歌いかたをしなければならない。実に平凡に見えて、難しいことなのだ。いくら美声を張り上げても、歌い崩してしまったら、聴衆は楽しむどころか、口には出さないが、「裏切り者」と叫びたい気分なのではないだろうか。詩と曲が完成した後、
「歌は歌手の喉から出た瞬間に、社会の共有財産になる!」

 だから、心して、歌に対する敬意を忘れないようにしている。

 私の場合は、舞台で歌うときに、特に強弱(めりはり)に気を付ける。そうすれば自然に原曲通りになる。

 そして「初心」を忘れないようにするためには、吹き込みをするまでに、徹底してレッスンを重ねておくことが大切である。私はいまでも時々自分の歌を、あらためてじっくりと聴くことにしているのは、このためである。

 
民謡進化論

 あるときテレビで、うまくもない民謡と、変わりばえのしない土地の踊りを見せられた後で、グループの長がしたり顔で、
「私たちは世界各国へ、民謡○○使節として行ってきました」

 と、語った。そのときに、私は背筋に冷たい何かが走ったことを覚えている。

 その歌は、昔の人が唄ったらもっと素晴らしかった。踊りも、もっともっと美しかった。なのにこれがあの土地の伝承歌かと思うと、セミプロと化した人々の藝の荒れかたに腹立たしい思いをしたのである。そこにあるのは、藝の習練を忘れた「天狗さん」たちの集まりがあるだけだ。そこの土地に住んでいるだけに始末が悪い。民謡にはそれぞれの訛りや唄いかたはあるのだが、外部から専門家を招き、批判を仰いだりして、逆にグループが小さく固まるようなことは避けて、研究を続けてほしいものである。
「民謡は、民族の歴史であり、財産である」

 そして、そのためには、
「民謡とは、磨き続けねばならないもの」

 それほど大事に考えて戴きたい。つまり、民謡は進化しているのである。

 例えば戦後になって、民謡は、明るくリズミックなものになっていった。

 九州地方の『炭坑節』、東北地方の『花笠音頭』『真室川音頭』などは、その代表曲だといっていい。また、『北海盆唄』『相馬盆唄』は、これまたスケールも大きく、一味違うが、前奏、間奏など、音楽的に新しい工夫が施されて、みごとに大衆の心をつかんで、民謡の大ヒットとなった。

 国民の生活が様変わりしたことを、歌が表している。歌が、歴史を描いている。民衆の歴史を。

 このような日本の民謡のなかでも、素晴らしい影響力を発揮しながら全国を回って、形を変えながら広がっていったのは、『天草ハイヤ節』『牛深ハイヤ節』であった。

 四分の二拍子の「囃子」で、『鹿児島ハンヤ節』となり、『鹿児島小原良節』を生み、日本海を北前船で運ばれて『しげさ節』『隠岐のハイヤ節』『出雲崎おけさ』『佐渡おけさ』『新潟おけさ』『塩釜甚句』『津軽あいや節』『三原ヤッサ』『阿波踊り』などなどの、たくさんの歌を生んだのである。

 このようにして、民謡は全国を回り、諸国を「旅」しながら、その土地土地で形を変えながら、歌われ続けて、根を張ったのである。決して、民謡を小さく固まったものにしてはいけないのだと思う。この『天草ハイヤ節』などは、言ってみれば、民謡の大神さまとも言えるものだろうか。

 
日本の音頭と囃子

 さて、日本人の踊りに適しているのは四分の四拍子の「音頭」である。これは農耕民族の拍子(リズム)だと言われている。なんでも「肥たご」を担いで畦道を歩くリズムだとか、粘り気のある田んぼを歩く農民の作業や生活テンポが基本だとも言われている。

 一方、四分の二で刻む『ハンヤ節』『阿波踊り』などは「囃子」の部類に属する。全国的に見ると、こちらはかなり踊りづらいようである。というのは、四分の二拍子のリズムのほうは、なかなか体が乗っていかないのである。従来の日本人のテンポにしては早すぎるのだろうが、現在もこれからも生活のテンポは早くなっていくのだからと考えて、新潟県糸魚川市の『おまんた囃子』を作ったことがある。

 ところで、美声の歌手が「音頭物」を立派に歌うかというと、そうではない場合が多い。大部分は「粘る」のである。音頭はリズム、テンポをかっきりと歌ってこそ、踊れるものなのに、メロディックな個所にくると歌い過ぎて、あたかもテンポが狂ったように感じられるのである。

 これはとくに歌謡曲の歌手に多い。演歌を歌うと素晴らしいのに、音頭になるとまったく駄目なのである。歌詞をはっきりと「話す」つもりで、歌うという意識から離れることだと思う。そして自分自身もそのリズムに、しっかりと体を乗せることが大切なことだろう。この歌で、今、大勢の人が踊っているということを念頭に歌うのである。

 四分の三拍子は、騎馬民族のリズムだといわれて久しいが、演歌の場合三拍子の大ヒット曲はあるが「総踊りもの」にはないので、私は去年の『交通安全でろれん音頭』をこの四分の三拍子で作った。ある程度踊りをやっている方であれば、きっと面白く踊られるはずである。去年の盆踊りには全国的にも取り上げられたし、テーマの交通安全は人類的にも重要なものだから、全国の心ある方々の推進によって永い生命を持ち続ける音頭になるかもしれない。

 大勢が公共の場で踊るのには、やはり堂々とした、万人が納得するテーマの音頭物を作ることが大切だと思っている。

 一つの地域、一つの会社、一つのグループ、みんなそれぞれが力をあわせて心を寄せあう楽しい場の歌――それが「音頭」「囃子」だと言うことが出来る。昔から「音頭をとる」という言葉があるが、この辺りから出てきたものであろう。

 また、ある長老に聞いたところによると、「音頭」のもっとも古いものは『伊勢音頭』だそうである。お伊勢様の行事を通じて作られた歌で、歌舞伎の初代猿若、中村勘三郎が三代将軍家光の御座船の舳先で、この『伊勢音頭』を歌って御感に叶い、江戸で芝居小屋を建てることを許可されたという。

 音頭の持つ広々とした陽気さは、日本的な味わいで、日本独特なものがあるかもしれない。
「ドドンがドン! ソレ、ドドンがドン!」

 
のど自慢の面白さ

 NHKが『のど自慢』を始めたのは随分古いと思う。私が十歳の頃の記憶に、父が『のど自慢』に出場し、見事に落選したことを夕食のときに話していたことがあるが、あれは、その『のど自慢』だったのだろうか?

 現在の番組になってからは、やはり、歌好きにとっては欠かせない面白い時間で、本当にさまざまな人が登場してくる。「日本民族の研究」にも、大変役立つ番組だと思うくらいである(笑ってはいけません、ほんとうです)。

 私も年に二回ほど頼まれて地方へ出掛けるが、男性では北島三郎君の歌を唄う人は、みな旨い。これはサブちゃんの歌唱法が日本人的で、しかも発声に力強さをもっているからだ。これは良い。そして歌う人がサブちゃんの声に似ていることに感心すると同時に、これは当然のことだと思う。
「藝術は模倣から始まる」

 という諺があるが、歌もその通りで、目標と定める歌手は自分の声帯にもっとも近い人を選ぶ。それは正しい。しかし、プロはそれだけでは落第である。自分と正反対の人の歌を研究する必要がある。そしてクラシックも、民謡も、その他たくさんの習練を積む必要がある。なかでもいちばん大切なことは、どんな歌でも歌える上でなお、それは声帯模写ではなく自分の声で十分に歌い切ることができることだ。自分の小節が自在に出したり引っ込めたりできることである。

 
歌手は金鉱を掘り当てろ

 最近、歌の交流を盛んにしようと東京で音楽祭と名のつく、世界の歌手のコンクールが開かれるようになったが、そこではっきりしてきたのは、外国人歌手と日本人との「声帯」の幅の違い。肉体的に彼我の相違があるのは、これは仕方のないこと。でも、日本人の歌手の場合、自分の声を鍛えることを忘れているように思う。

 特に若い人たちの新しい歌を聴くと、声がどれもこれも似ている上に、なかには変声期そのままの声を張り上げて歌っているのもある。

 昔から、日本の「歌藝」の世界には、「一声二節(いちこえにふし)」という鉄則があるように、自分を鍛えないで、自己の真の力は出てこないもの。

 いくらマイクの性能が良くなって、機械的なマジックがやれるからといっても、声そのものが完全でなければ、決して人の心を打ちはしない。マイクに頼りきって、声を作って歌っている人を見るたびに「ああ、藝がないなぁ」と思ってしまう。

 これでは、どんなに人気の波に乗っても、すぐに駄目になってしまい、流行歌手でしかなくなってしまう。おなかの底から声を出し、死ぬまで歌えるように声を鍛え、どれが本当の自分の声なのかを研究すべきだと思う。ちょっとやそっとでは壊れない自分の声の「壺」を探せば、その中には黄金がぎっしりと詰まっているはず。

 
発声気くばりのすすめ

 声はその人自身であるが、ひとくちに声が良い、悪いと言うのはその発声にある。

 声楽の世界からみると、日本人は横式(、、)の発声法を基本としている。白人の竪式(、、)がこれに()をなしている。横式の日本人が古代に横穴住居であったことなどは別に関係ないと思うが、竪穴式もあったから……。いやこれは冗談。

 ()()の発声は、歌う時にハッキリと差を示す。話す時にも重要なものを示していると思われる。竪式の発声法を、べルカント唱法とよぶが、もちろんこの発声法では日本語の歌は唄えない。日本語が横式発声であるからだ。

 しかしだからといって横式唱法だけでは歌としてはつまらない。やはり両方の唱法を自由にこなせるところまでいきたいものである。

 竪式の唱法は、喉に直接負担をかけぬようにうんと広げて発声をする。この唱法では絶対に日本人にある「のど声」といわれるものはあり得ない。

 それにくらべると日本人はメロディを重視するから、小節や、ユリ、コロガシをうまい唄い方として横式の発声となる。
この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:25455文字/本文:30009文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次